月光の演奏会

朱雪

第1話


 夜空に輝く美しい満月に照らされ、爪弾く指先はまるで鍵盤の上で踊っているかのように曲を綴っていく。

 暗くゆったりとした曲調は夜の雰囲気にとても合い、弾いている本人さえもこの演出に酔っていた。

「音楽とは目に見えないアクセサリーのようなものだ」

 曲が終盤に入ろうとしているタイミングで初めて演奏者が口を開いた。

 年を重ねた年配の男性特有の少し掠れた渋い声だ。

「場の雰囲気から個人の感情の起伏までもその音によって左右させる。静かな曲は落ち着きを、明るい曲は煌びやかさを演出する」

 男が言い終わると同時に鍵盤を踊る指も最後の音を発して止まった。

 天窓から差し込んでいた月の光は未だ男と鍵盤を照らしているが、アンコールに応えることはないという風にササっと座っていた椅子から立ち上がり朱色の布を鍵盤に被せた。

「さて寝るとするか」

 鍵盤蓋と屋根を下ろして部屋から立ち去った男は欠伸を一つ。

「月光の中でピアノの演奏とは、夕食に酒を飲み過ぎた」

 部屋から出た途端、眠気とは別に気恥ずかしくなった男は鼻を意味もなく擦って小さくため息を吐いた。

「誰もいないのに、誰に向けての言い訳をしているのか。あぁ、いかん。さっさと寝てしまおう!」

 大きな独り言を呟いた男は頭を振り、そそくさと寝室へ続く廊下を急いだ。


 しかし、その背をこっそり見つめる一つの人影があった。

「ふっふ〜、聞いちゃった、見ちゃった。旦那様の月夜の孤独な演奏会」

 それはこの屋敷に住み込みで働く使用人の娘だ。

 イタズラっ子のように口元を手で覆い隠して含み笑いをする様はおばちゃんのようではあるが、まだまだ彼女は娘と呼んでも差し支えがない程に若い。

「若い頃からピアニストとして活躍していたと先輩から聞いてましたが、まさかあんなに上手とは人間誰でも得意分野があるものですねぇ」

 陽気に笑いながら例のピアノが置いてある部屋へ堂々と入る。

 中にはもちろんピアノがあるだけで月の光はとっくに傾いて今は床を照らしていた。

「あっはは、さすがにもう無理ですよね」

 先ほどとは違う乾いた笑みを浮かべて、使用人の娘は月の光が当たる位置に立った。

「ふっふ〜、たしか静かな曲では落ち着きを演出する、だったかな」

 娘はすぅと息を吸い、ゆっくりと吐いた後エプロンのポケットからボールペンを取り出してサッと振るった。

 曲線を描きながら、まるで波を表現するかのように振られるボールペンの動きは目を惹くものだった。時折左手で何かを捲るような動作を加えながらも娘の顔は常に愉しげだった。

 まるで先ほど男が弾いていた曲を指揮するかのように娘は夢中になって月光の中ボールペンを振り続けた。

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月光の演奏会 朱雪 @sawaki_yuka

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