ラムネ
サブ部長
ラムネ
七月某日、地元では有名な川の堤防沿いに青年と少女が並んでいた。二人とも、各々が好きな柄の浴衣を着用し、少女に至っては髪もお団子に整え、今日この時のために気合を入れていたことが窺える。
連日の猛暑日が影響してか、太陽の光が届かない午後八時現在でも、気温二十八度と熱帯夜。ハンディ扇風機や扇子を駆使しても尚、暑さが存在を主張してくるが、二人は気にも留めない。二人の目を、耳を、心を満たすのは恋人と花火大会に来ているという事実だけ。二人の手にあるビー玉を落としたラムネが、減る様子を一向に見せず、冷たさを感じていた手も、今では結露のせいで濡れている。
「莉都、ラムネ飲まないの?」
花火が一旦落ち着いたタイミングで、少女の方が青年の方を向き、声をかけた。ラムネ瓶に付いた雫が垂れ、少しくすぐったい。青年は、少女の方には顔を向けず、つい先程まで花火が咲き乱れていた空をぼーっと眺め、黙っている。
「──── 」
やっと口が動いたかと思えば、運悪く花火が再開してしまった。花火の大きな音に人間の声が勝てるはずもなく、かき消され、少女の耳に届くことはない。
それでも少女は構わなかった。ただ、今こうして、数々の困難を超えた先に結ばれた恋人といるだけで幸せなのだ。
少女は満足気に微笑みながら、再び花火に視界を預けた。
──── これは、二人が焼死体になるまでの物語。
◇◆◇◆◇
その日は雷雨だった。朝には晴れており、雨などとは無縁の空をしていたが、いざ西を見ればどす黒い雲が見受けられる。その雲は小学校の理科で習うように東へ向かい、夕方からはその猛威を存分に奮っていた。
傘をさせば刺されるように伝わる振動。近くに人の声も聞こえなければ視界も悪い。一部の地域では避難勧告が出ているとかいないとか。そしてオマケだと言わんばかりに雷まで鳴り出す始末。
そんな天気が夜も続く中、都内某所の一軒家の一室。部屋の中に響き渡る雨音に負ける劣らずの大きさで、一人の赤ん坊──── 霧島あずさが産声を上げた。
彼女はなんとも、運が悪いとしか言いようがない。はたまた、前世で相当な悪行をしてきたのか。まさに親ガチャ大失敗。親ガチャという言葉を使う奴は、ただ自分で努力を怠っただけだのどーなど、あながち間違いではない意見を言っている方もいる世の中、彼女は間違いなく最初から親が悪かった。なにせ、犯罪絡みの仕事をしているのだから。
家に置かれた一家の全財産は全て穢れており、捕まることを恐れた屑の男女二人は公務員を、公共の場を、人の目を嫌い、挙句の果てにはあずさの戸籍が出されることは無かった。義務教育など存在を忘れられていた。
勿論、病院もだ。一応、闇医者のような者は存在する。薬だって処方される。医師免許?薬機法?そ
んなもの知ったこっちゃない、そんな界隈だが。治療は可能であった。一周まわってバカにしたくなるほど高額な金を支払い、国から承認が降りていない薬と治療法の危険性に目をつぶれば。
しかし、あずさに薬や病院も必要なかった。屑親はこのことをたいそう喜んだ。薬を買う金も医者に診てもらうための金も必要ない。それ乃ち金をほかに回すことが可能。自己投資でも仕事の準備でも自由に使うことが出来る。あわよくばそれで稼ぎを増やす夢だってみることが出来る。まさにドリームサイクル。
こういう経緯があり、あずさはたいそうチヤホヤされながら育っていった、高校生までは。
◇◆◇◆◇
内山莉都、正義を愛する悪という言葉がピッタリな両親の元に生まれ、世間一般とは少しズレた環境下でスクスクと育った。
具体例をあげるとすると、彼の親の出勤時間だろうか。とにかく不定期すぎるのだ。早い時には早朝の三時から遅い時には深夜二時。一時間で帰ってくることもあれば一週間近く帰ってこない時も、毎日のように出勤することもあれば休みの範疇を超えてるであろう日数家にいる。これが両親共に、ときた。
同時に長期間居なくなることこそ少ないが、それでも両親共にあまりにも不定期すぎる出勤を何年も繰り返している。
不安定な仕事と言えば芸能関係者を疑うかもしれない。しかし、両親は莉都に、関係する作品のことも伝 えなければ、莉都が偶然見かけることもない。勿論、台本を手にしている姿も見かけたことがない。当時小学一年生の幼い頭でも、己の両親が芸能関係者などでは無いことは分かりきっていた。
では、なんの職業なのか。何度か実際に尋ねてみたことがある。しかし、毎回はぐらかされ、答えを得ることは出来なかった。ところが、莉都にとっての一生の疑問となると思われたこの壁は、彼が小学二年生の時に一旦姿を消すこととなる。
小学生の恒例行事、親への職業インタビューがきっかけだ。嘘が吐けない純粋な子へと育った莉都にとって、この機会は合法的に自身が抱える疑問へ終止符を打てる最高の可能性だ。
これを逃すまいと、先生から夏休みの宿題用に配られたプリントと、お気に入りの筆記用具が入った筆箱を手に、意気揚々とリビングへ押しかけた。夕日が沈み、外はもう真っ暗な時のことである。
「パパとママにインタビューがあります!」
両親は、照明に照らされたテーブルで、毎日の日課である複数の夕刊とにらめっこをしている。そんな両親に、プラネタリウムもビックリなほどキラキラと輝いた瞳で、莉都は話しかけた。両親は目線を上げた途端に飛び込んでくるその子供特有の可愛さと言ったら、カメラに収め結婚式やどこかにばら撒こうものなら失神するものが出てもおかしくない、軽くテロを起こせると親バカ目線で思うほどである。
「なになに?」
「おしごと何して──── 」
「この前も言ったでしょ、ママとパパのお仕事は秘密よ」
