第5話 A面 鯨
地下鉄の線路上。
荒い呼吸を繰り返し、大の字で転がる二人。傍には、心配そうに声をかけている女性。おろおろしながらの声掛けに返ってくる反応といえば、喘鳴だけである。二人は肺に酸素を送っては噎せ込む、という作業を繰り返していた。
響く呼吸音、そこに足音が増える。
石が踏まれて擦れる。光源が弱いため、薄く絹布のように広がる闇。暗がりの中、ぬっと翁の面が浮かび上がった。
「散々な様子ですねぇ」
優雅な身振りと口調で、転がる二人を覗き込む姿。スーツの上に面を浮遊させる男。女性はまた化け物に会ったと思い腰を抜かした。
膝も曲げずに腰だけを折り、のっそり動く男は、女性へ振り返った。女性は喉を絞めたまま悲鳴をあげる。ギウ、という不格好な声が出た。腰が抜けて座り込んだままであり、逃げられない。
それに対して、微塵も意に介した様子もなく、仮面の男は女性に向き直る。仮面はにこやかな老人の顔をしていた。不気味なことには変わりない。
「失礼、私こういう者でして」
やけに仕立てのいいスーツの内ポケットから名刺入れから丁寧に名刺を出す。名刺入れもやたらに凝った作りだ。身なりがいい。
女性は震える手で化け物から名刺を受け取った。
「簡潔に申しますと、そこに転がっている二人の上司です。ご無事でなによりでございます」
化け物ではなく恩人の上司であったらしい、と女性は気が抜けた。腰も抜けたままである。
名刺はシンプルに、鵺湯 響と記名されていた。所属先は境界警備隊百千餅町と印字されている。非常に手触りが良く、女性は両手に挟んで擦ってみた。高級な紙のような気がする。
鵺湯は場を見てひとつ頷く。
「処理は問題ないようですね」
その場でザクザクと何かを踏み潰して、納得したように言う。その足元には何も無く、女性はさらに怯えた。
「さて、いつまで伸びてるんです」
鵺湯は八次と紫波を蹴り飛ばした。八次はつま先が鳩尾に入ったようで、転がった先で呻いている。
「何すんだよ…」
「撤退です。のんびりしてる暇はないのですよ」
どうにか身を起こした紫波は、死に体ながら鵺湯を睨む。その鵺湯はというと、上品に手を叩いて二人を急かした。若者二人は刀とアーマーを回収しようと立ち上がったが、フラフラだった。
「立てそうですか?」
女性は自分への声かけとは思わずぼうっとしていたが、鵺湯の様子に肩を跳ねさせて慌てた。手を前に突き出し、大丈夫だとジェスチャーする。しかし腰は抜けたまま。立とうとしても立てない様子に、鵺湯は手を貸そうとした。鵺湯と女性の間に手が差し込まれる。
「俺が抱えてきます」
八次が鵺湯を遮った。アーマーを回収し終えたようで、紫波も戻ってきていた。
「そんなにボロボロで何を言っているのです」
「今治ったんで」
仕方がないという顔、といっても変化がない面ではあるので、雰囲気を出して鵺湯は身を引く。遠のいた翁の面に、女性は安心したように息を吐いた。八次は刀を紫波に放り投げる。文句を言いつつも、紫波は刀を受け取って背負った。
八次は女性の目の前で膝をつく。
「えっと、どうします?」
「ど、どうします?」
言葉をオウム返しして困惑する女性に、八次は手を広げたまま固まる。
「お姫様抱っこがいいですか」
「お兄さんが楽なので大丈夫ですよ」
「……おんぶでよろしくお願いします」
バツが悪いといった顔で言葉を捻り出した八次。怯える自分を見て助けてくれたのだろう。女性は疲れてるのに申し訳ないな、という気持ちになった。上着を脱いで背中を向けた八次にそろそろと乗る。立ち上がり、荒く揺れて、背負い直されたこと以外は快適な背中だった。
一行は地上に向かった。
鵺湯と紫波が何やら言い合っているのを聞きながら進む。女性は人肌の温度と適度な揺れでうとうとしていた。改札を出て階段を上る。
八次はふと、女性に話しかけた。
「汗臭かったらすいません。」
「へっ、いえそんなことは。」
女性は跳ね起きた。ほぼ寝ていたものだから、話しかけられて目が覚める。初対面の人間の背に乗って運ばれて手を煩わせた上に、寝かけた事で恥ずかしくなった。
地上が近い。雨の音がしない。
「雨止んだんですかね」
「本当ですね。ザーザーいってない」
二人は小さな声で会話した。
タイルの床を踏むさまざまな靴の音。四人は階段をのぼり、地上へ出る。
地下鉄入口の屋根の隙間、網膜を焼く鮮烈な赤が差し込む。ビルの合間を溢れ、燃える夕焼け。かすかに響くのは五時の時報。居住区指定から外れている地区は時報が鳴らないため、近隣地区から音が届く。ゆうやけこやけの歌。風が温い。
錆びたバリケードを避けて一行は帰路を進む。
「あの、そろそろ大丈夫だと思うので」
降ろして欲しい、と女性は言おうとした。鵺湯に遮られ、一斉に足を止める。
