紅霞を駆け抜けて

野分暁葉

第1話 出会い

 朝九時三十分。初夏の太陽が東から高く昇って、あたしのヘルメットに光が降り注ぐ。


 今日は運が良い。

 あたしが自分のバイクのスピードをあげて上り坂をくねっていると、前方に赤と白の大型バイクが視界に入った。


 あの人だ。

 胸が大きく高鳴る。


 希少バイク、ヤマハのОW-01(オーダブリューゼロワン)に乗っている、すらりとした長身のブルーのライダーズスーツ。性別は不明。


 毎週土曜日、この時間に戸田峠から西伊豆スカイラインを南下する途中で、よく見かけるライダーだ。


 スピードに乗って、カーブを深く攻める走り方に、あたしは痺れるくらい憧れた。ただカーブを攻めているだけでなくて、加速の仕方が上品なのだ。あの人がバイクに乗っている姿はまさに人馬一体で、一際輝いて見える。


 車間距離を保ちながらも、なるべく一緒に走っていたい気持ちが先立つ。路肩にそそり立つ木々の葉が迫ってくるようで、午前中の木漏れ日が柔らかで気持ちよかった。山の清らかな空気をお腹いっぱい吸い込んで、愛車のファイヤーブレードと共に風になる。


 西伊豆スカイラインは全長十キロメートルほどだから、時速四十キロくらいで走っていても十五分くらいで完走してしまう。たった十分程度のツーリングだけれども、あの人と一緒にバイクを走らせていることが何よりの幸福なのだ。


 あたしは下り坂のカーブが得意でない。でも、あの人は難なく颯爽と曲がっていく。あたしもあんな風に運転できたらと思う。でも下手に真似してコケたら嫌だから、速度を落としすぎた不恰好な乗り方になる。


 ОW-01は四十年くらい前に出た最後のレーサーレプリカの一つだ。当時のレーシングマシンの技術を結集して作られたバイクだけど、あたしのファイヤーブレードの方が性能自体はよっぽど良いはずなのに、全然追いつけない。


 空の青と、山の緑が美しい。標高八百メートルの稜線を、赤と白のОW-01を追いながら走る。


 西伊豆スカイラインの南の端に迫るカーブを大きく曲がると、あの人が土肥駐車場の方へと入ってった。あたしはほとんど無意識に後を追っていく。


 これじゃマナー違反だ。まるでストーカーじゃないか。ただ偶然一緒に走るだけで満足だったはずなのに。


 どんな人なのだろうという好奇心と、自制心が心の中でぐちゃぐちゃになる。


 ちょっとした田舎の駅のロータリーくらいの広さしかない土肥駐車場に入ると、あたしたち以外にバイクを乗り入れている人は見当たらない。


 少し距離をとった位置に、あたしは自分のファイヤーブレードを停車させる。あの人がОW-01から降りる。あたしは何も気にしていない素振りで、眼下に広がる駿河湾に目を向ける。若い緑が生い茂る尾根に立ち、深呼吸を一つする。


 心臓がバクバクしている。あの人に話しかけたい。でも変な人だと思われたらどうしよう。とりあえずヘルメットは脱ごう。これで怪しい人ではありませんよ感は出るかもしれない。