くい込み気味の回答が母親から返ってくる。そしてつまらなさそうな顔で作業に戻ってしまった。これは毎回のこと、莉都だって分かりきっていた反応だ。しかし今は違う。こっちには必殺技があるのだ。
「夏休みのしゅくだいで、しょくぎょうインタビューがあるんだ!」
莉都が「これはどうだ!」と言わんばかりに必殺技を放つ。例え偉大な存在である自身の親でさえ学校には逆らえないということを莉都は知っているのだ。彼が提出期限がギリギリの書類にサインを求めても、うっかり体操着を当日の朝に出しても、なんだかんだ学校で困らないよう行動してくれる。長年の疑問に完璧な終止符が打たれる、とウキウキな顔には勝ち誇った表情が浮かんでいた。
しかし、その愛らしい息子とは対照的に、二人は凍りついた表情を見せていた。先程まで複数の夕刊に釘付けだった計四つの目は、持ち主の戸惑いを反映させている。
体感一時間の時が流れ、ようやくアクションを起こしたのは父親だ。
「莉都・・・・」
親が子に見せる優しい目で、静かに近づく。そして肩を優しくつかみ、諭し始めた。
「ごめんな、パパ達のお仕事はどうしても教えられないんだ。代わりに歩おばさんにインタビューできないか聞いておくよ」
優しく、静かな飴でコーティングされた内側、目の前にいる大人の強く、恐ろしく、自分自身に対して抱かれた本気の恐怖を莉都はその時感じ取ってしまった。両親の仕事は何か、莉都が抱いた疑問は──── 決して尋ねてはいけないという形で終止符が打たれる。鼻が痛くなる程濃い香水が、両親の身体からは匂っていた。
◇◆◇◆◇
「あずさ、君も俺らの仕事をそろそろ手伝ってもらおうと思う」
あずさが本来中学を卒業する日、父親から伝えられたのはこの言葉だった。サラサラに整えられた自然な黒髪を胸下まで伸ばし、家庭教師を名乗る人物からの指導のおかげで、なんとか人並みの知識と学力は手に入れてたものの、どこか世間知らずで、親に甘えられて過ごし、親の影響を受けやすく、それでも反抗期は迎え──── 、という歪な女の子が出来上がっていた。
「仕事?」
ダイニングに置かれている椅子でまったりとしていたあずさは、背もたれに全体重を掛ける形で後ろに立っている父親を見上げた。絶賛おやつタイム中の彼女の手元にはコーラとドーナツ。テーブルにはスマートフォンが二台。片方には動画配信アプリにてライブ配信されているニュース番組が表示され、もう片方にはSNS が画面に映っている。
あずさのお得意芸、スマホを二台持っている特権をフルに活用したマルチタスクだ。家からでは手に入れにくい世界情勢をふたつの方面から知っているという名目のただのネットサーフィン。傍から見れば奇妙な状況かもしれないが、家でテレビの規制が比較的厳しいあずさにとって、世間一般のテレビを見ながらスマホをさわる感覚と何ら変わりない。
そんなあずさから言わせてみれば世の中の女の子と同じ日常に突如土足で不法侵入してきた不届き者こと父親の声は、とにかく不快でたまらなかった。おまけに、唯一規制が緩いと言っても過言ではないSNS の画面を物理的にも精神的にも見下ろしている父親の視線を自身のスマホに感じる。あずさが聞き返したのにも関わらずしばらく無言で立っているのが説得力を増している気もする。
あずさはドーナツを口に咥え、父親の顔から目線を外さぬまま、スリープ状態にした。そしてドーナツを手に戻しがてら一口頬張り、コーラを流し込む。
「んで、仕事っていうのは?」
あずさは先程より厳しい口調で再び問う。
「すまないな、ぼーっとしていた」
そこでようやく自分がするべきことでも思い出したのか、父親が口で反応した。
(嘘つけい)
どうせくだらないことだろうとあずさは部屋に戻ろうと立ち上がる。そんな反抗的な我が娘の行動をあずさの父親は肩を掴んで静止した。怒鳴りつけるのかと警戒したあずさは先手を打つべく父親を睨む。両親にデレデレに育てられてきたわがまま姫の睨みは、親にとっては攻撃力カンスト案件。かれこれ何百回もこの睨みで両親の説教を撃退してきた。
しかし、今回はそう上手くいかないようだ。
──── 目の前にい人物は、生まれて数十年ともに過ごしてきた父親とは到底思えない目をしていた。
◇◆◇◆◇
「仕事でミスした、ここから出るぞ!」
莉都が疑問を心の奥深くにしまってから時は経ち、成長期を迎え、母親の身長も抜かし、ウルフカットが似合う青年へと成長を遂げていた。そんな高校一年生の冬、珍しく父親が、慌てた様子で家へ帰ってきた。
扉が開いていないにも関わらず聞こえてくる足音、最初は誰のものかと家にいる母親と雑談していたが、それがまさか自身の父親だとは夢にも思わなかった。何せ、普段から、たとえそれが莉都を叱っている最中だとしても、隣に声が一切聞こえない程物静かだった人物である父が、騒音問題の端くれに足を突っ込ませながら帰ってくるなど、誰が予想するだろう。
そんな母親と莉都の年齢からしたら穏やかな雰囲気のリビングとは正反対の大きな扉の開く音がし、響き渡る大声。莉都がそれを自身の父親のものだと理解するのには時間を要した。それとは対照的に、母親は優しく微笑んでいた顔を声が聞こえるや否や真剣な顔に切り替え、玄関へ向かってしまった。
一分も経たずに、母親はリビングへ帰ってきた、先ほどの冷静さを欠いた慌てた様子で。小さなキャリーケースと共に。
「莉都、今すぐ荷物をまとめて。三日分の服と下着、後はこれに入るだけ。学校用品は入れなくていいから」
そう言って、例のキャリーケースと指差す。莉都は勢いと、先ほどの穏やかな空気から代わって漂うただならない雰囲気に押され、頷いてしまった。それを確認した母親は、再びリビングから姿を消してしまった。自身も荷物をまとめるのに向かったのかもしれない。
(は?)