「人がいますね」
廃屋ビル群の中、低階層の建物の屋上。フェンスの向こうで動く人影がある。
「よく気が付きますね」
八次が感心して言う。
「何をしてるんでしょう。そろそろ日が暮れて危ないのですが」
「あ?……聞きに行けってか」
鵺湯に不満そうな顔をする紫波。
女性は三人の会話を背中の中で聞いていた。確かに、少し遠いビルの上。なぜ分かったのだろうと思いつつ、女性はその人影をじっと見ていた。
会話の結論として、一行は様子を見に行くことになったらしく、ビルへと進路を変えた。
見える影が大きくなり、屋上の人達が空を見上げては作業をしている様が見えた。
「なにしてんだ?」
紫波がそう言って、声を張り上げようとした時、屋上の影かこちらに気付いて叫んだ。
「危ないので結界を貼ってください!観測対象が出ます!」
「観測対象?」
鵺湯が小さく呟いたと同時だった。空からざばんと波がうねる音が響いた。強く風が吹いて、音波のような不思議な鳴き声が轟く。
空に大きな影が現れた。
「うっ、」
急な窒息感に襲われる。水の中にいるかのような苦しさ。
ギュン、と機械音がすると同時に、目の前で鵺湯が足元に大きな槍を突き刺した。途端に呼吸が楽になる。
遠く遠く果てに届くような、祈りのような声が轟く。女性は耐えるように目を瞑るしか出来なかったし、若人二人も息苦しさで黙っていた。
そんな中、鵺湯が上を見ろと二人の顬をつつく。二人ははっとして空を見上げた。
「骨だ」
「骨だな」
「スッゲェ」
ぽかんと口を開けて見上げる若い三人を見て鵺湯は笑った。
巨大な海洋生物の骨格が、遥か上空、夕焼け色の海に浮かび泳いでいた。再び快音が街に反響する。鵺湯が張った結界の外で、桜の花弁が巻き上がっていった。聞こえたのは鳴き声であったようだ。
何十頭もの影が泰然と進む。過去を唄う声は圧倒的だった。桜の嵐を尾鰭に纏い、空気とは違う屈折率の空間に、白骨の巨躯。
深く息を吸う八次と紫波。女性も空を見上げていた。鵺湯は三人の様子に頷いてから、空を見上げた。
一体どこから出したのか、鵺湯の手には、その長身よりも大きな立派な槍。長い刃渡り、刃が水面のように揺らめいて光る。
見れば、周囲の街が水中のように光を反射している。プールの底から水面を見上げるような感覚。轟々と水がうねる音が頭に響く。
「鯨ですか」
「鯨?あの骨が?」
「えぇ、鳴き声が」
鵺湯によると、空の存在は鯨らしいが、視覚に捉える姿は骨である。
空を眺める四人の背後に近づく人間がいた。
「どうも、お疲れ様です」
振り返ると、不思議な出で立ちの人間が二人立っていた。礼儀正しく一礼して、ゆっくり結界の中に入ってきた。右手右足を入れてから、左半身を入れる。一人目は上手く入ったが二人目はなにやらごたついて、左足が引っかかったようだ。もう一人が引っ張っても難しい様子に、鵺湯が手を貸した。鵺湯が引っ張ると二人目は綺麗に抜けて、勢い余って地面に転がった。
「おや、失礼」
「ああ、いえ、こちらこそ。すみません、人様の結界に不躾に。いやはやどうも」
鵺湯の言葉にペコペコ頭を下げる。二人は転んだ拍子に起き上がれなくなったらしく、じたばたしていた。見かねた八次が手を貸して、ようやっと落ち着いた。
「大丈夫ですか?」
「はい、はい、大丈夫です。これはこれは、失礼、どうも」
「あれ、ツムギさん?」
「おや、その声は八次くんかい?」
結界に入ってきた二人組は潜水服のような装備をまとっていた。頭からつま先まで身体を覆われているが、その装備の表面に付けられている素材は細切れの布である。よれた包帯のように薄汚れて、使い古した麻袋のよう。布をぐるぐる巻きにして縫い付けているらしく、余った端がヒラヒラ動いた。結界の外、水の中で気持ち悪く動いていたのはこれらしい。
布切れにはびっしりと文字が書かれていた。八次はその文字が読めなかった。崩した筆文字が滲んでいたので、漢字かそれとも他の国の言語か判別できないほど。
そしてヘルメットの、顔に当たる部分に分厚いガラスがはめ込まれていた。ビール瓶のような色である。その奥で瞬いた目と今しがた聞いた声に、八次は覚えがあった。
「お知り合いで?」
「えっと、生研の方です」
「どうも、国家指定非生物研究所現地調査科及び観察科所属の紡と申します」
「長ぇ」
「こら、紫波」
「はははは」
紡と呼ばれた男は、顔に付いていたネジを巻く。するとシュコ、と空気が抜けるような音がした。見れば潜水士二人は背中にボンベを背負っていた。
「やぁ、重かった」
「すごい装備ですね」
「ははは、一般人がね、化け鯨の結界なんて生身で入れませんからね」
紡は説明口調で言う。
