第15話 青の起動

 半年後――日本の地方都市。


 ボトルの列は朝焼けよりも早く目を覚ましていた。透明の軌道に乗せられた空容器がシャトルのように充填ノズルの下をくぐる。かすかにミントと柑橘を混ぜたような香りが漂い、蒸気が天井の蛍光灯を柔らかく曇らせる。地方の果汁工場。昨年までは名産の桃や柚子がこのラインを流れていたという。今は澄んだ蒼がリズムよく脈打っていた。


 如月流星は視線で一本一本を追ってから、厚手のファイルを閉じる。長い息が、胸の底から抜けた。重い荷物を床にそっと置いたときの、あの安堵感に似ている。


「ついに発売か。ここまで、走り続けだったな」


 背中を軽く叩かれた。神無月絢真かんなづき・けんまが笑って立っている。相変わらずのギラついた目だが、目の下の隈は消えていた。


「まったく苦労させられたぞ、如月センセイ。……まあ、会った時より元気そうだがな、ってのはそっちの台詞か」

「お互い様だ。目の下のパンダはどこへ行った」

「青の中に溶けたよ」


 冗談めかして言いながら絢真はライン脇の試験ボトルを光に透かした。液面に輪のような光が移り、青がほんの少しだけ深く見える。ラベル校了版には挑発的なキャッチが躍っていた。


『身体を作り替えろ! BLUE POTION』


 表は攻め、裏は守り。栄養成分表示は堅実に、曖昧な効能は一切書かない。薬機法と景表法のラインを流星は毎晩のようになぞった。その痕跡がファイルの隅に折り目となって残っている。


「出荷ロット、二千四百。ECは今夜から受け付け開始。量販は、まずは十店舗から。……並べて、動きを見る」

「並べる前に売れてもらわないとな。売れなきゃ――」

「――ラ・パンテラが干上がる」


 二人は同時に言って、同時に黙った。充填機が次のボトルに流星の意識を押し戻す。キャッパーが銀色のキャップを軽く叩いて封をする、その歯切れのいい音が、今日という日を何度も宣言していた。


 半年前。日向から最初の連絡が入ってから、時間は砂利道のように長く、そして一瞬だった。


  ◇◆◇


 最初の難関は輸送ルートだった。レナトゥスから日本へ真っ直ぐに線を引けば、そこには検疫と政治と疑念が重なる山脈が立ちはだかる。流星は最初から迂回を選んだ。隣国バル・ベルデへ輸送し、そこで「茶葉」として一次加工し、通関を抜ける。商社の鼻と脚を持つ絢真に、流星は真っ先に電話を入れた。


「茶葉か。いいね。昔から人類は不思議な葉っぱを、とりあえず湯に浸けることで話をややこしくなくしてきた」


 冗談の裏で絢真は動いた。倉庫、輸送、名義、契約、検疫対応――箱を重ね、線をつないだ。原料の正式名称は出さない。「ハーブN」。型番以外は伏せ、社内でも知る必要のある最小限に絞る。成分分析は通すが、分析からは何も出ない。そもそも出るはずがない。魔力は機械の数字にならない。


 原液は、日向から「失った四肢も再生するくらいの効果」と聞かされていた。流星は笑えなかった。笑える話なら、ここにいない。まずは濃度。清涼飲料という器に収まるだけ薄める。希釈、ブレンド、pH、安定化。地方工場の老練な技師が懐の温度計みたいな手つきで釜を見張り、絢真がバランスを口で覚え、流星が記録を積み上げる。


 初めて商品濃度に近い試作を飲んだのは、深夜二時、出荷テストの合間だった。絢真は一口で目を閉じ、二口目で笑い、三口目の前に表情を引き締めた。


「――これはマズいな」

「味は悪くないだろ」

「味の話じゃない。効果が高過ぎる」


 全身の疲れが、木の葉が一枚落ちるみたいにスッと抜ける。頭の奥に熱が広がって、しかし手は震えない。心拍は上がりすぎず、視界はむしろ落ち着く。冴えるのに尖らない。絢真はそのまま夜明けまで在庫表を整え、朝になっても眠くならなかった。鏡を見て、目の下の隈が消えているのに気づいたとき、彼は笑う代わりに深く息を吐いた。


「ああ、これは危ない」


 危うい、ではなく、危ない。売れば売れる。売れ過ぎる。売れれば目立つ。目立てば、いろんなものが寄ってくる。流星はファイルの新しいタブに「想定質問状(厚労省)」と打ち込み、空欄を一枚ずつ埋め始めた。


 商品化はいつもの飲料のように滑らかではなかった。ラベルの言葉ひとつで越えてはいけない線があり、色の濃さひとつで印象が変わる。匠海は現場を離れていたが、チェックリストとリスク広報の草案をメールで送りつけてきた。彼の眉間の皺が、文面の向こうでも見える気がした。


「ECは体感の言葉に寄せろ。店頭はビジュアルで雰囲気を作れ。効能は書くな、匂わせるな。ただし、飲み過ぎ注意や未成年への訴求制限は目立つ位置に」


 パストール経由で小さなNGOにも話を通した。もしも問い合わせが来たら、「山間の農家の持続可能な作付けのためのフェアプライス」という言葉を先に出す。飲む人の回復だけでなく、作る人の回復の話も添える。そのためにラ・パンテラに送った前受金で乾燥庫が二棟増えた。牛が増えた。日向の短いメッセージはいつも簡素だが、時々、写真が添えられた。泥のついた両手、笑う女たち、青い空。そこに魔法という言葉は一度も書かれていなかった。