この時、莉都の頭の中には「?」しか浮かんでいなかった。正直に言うと、母親の言っていることの六割は理解していない。いや、六割は盛ったかもしれない。何を言ったのか覚えてはいるものの、頭にはなんとか留まらせているものの、処理が追いついていないのだ。出ていくから荷物をまとめろとは、つまり引っ越しを意味するのだろうか。だとしても急すぎる。そのため、変換の仕方には自信があっても、それが間違っている、間違っていて欲しいと感じてしまっている節があった。
とは言っても、とても冗談とは思えない形相と勢いをおまけに添えられた言葉だ、さて従いますかとなる──── 訳があるか。莉都とて、もう良くも悪くも親の言うことは絶対という歳ではないのだ。何が添えられていようが、やれと言われたことにはそれ相応の理由が欲しいものである。今日が初めましてのキャリーケースをその場に留まらせ、莉都は両親の部屋へ向かった。
両親の部屋の扉はこんな時でも閉ざされていた。小さい頃から、入ろうとするどころか、ドアノブに触ろうとしようものなら阻止され、両親が揃っていないうちを狙ったとしても、莉都の部屋にはない伴がかけられ、肝心の伴をお目にかかることはなかった。そんな開かずの扉を慎重に三回ノックする。生まれてきて十六年、こうしてノックすることすら初めてかもしれない。
「何?」
扉の向こうからくぐもった声が聞こえてきた。母親のものだ。
「荷物まとめるってさ・・・」
何故かこの後の言葉が続かなかった。うまく言葉が編み出せなかった。普段見せない両親の一面のようなものを目の当たりにし、それに押されているのかもしれない。脳内にはありとあらゆる質問が浮かんできたが、どれもこれも頭の中をバラバラに駆け巡るだけで、まとまってくれなかった。「いくらなんでも急すぎるだろ」と問いただすことすら、莉都のやりたいことリストに挙がらなかった。
「さっき言った通り、三日分の服と下着、後は私たキャリーケースに入るだけの荷物をまとめてちょうだい。学校用品は入れなくていいから。遅くても一時間後には家出るよ」
そんな莉都とは対照的に母親の声は詰まりなくスラスラと聞こえてくる。そしておまけとしてついてきたタイムリミットの一時間。「遅くとも」というおまけのおまけ付き。なんと豪勢で最悪な回答だろう。仕方なく諦め、キャリーケースを回収し、自身の部屋へと向かった。
まずはクローゼットから、使用頻度が高い組み合わせの服を三組、下着三着、パジャマを三組取り出す。
そしてそのまま適当にキャリーケースの中に。キャリーケースの容量が少ないのか、はたまた莉都がしまうのが下手なのか、想像より場所を使ってしまった。なんとかネットの力を借りつつ、ゲーム機、充電器、お気に入りの本、筆記用具ʻ 、折り畳み傘、その他何となく持ってていきたいもの達をネットと力を頼りにひたすら詰め込む。途中靴下の存在を思い出したが、あいにくそのスペースはもうなかった。ということで少しお気に入りのリュックを取り出し、そちらに三組入れる。その影響で思わぬ空いたスペースには、優先順位こそ低かったが持っていきたいと感じたものを詰め込むことにした。
予め「遅くとも」と宣言された通り、両親からタイムアップの通告は三十分程できてしまった。
「準備できたか?そろそろ家出るぞ」
父親が扉越しに話しかけてくる。
「はい」
リュックを背負いながら返事をする。重くなったキャリーケースを床が傷つかないよう持ち上げ、扉を開けた。
目の前に、部屋の前に父親は立っていた。
「桜は車を出しに先に行っているからな」
随分と声色が柔らかくなり、足音は全く聞こえなかった。一見落ち着いたように見える。しかし、顔はまだ強張っており、指を休みなく動かし、追い込まれている状態は変わらないようだ、しかし、莉都の背中にあるリュックを目にし、怪伬な顔をするくらいの余裕はあるらしい。
莉都は父親の言葉に、了承することも、反発することも、首を縦にも横にも動かすことなく突っ立っていた。それを無言の了解とでも受け取ったのか、「行くぞ」と一言、莉都のよりも大きいキャリーケースを持ち上げながら玄関に向かい始める。
「そうだ、さっきは言っていなかった。悪いが、今連絡を取り合える人とは二度と連絡を取らないでくれ」
そんな父親の先を行く背中を目に、衝撃的な告白を耳にし、莉都の頭にはようやく事態の異常性と重大さが理解できた。
今まで触れようものなら表面上静かに避けられ、防がれ、妨害され、知ることを諦め、抑え、それでいいのだと納得してきた。世間一般にも、莉都の友達にも、親の職業に興味がない子供がいるように、自分はそうなんだと騙してきた。ふとした拍子に膨れ上がる追求心という名の風船を、何度も態度で覆い隠し、押しつぶし、空気を抜いてきた。それなのに、それなのに、今目の前に背中を向けている人物とその配偶者は、なんの予兆もなく、「仕事に失敗した」の一言で莉都が物心つく前から住み、慣れ親しんできたこの家を捨てるる覚悟を決めた。それが莉都にとっては身勝手以外に思えなかった。何も知らない仕事の失敗などこの故郷を捨てるに値する理由になり得るわけがない。
そもそも、捨てられるのは故郷だけで済むのだろうか。まず、人間関係は間違いなく捨てられることは確定した。学校用品は必要ないとも言われた。ということは学校も変えることになるはずだ。莉都はもう高校生、ある程度家が離れようが、通学時間こそ伸びてしまうだろうが、同じ学校に通えるはず。それなのに、教科書はおろか制服さえ不要とされている。つまりだ、今から莉都達が向かうのは、もう通学するにはあまりにも遠すぎる場所、それこそ県を複数はさむ可能性だってある遠い場所ということだ。異常すぎる情報量に押され、変に冷静になってきた莉都の頭には分かる。今回捨てるのはこの家という故郷だけでなく、慣れ親しんだ校舎、教師、そして友達を筆頭とした人間関係。それもあまりにも突然、他人の意思に従って。
「・・・・ふざけんなよ」
気づけば言葉が口から漏れていた。
「なんだ?」
どうやら漏れ出た言葉は、四十代後半の人物には聞こえなかったようだ。ならば言ってやろうではないか、耳に聞こえるくらいの大声で。
「ふざけんなよ!今まで俺には何も言ってこなかったくせに、いきなり失敗したからって引越しだ?」
「莉都、大声はやめてくれ」
「まともな理由がないのに、家を出ろ?学校を辞めろ?はいそうですかと納得できるわけねぇだろ」
「だからそれは仕事が──── 」
「それが理由になると思うか!」
莉都の呼吸が荒くなる。人生初めてと言っても過言ではない大声をあげ、脳内の血管が全て切れそうだ。
温度の上がった血がドクドクと血管を波うたせながら流れているように感じる。おまけに感情に任せて使用した喉はすでに悲鳴をあげていた。
「莉都・・・・、頼むからいうことを聞いてくれ」
