雨の幻想
水影
プロローグ
「―――っ、はあっ、はあっ、はあっ……」
少年は独り、山奥を走っていた。
道でない道を走る。降り頻る雨の冷たい粒を身体に受けながら尚、走っていく。
濡れた地面に、枯れ葉に、何度も滑りそうになりながら、必死に山の中を走る。
膝は擦り剥け、上着はずぶ濡れになっても、冷え切った身体を奮い立たせてひたすら走っていた。
「……はあ、はぁ……っ、うあっ」
少年は大きく飛び出していた木の根を避けようとしてよろけて、走ってきた勢いもそのままにうつ伏せに倒れた。
しばらく少年は起き上がろうとはせず、そのまま切れ切れに息をしていた。
最早、大きく深呼吸出来るほどの心の余裕はなく、山の空気も薄くなってきているのも相まって、肺の中の酸素は完全に足りない状態になっている。少年は小さな荒い呼吸を繰り返していた。
その間にも雨粒は高い木々の間から少年を叩きつけ、その身体を冷やしていく。
数分、数十分経って、雷の低い轟音で地面が振動して少年を揺らした時、少年はやっと動いた。
服や髪に付いた枯れ葉を手で払いながら、ゆっくりと身体を起こした。
雨で濡れた髪から水滴がいくつも膝に落ちる。上半身だけを起こしてその場に座り、半開きの目で目の前の風景を眺める。
額に、頬に、瞳に、口に、手に、膝に、足に、冷たい粒を受けながら、少年は小さく微笑った。
「寒いな……」
霧のような、シャワーのような、細かく小さく、それでいて強いその雨。
少年の身体はもう、とっくに冷え切っていた。
幻覚であってほしいと願った。
自分が冷たく感じているこの瞬間も、幻であってほしいと。
そうでないと―――先程やってきたことも、今していることも、幻覚だと言えなくなってしまうから。
そんな願いは虚しいだけで、これは現実なんだと受け入れたくない一心で、そう、願った。
悲しげな微笑を浮かべてから、少年は自分の手を見た。
雨に濡れて冷えた手。
手のひらは青白く、指先は紫がかっている。
あちこちに血管が透けて見えた。
綺麗な白い肌とはこんな色なのかもしれないと少年は冗談交じりにまた笑い、手を膝の上に戻す。
雨が地面や葉、木を叩きつける音以外は何も聞こえない。
人の声も、足音も、煩い少女たちの声も。
「少女たち?」
誰だ、それは。少年は疑問を抱く。
なんで少女たち、という単語が出てくるんだ。
幼稚園にも、小学校にも行っていない少年にとって、何処かの少女と出会う機会など無いはずなのに……。
途端、ぐわんぐわんと頭の中に何かが這い上がってきた。
わけの分からない大量の風景が断片的に、一斉に脳裏に過る。
少年は吐き気に襲われ、起こしていた上半身をまた地面に付けて寝転がる。
荒い風、豪雨の中、小さな少年は独り、森の中で目を閉じた。
静かに、暗闇に沈んでいった。
哀しげな微笑を湛えながら、
深く……。
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