  ◇◆◇


 ラベルの最終会議は工場の会議室で行われた。壁には白いボード。正面には色違いのラベル案が二枚。ひとつは攻め、ひとつは守り。


 攻め――『身体を作り替えろ!』『青い回復』『MP満タン』。まっすぐでゲーム的、若い。守り――『集中・回復・休息のサイクルを整える』『昼の矢印を夜に戻す』。抽象的で穏やか、大人。


「ABで行こう」


 流星が言い、絢真が頷いた。


「店頭は攻め、ECは守り。反応を見て切り替える。SNSは……コラボの種を撒いておく。配信者に先に飲ませる。タイアップの原稿は俺が書く」

「禁止ワードと注意書きは、ここ。妊娠・授乳中、運転前、未成年の多量摂取、ドーピングは競技規約に従うこと、自己責任――」


 流星はボードに赤で線を引き、小さな文字で分量を足した。景表法のグレーゾーンと薬機法のブラックの境目は冷たい。言葉に温度を足せば、たちまち踏み越えてしまう。絢真は攻めるが、流星は引き留める。その綱引きのロープは二人の間で去年から何度も手汗を吸ってきた。


「サンプルの抜き取り対策は?」

「封緘シールはこれ。回収リストは俺。倉庫の出入りはNDA必須。工場の人にも茶葉以上は話さない」

「アスリートの問い合わせは?」

「禁止物質は不検出。ただし『競技前は各自の規約をご確認ください』。FAQも用意しておく」

「売れ筋の味は?」

「青い味だよ」

「なんだそれは」

「飲めばわかる」


 笑い合ってから、二人とも真顔に戻った。笑えるのは、まだここだからだ。外に出れば、笑いは音を立てて割れるかもしれない。


「さて、売れてくれなきゃ、日向たちが干上がっちまう」

「任せろ。ちゃんと売ってやるよ」


 絢真は軽く拳を作って、流星の肩にコツンと当てた。流星は胸ポケットから厚い封筒を出し、絢真の手に乗せる。


「売るなら、守る言葉も一緒にだ。もし任意のご説明が来たら、これを読んでから話せ」

「任意の……はいはい。こっちは友好的なお誘いが来たとき用のテンプレを作っておく」


 大手飲料からの「友好的な」打診は来ないと考える方が青い。来たらどう笑うか。どう断るか。どう受け流すか。流星は封筒の口を指で押さえ、息を吸った。青いボトルが光を飲み込み、会議室の壁に揺れる青を投げた。


  ◇◆◇


 出荷は夕方に始まった。フォークリフトがパレットを引き上げ、トラックの腹に積み込む。荷台のシャッターが下りると、青が一瞬で闇に包まれる。走り出した白い車体は、工場の敷地を一周して公道に乗った。工場の若い社員が手を振る。絢真が全員に缶を一本ずつ配り、栓を開けさせた。


「身体を――」

「作り替えろ!」


 合唱。笑い。泡の音。工場の空気が、少し軽くなる。流星は一口だけ飲んで、喉の奥に落ちる冷たさを確かめた。効き目は知っている。知っているから、今は一口で止める。これから長い夜が始まる。


 ECサイトの管理画面を開いたのは、午後九時。カウントダウンの数字がゼロになると同時に最初の注文が入った。次の注文は五秒後、次は二秒後。広告は打っていない。コラボの配信者が事前に録っておいた動画を一斉に上げたのだ。青い缶を持った手が画面の中で踊る。コメント欄に「魔法の薬」が躍る。流星の指がキーボードの上で止まった。


「速すぎないか?」

「速すぎる。……けど止めるな。今は受ける」


 絢真がスマホを耳に当て、倉庫に電話を回す。流星のタブに新しいメールが飛び込んだ。件名は淡々とした事務の言い回しだった。


『任意のご説明のお願い(健康増進法・薬機法関連)』


 同時に、絢真のスマホが震える。知らない番号。だが社名は大きい。礼儀正しく、好意的なトーンで、短く。


『一度、御社の今後のご成長について意見交換を――』


 青い波が同時に三方向から押し寄せる。注文の波、行政の波、業界の波。どれも味は違うが、油断すれば足をすくう。流星は身を前に出し、モニターと封筒とペンを一直線に並べた。鳴り続ける通知音を一本ずつ掴んでいく。その瞬間、画面の端で別のアプリがふっと明滅した。海外メッセンジャー。送り主はフリオ。メッセージは、短い。


『バイクが増えた』


 工場の窓の外はもう夜だった。青い缶が積まれたパレットの影が床に規則的な暗さを作る。青が売れれば、村は生きる。青が目立てば、誰かが嗅ぎつける。流星は喉の奥の青い冷たさを思い出して、カップの水を一気に飲んだ。紙コップの縁が、指先で小さく潰れる。


「――走るぞ」


 独り言のように言って、流星はタイピングを再開した。絢真は電話の向こうで笑い、怒鳴り、また笑う。工場の充填機はもう止まっている。だが、青の波は止まらない。止めるべきなのは別のものだ。止めていいのは、誰かの悪意であり、彼らの焦りであり、無用な言葉だ。止めてはいけないのは、向こう側へ届く金と、こちら側から届く呼吸だ。


 青のボトルの中で光の輪がゆらりと揺れた。誰かの手の中で、その輪がまたひとつ増える。そのひとつひとつが、遠くの斜面の畑に、薄い灯りをともす。バイクの音の方角に風が走る。夜はこれからだ。

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