父親が落ち着いた態度で返してくる。その静かな声を聞いた時、莉都は初めて、父親がキャリーケースを床に置き、こちらに辛そうな顔をむけていることに気がついた。そうかこちらが従わないとわかったから情に訴えるつもりか、と怒りに任せた脳は判断したが、不思議と冷静になっていく。
「もう引っ越しは確定?」
「あぁ」
ここで父親が否定することを祈っていたが、所詮は一般人の祈りであり、なんの効力もない。足が床に触れ、重力に耐える感覚ははっきりとしているため夢でもない。あまりにも需要が考えにくいため、変にドッキリなわけもない。
「提案があるんだけどさ」
莉都はもうまともに目の前にいる人物の顔を見ることができなくなっていた。見るだけで怒りと悲しさと、今からする提案へのちょっとした罪悪感で吐き気がしてくる。
その込み上げてくる吐き気をグッと飲み込み、どこかで開きたくなと主張している口を無視し、掠れた声で話し始めた。
「──── 俺、ここに残る」
「莉都‼︎」
父親がキャリーケースから手を離し、足音を立てながら近づいて、肩を掴んできた。
「ダメだ!それだけ絶対にダメだ‼︎」
「確かに家事だって一人でできるか分からないけど・・・・、でも──── 」
「そういう問題じゃないんだ・・・・」
肩を掴んでいる力が強くなる。父親は床に膝をつき、莉都にしがみつく様な懇願する様な姿勢だ。一丁前に仕事をしている大人がこんな姿勢をとることができるのだなと驚いている莉都は莉都で、吐き気の代わりに込み上げてくるもので顔がぐちゃぐちゃになっている。
そんな異様な光景と空気に莉都が我慢できなくなる直前、父親が動いた。
「わかった・・・・、全て話す。だから、お願いだからついてきてくれ・・・・」
絞り出したかのようなカスカスの声と、赤くなった目で。普段泣く姿を見せない父親の、これほどまでに見苦しい姿に、莉都は折れてしまった。結局、父親の情に訴える作戦は成功したのかもしれない。子供は、親が弱みを見せた時は、おとなしく従ってしまう生き物なのかもしれない。その親が日常的に強がっていたなら尚更。
こうして莉都は、ありとあらゆるものに突然の別れを告げることすらできず、いつもとは違う車で、いつもとは違う匂いと共に、いつもと違う重い空気で、いつもと違う道を走るのを静かに眺めるしかできなかった。そして、気分が落ち着いた父親から吐き出されるありとあらゆる言葉に、現実味を感じずにいられるのと同時に、後悔の念に駆られ、崩壊へのカウントダウンが始まったのであった。
◇◆◇◆◇
あずさと莉都が知り合ったのは、バイト先のコンビニエンスストアだった。
あずさが採用される一ヶ月前に、莉都は採用されたらしい。面接の最中に、休憩だった莉都との挨拶が最初の交流だ。あずさの中で、偏見の域に入るかもしれないが、コンビニバイトといえば、主婦か外国人が割合のほとんどを占めると考えていたため、莉都のような年の近そうな青年がその場にいることに、少し違和感を感じていたのかもしれない。初対面のはずなのに、彼のその本物の顔を、家に帰った後もはっきりと覚えていた。面接をしてくださった店長の声すら忘れたというのに。その後、無事に採用され、彼に話しかけたいと思っていたあずさだが、お互い入りたてということで、指導の関係か中々出会うことはなかった。
そして三ヶ月後、お互いに研修期間を終え、シフト時間がかぶることも何度か出てきた。
「あの、おいくつなんですか?」
お互い趣味がわからないもの同士が使う、雑談の始まりテンプレートそのものの質問であるが、意外にも最初に話しかけたのは莉都の方だった。
「十六です」
「あっ、同じだ」
話を聞いていくと、彼もあずさと同じで、あずさの年齢が気になっていたらしい。一ヶ月といえど、多少は従業員の年齢層と国籍も把握してきており、親しみやすいであろう日本人の十代から二十代が皆無であることに、多少の身の狭さを感じていたそうだ。もちろん、歳や国籍こそ違えど積極的に話しかけてくださる温かい方々はいたため、辛いということはなかったが、それでも同じような話題で盛り上がれる人を求めていたらしい。嬉しいことに、話の馬もあった。
そして二人には年齢以外の共通点も結構あるらしい。
「私、実は不登校なんだよね」
なんの流れでそうなったのかは忘れてが、気づけばお互いの学校の話になっていた。
「中学校までは普通に通学してたんだけど、高校からはサボりの延長線というか・・・・気づけば不登校になってて」
てへっとそれっぽい話を誤魔化す。生まれてこの方、学校なる施設になど一度も行ったことがないことは隠しておきたかった。変な人だったり、不審な人と思われたくないのだ。そう思われ、せっかく仲良くなれたというのに疎遠になってしまうのはなんとしても避けたい。それに、あずさとて、歳の近い話し相手を求めていなかった訳ではないのだ。
ただ、中学校に行っていなかった者が高校に行くことなど許されず、本物のJKとやらの話などできるわけがない。ということで思いついたのが不登校。我ながら良いアイデアだと思っている。
「だから、現役JKのくせに流行りとか全く分からない」
「分かる、流行俺も分からん。俺が通ってるの通信制だし、学校行っても会話する人いないし」
「だよねー。ネット見れば分からんこともないけどさ、なんか街中にいる高校生見ると違うよね」
「そうとう学校行ってないんだね」
「バレた」
こうして、二人はネットの流行りには強いが、それの代償か現実の流行りにはめっぽう弱く、自分と世間のギャップに困っていることが判明した。
「だからさ、正直にいうと霧島さんが普通の高校生じゃなくてよかったっていうか・・・・」
「私も内山さんが話の通じる人でよかった」
「それどういう意味よ」
決して出会える時間は多くないが、それでもこうして他愛もない話で盛り上がれるのが嬉しかった。ボロが出ないようにするためか、一人で家から出ることは少なかった。出られたとて、同級生の人と話すことなどあるはずもなかった。こんなにも人と話すのが楽しいとは。とくに意味がなくてもいい、会話の意味が求められることもない。くだらないことだろうが、笑えることだろうが、愚痴だろうが、趣味の話だろうが、なんでも相手は聞き、返事をしてくれる。それがとにかく幸せだった。
だからだろうか、本気で惚れたのは。
◇◆◇◆◇
だからなのかもしれない、惚れたのは。
引越しの後、時期も相まって全日制高校へ転入することはできず、通信制高校へ転校することになった。
遠出も規制され、不本意にあいた日々の時間を埋め合わせるために、そして家族となるべく近くにいなくて済むように、バイトを始めることを決める。知り合いや教師とバイト中に出会い、気まずい雰囲気になる恐れもないので、家からの近くだけでコンビニと決めた。初めてのバイトということで心配していたが、先輩の主婦の方がとても優しい方で、苦痛を感じることも少なかったのは運が良かったかもしれない。しかし、気持ちを割り切ったとはいえ、突然同年代とのコミュニケーションが途切れるというのは寂しいものだ。だからと言って、心の根底にまた突然の引越しの恐怖があるのか、学校での会話の輪にも入ることができなかった。思春期ということも加味すれば比較的良好だった両親との関係も、今では疎遠になってしまっている。その両親からの命令で、ありとあらゆる連絡先もリセットされてしまった。
