セレファイス88
甲斐ミサキ
セレファイス88
磨かれた黒檀のチェス盤を前にダンセイニ卿がマンモスの大牙から削り出したルークの駒を弄んでいる。正面に陣取る男の顔色は陰にけぶって良く分からない。エーリッヒ・ツァンの奏でる何者かに抗うかのような悲壮で魔的な旋律のヴィオールがレコードから流れ出し、ブラインドの開かれた破風の窓からはオオス=ナルガイを囲う大理石の壁が見える。室内に燦燦と降り注ぐ陽光でさえ、ペガーナの神々について、また別の神々について話し合った男の表情を鮮明に浮かび上がらせはしなかった。キングの前に立ち塞がるポーンをルークが刈り取る。
男のかんばせの陰影に掌が這う。現世の偽膜であるウルツェホトフ=ラースが欺瞞なるもう一つの太陽として顕現してから幾歳経ったことだろう。
「君の心はここにあらずだな、チェックメイト」
我に返ったのか尖った頤を掌で撫でさすりながら男が顔を上げて応えた。
「私の負けです。ロード。今考えていたのはインスマウスの浜辺で人知れず死んだが、それがどうだと、彼の心性はいまやクラネス王となりこの地を統治している。暗愚の死から華麗なる再生にいたる物語のことなのです」
ダンセイニ卿は言葉を挟まずに目の前の人物が発する言葉を聞いていた。一九〇五年に彼が世に出した「ペガーナの神々」は大洋と月に関する神話体系だったが、目の前にいる男は死や蘇りを夢想する技巧者だった。受肉する名状しがたいショゴス、脳髄をすする食屍鬼や死体蘇生者の材料となったボクサー、外なる神の従者の奏でる音色により眠りにつくアザトース、そしてルルイエに横たわるもの。
「そういえば君がここにきてから八八年が経つ。プロヴィデンスを模したこの地に降り立ってからジャパネスクでいうところの米寿を迎える君にはそろそろ飽きが来る頃ではないかな」
外では欺瞞なる太陽、現世の偽膜が覚醒側の地球世界をも煌々と照らしている。そうだ、欺瞞なのだ。当に揃っているのだ。ペガーナではシシュが言祝ぎ、モサアンが時が来たと騒いでいるというのに。誰もがそのことに注視し描かないだけなのだ。ミスカトニック・ヴァレーの大半が彼岸に寄り、その志を継がんとするものこそ現世の偽膜を振り払い真実を告げるべきなのだ。アウトサイダーはすでに播種されているのだから。愛すべき連れ合いである牡猫のメネスが使い込まれた銀色のタイプライターの上で丸まってなあああんと鳴いた。前世の徴兵検査で不合格となったことは一種の根強い劣等感を持ち続ける原因となったがけっして戦争を礼賛しているわけではない。いまや現世を見下ろしてみれば惨憺たるありさまだった。まさに鉄と炎の時代だ。一緒に現世を覗き見ていたダンセイニ卿が眉をひそめ、ペガーナの主神であるマアナ=ユウド=スウシャイならあるいはと呟く。鼓手スカアルが太鼓を永遠に叩いているからこそペガーナの平穏は保たれている。
セレファイスに来てからはポーやダンセイニ卿の知己となり己が無聊を慰め、ラヴマンとの旧交を温め、いとおしい記憶のままのプロヴィデンスの一角にてランドルフ・カーターの旅行記を紐解き、アラスカから持ち帰られたラーン=テゴスをつぶさに観察し、ウルタールからやってきた朋輩を歓迎しては、いじましいアーメンガードと詩を詠み。面会の手紙が届いていたが紳士としてソニアにどんな顔を見せられるというのか。また時にはハーバード・ウェスト博士のおぞましき実験に立ち会うなどしてきたが、どこか気鬱だったのは顧みられることのなくなった遺物の行く末のせいに違いない。
一九二五年三月に起きた地震によってせり上がった沈没神殿ルルイエと束の間復活した旧支配者クトゥルーにアラート号が衝突し、かの巨神が星辰が揃わずに再び眠りについてから百年。鉄と炎の時代を終焉させるにふさわしい幕引きとは……。
ダンセイニ卿が面白そうにふむふむと男の紅潮していく相貌を眺めていた。この熱が上がっていく様をライト・ファーンズワースが見たら何を思うだろうね。創作者が出来ることと言えば書くことだけ。ひとしきり挨拶を述べたのちメネスを一撫でしては常春のプロヴィデンスから軽やかに退去していった。なに、チェス盤は逃げやしないのだから。
「今やニューヨークの地下では食屍鬼ならぬ自殺遺伝子を克服したユダの血統が不気味な靴音を鳴らしている、か」
ラヴマンと観たギレルモ・デル・トロのフィルムを思い出し息を吐く。
男は愛すべきメネスをヤクの乳と削いだベーコンの脂身でタイプライターの上から優しく追いやると軽やかにタイピングし始めた。欺瞞なる太陽の向こうでは外宙が広がっており、星辰が不吉な列をなしていく。現世の偽膜ウルツェホトフ=ラースが身じろぎした。アザトースの宮廷では今も狂い猛ったフルートの音色と下卑た太鼓の破裂音が鳴っているに違いない。男が現世に思いを馳せる。神父を名乗った無貌の魔人が暗黯たる星の智慧派教団を使って世界中に精神汚染をまき散らしている。セレファイスにクラネス王を招聘した己ならば星辰の並びを揃えることなど児戯にも等しい。ちらりとタイプライター脇の天球儀に視線を向けた。まずはユゴス星の明星と連延について書こう。夜鬼どもがどこかで鳴き、腹のくちたメネスが無邪気に、輝くトラペゾヘドロンを転がし弄んでいる。
ヤグサハ イア ラヴクラフト クトゥルゥ ルルイエ フタグン!
ヤグサハ イア ラヴクラフト クトゥルゥ ルルイエ フタグン!
己の名を祝詞にして今や様々な角度から深き深海よりせりあがってくる旧支配者の次元異相都市を満足げに眺めやった。閉ざされた扉が開くのも時間の問題だろう。
数えきれない触腕が。護謨状の翼膜が広げられて。頭足類のごとき瞳で睥睨し。
ああ海に、海に。
セレファイス88 甲斐ミサキ @kaimisaki
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