「結界の外はね、別に濡れはしません、多少呼吸が難しいだけで。ただ重力の様子が変わるようでしてね、成人男性でも軽々吹き飛ばされます。危ないですよ」
八次の背中を降りた女性と紫波の肩が跳ねる。二人は結界に近づき、外側へ人差し指を突き入れようとしていたところだった。
素早い動きで後退する。
深く息をついて座り込んだ紡は、未だ空を眺める鵺湯に声をかけた。
「この環境下で結界を張ってらっしゃったので、思わずお邪魔してしまいました」
「あぁ、お気になさらず」
「警備隊の方でしたから、まぁ心配はしていなかったんですけどね」
「寂しいことを仰る」
「わはは」
そう言って紡も空を眺める。
「美しいでしょう」
「えぇ、本当に」
「化け鯨という天使です。対人的な危険度は低いと思いますが分類レートがS、観測自体が久しぶりなんです」
紡はゴム手袋に覆われた手で指差す。
「化け鯨は空間から空間を渡っていく存在で、その空間については未だ研究が進んでいません。比較的古い話が残っている、妖怪の一種だったと思われます」
鵺湯の張った結界の中、見上げた化け鯨の群れがスルスルと消える。金星が煌めきはじめ、黄昏時の赤い空が夜の紺色にのまれていく。
海の音が収まる。水が引き、平生の空が戻ってきた。
変化の激しい様に、女性と紫波、八次はアホ面を晒して感動していた。
立ち上がろうとした紡へ鵺湯が手を差し出す。紡はその手を取った。鵺湯の引く力が強すぎてよろけていた。それから、ああそう、と話し出す。
「観測対象として追ってる群れなんですが、実は数年前から一頭行方不明なんです」
「んなもん分かんのか」
「分かりますよ。一頭一頭記録をつけています。行方不明の子は右前頭部に大きな傷があるんですよ」
「死んじまったんじゃねぇのか」
「そうなのかもしれませんが、気になってるんですよ。どこいってしまったのやら」
静かに、群れを見送りながら語られる。
「彼らは様々な空間を移動していく回遊型とされますが、なんせあの巨体で泳ぐ生態ですのでね、彼ら特有の結界を張っては泳いでいきます。凄いことだ」
もそもそと会話をしていると化鯨の群れはすっかり消え、水に満ちた特殊な状況も終わった。日が暮れ、とっぷりとした夜が来る。
鵺湯は槍を引き抜き結界を解いた。
「いやはやこんな時間になってしまいましたね。では失礼します。早めに帰って報告書をまとめなければ。八次くん、また何かあれば」
一礼して足早に去る紡ともう一人の研究員。ちなみに紡が鵺湯と話している間、もう一人の研究員はずっと何科を書き綴っていた。
ボンベと資料を抱えて、二人は廃墟群から消える。引き止める間もなく、六人は四人になった。
「結局、あの方はどういう方なんですか?」
「ああ、天使の研究してる人です。前に天使関連で分からないことがあった時に、どこも頼れないから片っ端から研究機関に問い合わせたらあの人に当たりました。それからの縁です」
「変なやつ」
「結構凄い人らしいよ。あと、いつも一緒にいる人がいなかったな。もっと元気な声の人と組んでるらしいんだけど、今日は違ったや」
「へぇ、そう」
「興味持てよ」
鵺湯が問いかけ、八次が答える。紫波がチャチャを入れている会話の外で、女性はぼんやりしていた。紺色に飲まれる廃墟郡の中で、非現実的な現象を見て呆気に取られていた。
その顔を鵺湯が覗き込む。
「もし?」
「ひっ、」
「おや、そう怯えないでください」
鵺湯はクスクス笑って女性に尋ねた。
「ところで、それについてお聞きしても?」
鵺湯が顎に手を当て女性を見下ろす。見下ろされた女性は腹を両手で押さえる。パーカーの中が動いており、何かがいるのは明白。気まずそうな顔をしてから、服の下から桃色の塊を取り出した。出てきた塊を視認する前に、それは勢いよく八次の顔面に跳び付いた。八次は、ぶっと変な声を出してから、張り付くそれを引き剥がす。
「なんだこれ」
「ぬいぐるみ、ペンギンか?」
「ピンクのペンギンって。センスやばいな」
「さくらもちみてぇだな」
「うまそう」
鷲掴みにされ、逃れようとしているのかジタバタ暴れるぬいぐるみ。紫波が顔を近づける。なかなか見ないカラーリングのペンギンは、紫波に睨まれて大人しくなった。プラスチック製の黒い目が怯えているようだが、意に解さず紫波人差し指で無遠慮につついているし、八次は掴んだ手を弱めない。本当にペンギンみたいな声を出してキュイキュイ鳴いている。
「そういえば、まず貴方があの場所に居た理由もお聞かせ願いたいのですが」
「ヒェ」
優しい翁の面で槍を軽々片手に持つ鵺湯。女性はペンギンと同じ顔で怯えた。
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