そう、莉都はコミュニケーション能力の欠如の危機に瀕しているのだ。
そんな、心の底から楽しく会話することなく、どこか猫を被っていた莉都の前に、突然現れたのがあずさという存在だった。
どこか世間はずれな雰囲気を醸し出したその美少女の姿は、一目見ただけだったのにも関わらず、脳内にしっかりと刻み込まれていた。三ヶ月に再開を果たした際は、彼女が面接に合格していたことと、まだやめていなかったことが嬉しく、嬉しさのあまり調子に乗って声をかけてしまった程だ。コミュ力の著しい低下を実感し、なんともいえない気分になったが。
しかし、あずさの来るもの拒まずな性格が、彼のその落胆を全て吹き飛ばした。適度に相槌を挟み、莉都が言葉に詰まれば程よく補完、ぎこちなすぎる喋りにも楽しそうに返して、それがこちらにまで伝染する。
過去の親友には及ばなくとも、一緒にいるのが十分楽しかった。
不思議なものだ。こうして出会う回数が増えるにつれ、自然と意識しだすようになる。年齢イコール彼女いない歴どころか恋愛したことない歴であった内山莉都、高校二年生にて人生初の恋だ。
恋愛漫画というのは案外伊達ではないらしい。気づけばあずさのことを考え、あずさの姿を探し、あずさと会話しているという事実が嬉しくてたまらず、あちらから話しかけられようものならその勢いで昇天できる自信がある。嬉しそうな楽しそうな顔をこちらに向けられた時も以下同文。街中で、バッタリ合わないかと常に期待すらしている。
しかし、いざその姿をバイト先で見たら見たらで大変なのだ。彼女のその愛おしさの塊である顔を見つめたいという気持ちと、そんなに見つめていれば気持ち悪がられるのではないかという警戒心が脳内で大戦争を必ず繰り広げるのだ。自身は変質者じゃあるまいし、バレたら社会的に抹殺される視線を送っているわけではない。多分。
それでも、自分から合わせにいった目線を、いざ目が合えば条件反射で逸らしてしまう。挙動不審な動作と共に。これでは嫌われてしまう。自分は相手のことが好きであるというのに、こんな態度では相手からしたら嫌われていると誤った認識を与えかねない。分かっているのだ、脳内では。だが、目を逸らしてしまう。ああ、なんともどかしいことか。
◇◆◇◆◇
莉都と運命的な再開し一ヶ月、あずさの心の中には不安でいっぱいだった。目を意図的に逸らされている気がするのだ。
(まずい、嫌われたか?)
自身が結構なショックを受けていることに驚かざるをえない。相当重症だ。これでは合理的な判断ができなくなってしまう時期も近いかもしれない。いっそのこと少しの間だけ距離を取ることも考えた。
しかし、この危うい関係に一度亀裂を入れてしまうともう修復不可能になるかもしれない。それはなんとしても避けたい。莉都とはこのまま関係を続けるだけでなく、もっと深い関係にまで持ち込みたいのだ。となると、もうここはヤケクソ精神で行動に出たって損害は少ないかもしれない。わがまま姫の本領発揮と行こうではないか。
「あ、ああああああ、あの!」
とある日のバイト終わり、ありったけの勇気を振り絞り、あずさは莉都に声をかけた。普段、雑談しているというのに勇気を振り絞った声がけなど合ってたまるかという思いだったが、背に腹は変えられない。
「な、なに・・・・?」
ほら相手は既に戸惑っているではないか。だが、出した勇気は最後まで使い切るのが人生というやつだろう。あずさの中で変な哲学が世界に産声をあげようとする程の緊張を、「ふう」と本気で声が出るほどの息と共に吐き出して、そしてついに、覚悟を決める。
「LINE 交換してくれませんかぁ⁉︎」
言った、言えた、謎に敬語で言えてしまった。恥ずかしさのあまり、あずさは自身の顔を手で覆ってしまう。
(無理無理無理無理、恥ずかしい。恥ずかしさで死ねる。いや、いっそのこと誰か殺して)
心臓の荒れ狂った鼓動が耳に伝わってくる。息が自然と上がり、持久走でもやってきたのかと思えるくらいゼェゼェハァハァと、とにかく酸素が足りない。そんな明らかに挙動不審なあずさの姿を前にして、莉都がゆっくりと口を開いた。
「う、うん。もちろん・・・・」
(ああああああああああああああああああああ)
脳内で「成功です!成功です‼︎」と、ロケットの打ち上げでも成功したかの如く、ありったけの歓声が響き渡る。あずさは莉都の返事に、無邪気な子供のようにパァッと顔を明るくして、大きい動作をしながらスマホを取り出した。
その日の夜、あずさはあまりの嬉さに笑みが止まらなかった。考えてみてほしい、もうバイトがない日でも話すことができるのだ。好きな時にメッセージを送ることができるのだ。相手の時間が合えば、声だって聞けるのだ。それはもう目の前に莉都がいるも同然。こんな状況、嬉しい以外の何者でもない。まだ画面には、きちんと交換ができたかの確認のメッセージしかないが、これから先、莉都との楽しい会話で溢れていくと想像すると、スマホを抱きしめたくなる。
そんな浮かれた様子は周りの人にもダダ漏れで、夕飯のタイミングに父親に声をかけられた。
「楽しそうだな、ようやく連絡先でも交換したのか」
その冷たい声で一気に現実に戻される。それが不快で、あずさは父親の言葉を無視した。
「そうか、少し遅い気もするが、まあ順調と言ったところか」
「勝手に肯定扱いにするなよ」
「なんだ、間違っているのか?」
「・・・・」
一年前からそうだ。父親と、親ではない冷たい面を見せながら接する機会が増えてきた。わがまま姫必殺の睨みは忘れ去られ、逆に冷酷父の睨みと圧が会話を牛耳るようになった。そんな父親から与えられた仕事を、この一年であずさは何個かこなしてきたが、父親の冷たさは回を増すことに酷くなっている気がする。
母親は母親で、父親の仲間というか味方というか、あずさが父親に反発すると、あずさの方を説得するのだ。こうして、よくわからない、父親の仕事仲間と共に異質な仕事へと巻き込まれ、もう戻れない域にまで達している。ここで引き返せば、あずさの身体は一体何割残すことができるだろうか。検討もつかないしつけたくない。
せっかくの気分が、台無しだ。今回、説得役の母親が夕飯に同席していないのがせめてもの救いだが、それでも今の気分は最悪というほかない。
「ご馳走様」
食事をろくに味わわず、速さ重視で胃袋に詰め込み、その場を立ち去ろうとする。これ以上悪い空気に汚染されるのはごめんだ。
「おい待て、一言尋ねたいことがある」
あずさの背中に悪寒が走る。あずさの後ろ姿に向かって父親が声をかけたのだ。
「内山莉都に本気で惚れていないだろうな?」
「・・・・あぁ」
短く返事をして、あずさはダイニングを離れた。
(クソッ!)
荒れ狂った心を必死に抑え、二階に上がり、自身の部屋に行く。そしてそのままベッドに飛び込んだ。
(あとどれくらい猶予があるだろう)
スマホを取り出し、画面ロックを解除する。そこには莉都とのトーク画面が映し出されていた。
『あずさで合ってる?』
『うん、そうだよ』
とてもシンプルな会話。父親のせいで幸せの塊に見えたこの二文が今では見ただけで悲しくなってしまう。
(なんで好きになっちゃったんだろな・・・・。よりによって──── )
窓の外から、車が通り過ぎる音がする。
あずさはある決意をした。
ただひたすらに見つめていたトーク画面に新しい文章を追加する。
『近々、会える日ある?』
一か八かな部分があるが、やむをえん、両親の手によって莉都と離される方が恐ろしい。既読がつくまでの耐久はせずに、すぐさま枕元で充電していた別のスマホを取り出し、連絡帳アプリを開く。そこには個人から企業まで様々な連絡先が並んでいた。仕事をしていく上で交換していったものたちだ。先ほどまで開いていた個人使い用のスマホに登録されている連絡先より多いことに多少の虚しさを感じつつも、その中から目的のアイコンを見つけ出す。
半年ほど前に知り合った人物だ。ショートメールの最終更新が五ヶ月前ということで、久々の連絡に緊張するが、あずさは短い文章を送信した。
◇◆◇◆◇
あずさからの指示に従い、莉都は約束の時間の十分前に約束の場所に来ていた。二日前に送られてきたメッセージ、これはこれはと期待する反面、我こそ先にという謎のプレッシャーを感じつつも、空いている日にちを送った。すると、とある時間と場所が送られてきた。そこにきて欲しいとのことだ。その時は嬉しさのあまり気にしていなかったが、あずさは待ち合わせの場所のみを送るだけで、具体的な場所は提示してこなかった。
そして当日、電車を何度か乗り換えついたそこは、待ち合わせ場所としては有名なところで、平日の昼だが、人がちらほら見える。その中にスマホをいじるあずさの姿があった。
「ごめん、待った?」
集合時間はまだ来ていないが、小走りであずさの元へ向かい、声をかける。
「ううん、時間にはまだ余裕あるし、大丈夫だよ」
突然声をかけられ、少し驚いた様子も見せたが、その声の主が莉都だとわかるやいなや、笑顔で返事をしてくれた。スマホで何をみていたのだろうかと気になったが、すぐにスリープ状態になってしまった。
「今日は来てくれてありがとね、それじゃカラオケ行こか」
そういい、多少強引に莉都を案内する。なるほどカラオケだったのかと妙に納得。現在二人がいる場所は人が多く通るということもあり、商業施設が立ち並んでいる。それはカラオケ施設も例外ではなく、莉都も一度はいったことがあるような有名なカラオケチェーン店も並んでいた。
「今日カラオケだったんだね」
気になっていたのであればトークで聞けばよかったのかもしれないが、妙に緊張してしまい、ようやく今質問をすることができた。
「うん、個室が良くてね」
カラオケ店の自動ドアを経由しながらあずさが答える。彼女はそのまま受付をしてくれていたが、その後ろで莉都ははやる気持ちを抑えるのに必死だった。なるほどこれはと莉都の中の仮説が現実味を帯びている。例のメッセージが来てからその仮説に行くまでにさほど時間が掛からなかった故、言葉を考える暇はあったが、それでもいざと思うとなかなか浮かんでこないものだ。心のどこかで、確信だと騒ぎ立てているが、それでもやはり、自分の勘違いなのではないかという心配もついてくる。
「終わったよ、部屋行こ」
あずさの言葉でハッとする。すでに受付と支払いは済ませてしまったようだ。おしぼりとグラスが入ったカゴを持っている。
「あっ、お金・・・・」
「いいよ、急に誘ったのは私だし」
そういって、とにかく早く部屋に行きたいらしい、笑ってはいるものの、焦っているオーラが拭いきれていない。
なぜそこまでして早く入りたいのだろうと疑問を抱きつつも、莉都は素直に従った。というか、このカラオケ店に来るのは初めてなので、あずさに従わないと迷子になってしまう。
「いや、後で払うよ」
そう言ったが無視されてしまった。というか、耳に入っていないという感じだった。そんなあずさの様子を見て、ふと両親の言葉が頭をよぎった。
『気をつけてくれ』
さほど特別な言葉でもないが、引っ越した前後で言葉の重みが思いっきり変わってしまったものである。
(なんでこんな楽しい時に思い出さなきゃいけないんだよ)
莉都と両親の関係の悪化につながった要因の一つでもあるこの言葉、なぜ今よぎったのかは分からない。
ただこれだけは分かる。今思い出すべき言葉ではないと。
◇◆◇◆◇
店員から指定された部屋に莉都を案内し、座るよう促す。あずさはカゴを机に置き、空いた手をそのまま膝の上に、握り拳を作ったまま置いた。
さぁ、環境は整えた。カラオケでは防犯カメラの映像はあるかもしれないが、声までは聞こえないだろうし、詳しく調べられる行動でもとらない限り、無いに等しい。それにある程度の防音設備が整っているのだ。二人だけで、誰にも聞かれてほしく無い会話をするにはもってこいの環境である。
そうなのだ、環境はもう整っているのだ。あとはあずさが口を開き、喉を震わせ、下を動かし、言葉を紡ぐだけである。しかし、それができない。口が開かない。気づけば何回も髪を整えている。それどころか、あまりの緊張で泣いてしまいそうだ。
今からしようとしている話は、真面目な話だ。故に、莉都に離れられるリスクが高すぎるのだ。そんな事態はあずさとって今はとにかく避けなければいけない。これからのあずさの為にも、莉都の為にも。だからと言って、言葉を伝えないのも莉都にとって良くない。そんなあまりに高すぎるリスクに挟まれ、身動きが取れなくなってしまった。
そんな様子に痺れを切らしたのか、莉都が何か喋ろうと口を動かす予備動作を見せる。それを見た途端、我に帰ったあずさは、溢れ出る不安を無理やり、体が裂けそうな思いで封じ込み、我先にと言葉をだした。
「あ、あのさ!話があるんだけど」
デジャヴ。二日前もこのように突然大きな声を出して莉都を驚かせた気がする。一度出した声、無かったことにするなどできるはずもなく、か弱くありながらも、あずさは懸命に言葉を紡いだ。
「──────────── ‼︎」
「──────── 」
「──── 」
あずさの言葉に莉都は最初真実味を感じていなかったらしい。無理もないかと思いつつも勢いに任せそのまま言葉を続ける。
「──────── 」
「──────────── 」
「──────────────── ‼︎」
「──────── 」
「─────────────────────── 」
「──────── 」
「──────────────── 」
「──── 」
「──────── 」
その後もしばらくあずさと莉都の会話は続いた。あずさは徐々に心が軽くなっている快感に支配されていった。あぁ、重みを下すというのはこんなにも難しく、こんなにも楽なのかと。
「じゃあ、その日が彼氏、彼女としての初めてのデートだね」
そして、莉都のこの言葉と共に、同じ笑みを浮かべた二人の会話は終了する。
◇◆◇◆◇
「なぁ内山莉都についてど思う?」
「アイツを信用できると思うか?」
「アイツは臆病なやつさ。それに今は恋にうつつを抜かしている」
「まぁ、するとしたらそろそろだろうな、俺だったらそうする」
「アイツも気がついているだろうしな」
「まぁ、それもそれである意味成功と言えるかもしれないな」
「はは、俺も大概だな」
「アイツには薬を渡すつもりだ。さぁこれでどう出るかによって今後の対応を変えようとするとしよう」
◇◆◇◆◇
『お嬢、本当に良いのですか?』
『確かに私どもはそれを望んでおります。しかし、それではお嬢の負担があまりにも大きい・・・・』
『お嬢だからですよ、でなければこんな出血大サービスなんてしませんよ。夢のような薬の手配だってしましたからね』
『えぇ、では特別に火薬もオマケして差し上げましょう』
◇◆◇◆◇
花火大会当日、あずさは今日の為に用意した浴衣を見にまとい、長く伸ばした髪は、その利点を活かしたフワフワのお団子に結び、我ながら大満足と言った姿で会場に足を運んでいた。キラキラと屋台の光以外にも照らされた世界は、とても美しく、そのまま眺めていたいとすら思えてくる。そんな中に、あずさの目には一際輝く人物がいた。
髪を整え、暗くなりがちだった重めな前髪とはおさらばした莉都がいた。今日の為に張り切ったと言ったが、確かにその頑張りが伺える。浴衣まで着ている始末だ。だが、そんな姿がとにかくカッコ良い。
「莉都、お待たせ」
あずさが声をかけると、ぼーっとうちわで顔を仰いでいた莉都がこっちの方を向いてくれた。
「・・・・かわい」
「莉都もかっこいいよ」
フフフとあずさが微笑む。対して莉都は自分が言った慣れない言葉に恥ずかしさでも生まれたのか、誤魔化すように「ラムネ飲みたいな」と先に進もうとする。「あぁ待って」とあずさは笑顔のまま莉都の後ろ姿を追いかける。
あずさが設定した集合時間には十分な余裕がある。まずは屋台を見て回ろうということになった。
さすが花火大会というべきか、老若男女が大勢訪れている。それを狙った屋台もよりどりみどりだ。焼きそばやベビーカステラ、チョコバナナ、チーズハットグ、ポテト、と言った食べ物やサメ釣り、罠で、ヨーヨー釣りと言ったちびっこが喜びそうなゲームも用意されている。少し場所をずらせば、そこにはキッチンカーの大群が並び、屋台とはまた違った豪華なものを販売している。トゥンカロンが販売されている光景には、これは幻かと思わず目を疑ってしまった。そして気がつけばお財布のお金が減り、手元には可愛らしい見た目のお菓子が乗っけられていた。
そんな衝動買いもありつつ、結局二人はりんご飴とかき氷に落ち着き、花火が見える場所への移動を始めた。途中、りんご飴食べるかと聞き、ならばお返しにとお互いアーンをするというザ・ラブラブカップルという行動もしつつ、二人の周りには幸せが溢れている。
◇◆◇◆◇
人の流れに乗りつつ、あと少しというところであずさから食べかけのりんご飴を託された。そして当の本人は人の流れに逆らうように横へ進んでいく。何事かと莉都はすぐさまあずさの姿を追いかけた。慣れない人混みに目が回りそうだったが、なんとか人の流れが落ち着いたところは一つの屋台の前だった。そこであずさは、お店の人と話している。そして財布の中からお金を出し、二つのラムネを受け取っている。
「ジャーン、思わず買いたくなっちゃった、莉都の分も用意したよ」
手に入れたラムネを誇らしげに見せながら、あずさは莉都のもとに帰ってきた。半ば強引にりんご飴と冷やされたラムネを交換され、あずさは嬉しそうに、自分の手に残ったラムネを一口飲む。そして嬉しそうな顔をして、手を差し出してきた。ご丁寧にラムネとりんご飴をもう片方の手にまとめて。
「お金はちゃんととるのね」
莉都は突っ込みながらも、素直に財布を取り出す。
「勿論よ」
毎度ありとあずさは受け取った。色々ツッコミどころ満載だが、なんだかそれすら愛おしく感じる。
「さぁさぁ、いい席取られちゃう」と急かされ、二人は再び人の波に突っ込んでいった。
今回の花火は、屋台が立ち並ぶエリアから川を挟んだところに位置するグラウンドだ。となるといちばん見やすいところは堤防の上ということになる。交通規制がかけられ、堤防には人が溢れていた。二人もウロウロと当たりをさまよい、なんとか良さそうな場所を見つけることが出来た。
そして数分後、最初の花火が打ち上がる。真っ暗だった空が、大きな花で照らされる様子には圧倒される。
最初はゆっくりと、そして早く連続して、落ち着いたかと思えばまたペースを落とし、リボンといった丸以外の形を模した花火が打ち上がる。時々、向きが違うのか、やけに平たい花火も打ち上がるが、それも見どころのひとつであろう。
「莉都、ラムネ飲まないの?」
花火が落ち着いたタイミングて、あずさが話しかけてきた。ついに気が付かれてしまったかと莉都は思う。半強制的に買わされたとはいえ、このラムネは不快なものでは無かった。それに、今日あずさと会ったばかりの時に「ラムネが飲みたい」とかなんとか言っていた気がする。あずさのあまりの可愛さに思わず呟いてしまった言葉が恥ずかしすぎて、イマイチあの辺でどんな行動をしていたかが思い出せない。というか恥ずかしさのあまり思い出したくない。
ラムネが飲みたいという莉都の言葉を覚えていて、実は探してくれていたのかもしれない。実際、莉都達が回った道に、ラムネが売られていたのはあの屋台だけだ。そんな、もしかしたらの気遣いと優しさを思うと、このラムネがとても大切な宝物のように思え、なかなか手をつけられていない。
「そりゃ、あずさが買ってきてくれたから」
あずさにそんな気持ちを、恥ずかしながらも伝えようとしたが、運悪く花火が再開してしまった。自分の嬉しさはあずさに伝わったのだろうか、そう思いつつ、恥ずかしさを紛らわせるように花火に集中し直した。
◇◆◇◆◇
そろそろ最後だろう。スマホでこっそり時間を確認すると、予定されている終了時間まで残り五分と言ったことろだ。自然に仕掛けるとしたらこれくらいしかない。
あずさは意を決し、ポーチからプラスチックのケースを取り出し、その中に入っている錠剤を一つ、口に含んだ。そして花火がクライマックスを飾っている中、莉都のラムネを奪い取り、勝手に飲む。
そして勢いで莉都の胸ぐらを掴み自信に引き寄せ──── そのままキスをした。
◇◆◇◆◇
唐突のキスに脳の処理が追いつかない。そしてキスとともに流し込まれる甘い液体。先程奪われたラムネの味だ。そして唇に触れる固形物の感覚。周りを見ると「おぉ・・・・」と花火よりもこちらに興味の眼差しを向けている人もいる。恥ずかしさが今日一番に達した時、ようやきあずさは解放してくれた。
そして唇に、あずさの優しい指が触れられる。「黙って飲んで」ということだろう。喉に抵抗を感じながらも、莉都は大人しく全てを飲み込んだ。
それと同時に最後の花火が打ち上がり終わった。皆が拍手を始めるのにつられ、二人も見つめあっていた視線を離し、拍手をする。
「さっ、行こっか」
人が動き始めると、あずさが手を繋いでくれた。莉都は大人しく頷くと、あずさにリードされるまま歩いていった。このまま各々の帰路が別れる場所まで行くのだと思っていたが、どうやら違うらしい。人の流れに逆らい、薄暗く、人気の少ない裏路地に連れていかれた。どこに行くのかと尋ねたいが、頭が回らない。ぼーっとしてくる。その感覚は時間が経つごとに、体にまで影響を及ぼすようになり、莉都はそのうち、歩くのすら覚束なくなっていった。
「莉都、おやすみ」
あずさの言葉を最後に莉都は猛烈な眠気に襲われ、あずさにもたれかかる形で倒れた。
◇◆◇◆◇
『準備できましたよ、やりますね』
「お願いします」
◇◆◇◆◇
「これまたド派手ですな」
二人の男性が、深夜裏路地に立っていた。一人は二十代の容姿をしており、もう一人は五十前後といったところだ。
「こりゃ完全な規制は無理でしょうな」
「流石というべきか、ここまで徹底的にやるとはな」
その裏路地には焦げた臭いが充満している。壁や地面の一部は抉られ、崩れ、黒く汚れ、爆発の規模を物語っている。その破壊具合が一番酷い場所から少し外れたあたりに、二つの塊があった。人の遺体だ。あまりの破損具合に顔はおろか性別すらわからない。
「あずさのGPS が途切れたのがちょうどここだ」
「ということは──── 」
若い方の男が二つの遺体を見て気持ち悪くなったのか、口元を押さえてその場にうずくまってしまった。
「死体を見るのもすぐ慣れるさ、アイツは半年だったぞ」
「・・・・」
液体が地面に落ちる音がする。吐き気は我慢を振り払い、嘔吐してしまったようだ。その証拠に、返事がわりに聞こえたのは嗚咽だ。
「思っていたより貧弱だな、お前」
「だって初めてですもん。初めてで焼死体はきついですって」
二十前後の男性が呆れたように若者を見下す。
元々、あずさには内山莉都を殺す仕事を与えていた。彼の両親によってこちら側の人間が闇に葬られていたことへの報復の一環だ。しかし、あずさは内山莉都に惚れ、どこにも行けないとわかった極限状態で心中したというストーリーだろいう。
(まだまだ荒い計画だな)
「おい、後処理するぞ。二人は行方不明ということにしておけ」
うずくまっている男性の背中を叩き、腕を持って立ち上がらせる。まだ気持ち悪そうに青白い顔で、よろよろとみっともなく立ち上がった。
「えっ、死亡じゃ・・・・」
吐瀉物がついた間抜けな顔で、尋ねてくる。まぁ、そう思う方が自然だろう。彼女一人にここまでの技量があるとは思えない。あるとしたら協力者の存在だろう。もう一度背中を叩き、不機嫌な様子で伝えた。
「──── 念のためだよ」
ラムネ サブ部長 @sub_bucho
★で称える
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