 近づいてはいけない気がする。ただ近くにあの人がいると思うとあたしは体がカチンコチンに硬直して、その場で動けなくなった。


 横目であの人を見る。


 フルフェイスの黒いヘルメットを脱いだ。黒髪のショートカット。切れ長の涼しい目元。整った鼻筋。中性的な美しさに息を飲む。


 年齢は三十代前半くらいだろうか。あたしと年代が近い。でも、もし男の人だったら面倒臭いな。あたしがまるで出会いを求めているみたいな感じになったら嫌だ。


 あの人があたしの方へ歩いてくる。


 口元はにっこりしている。何を考えているのだろう。

「こんにちは」

 彼女が言った。とても澄んだ綺麗な声。鼓動が跳ね上がる。


「こ、こんにちは!」

 あたしは反射的に答える。

「す、す、すみません、なんか追ってきた形になっちゃって! べべべべ別に、あの、お邪魔するつもりとかはなく、なんとなく海を見たいなと思って」

 あたしはどもりながら顔が熱くなる。


「ファイヤーブレードかっこいいですね。二〇〇六年のですね」

 くすりと笑いながら、彼女は自然とあたしに声をかけてくれた。あたしは半分泣きそうになってしまう。


「就職してから五年くらいかけてお金を貯めてやっと買えたんです。あの、そ、そちらのОW-01もめっちゃかっこいいです!」

「ありがとうございます。玉木と言います」

 この三ヶ月、ずっと憧れていた人の名前を聞いて、雷に打たれたように痺れるあたしがいた。女の人で良かった。


「や、矢野です! あたしは矢野と言います! どうぞよろしくお願いします!」

 顔がのぼせるように火照って、風がやたら涼しく感じられる。この後の会話をどう続けたらいいかわからなくて、頭をフル回転させる。あたしはずっと玉木さんとお話がしたかったんだ。


「ここ最近、よくお見かけするなと思ってたんです! 毎週横浜の方からいらしているんですか?」

 玉木さんの横浜ナンバーが頭に入っていたので、ややストーカー気味な発言をしてしまったことに後悔する。


「はい、そうです。矢野さんも足立の方から毎週いらしているんですか?」

 玉木さんがあたしのナンバープレートを見て言った。


「いえ、あたしは今年の三月に伊豆市に引っ越してきたばかりなんです。面倒くさくてナンバープレート替えてないだけで」

「いいですね。西伊豆スカイラインも伊豆スカイラインも近くて、毎日走り放題ですね」

 玉木さんが優しく微笑む。


「バイク趣味が高じて、こっちに引っ越してきたようなものなんですよ」

 本当はそれだけが引っ越しの理由じゃないけれども、あたしは微笑みながらそう言った。それにしても、玉木さんと話しているとなんて落ち着くんだろう。この時間がもっと続けば良いのに。


「もしよかったら、もうしばらく一緒に走りませんか?」

 あたしは勇気を振り絞って言った。


「いいですよ。私は仁科峠の方まで行く予定なので、その辺りまでならお付き合いできます」


 玉木さんはそう言って、ここから見える青い空のような微笑みをくれた。


 玉木さんと正々堂々と一緒に走れる事実が、あまりに急すぎて現実感がない。二人で風に乗って山道を走っていく。夢見心地の時間にあたしははしゃぎまくって、仁科峠に着くわずか十分くらいの時間、ずっと彼女の艶やかな走りを目に収めていた。


 仁科峠に着くと、展望台近くの駐車場に玉木さんが入って行ったのでついて行く。彼女のバイクを停車させる動作さえも美しくて見惚れてしまう。


「それじゃあ、ここで。楽しかったです」

 バイクに跨ったまま玉木さんは言った。ここまでのツーリングとはわかっていたはずなのに、名残惜しくてたまらない。


 また一緒に走りたい。

 もう少しお近づきになりたいな。どうしよう。でも、もう行っちゃう。


 葛藤しながらも自分の思いはあふれてしまい、玉木さんに駆け寄っていた。

「すみません、嫌じゃなかったら連絡先交換しませんか?」

 あたしが言うと、彼女は一瞬きょとんとした後に「いいですよ」と快諾してくれた。あたしは即座にスマホを取り出して、自分のアカウントのQRコードを表示した。


「また一緒に走れたら嬉しいです」

 あたしが言う。顔は興奮しすぎて真っ赤だったかもしれない。


「是非是非。よかったらまた来週でも。今日は時間ないんですけど、来週だったらこの先三十分くらいのところに良いカフェがあるので、そこまで走りませんか」

 玉木さんのお誘いに、大きく頷く。嬉しすぎて声も出ない。


「では、また」

 玉木さんはそう言って赤と白のОW-01を走らせ去っていった。


 その後は、いつも通り一人で伊豆半島を好きなだけ周遊し、日没が近づくと黄金崎公園の近くに立ち寄った。


 展望台から海を望み、水平線に沈む太陽と、黄金色から藍色の見事なグラデーションの空を堪能する。一人でしか満たされない気持ちを胸に抱きながら、小さく身震いする。誰にも思考を邪魔されない清々しさが良い。


 それでもあたしは、美しいと思った夕暮れの空と海の写真を撮って、大切な宝物を送るようにして玉木さんに送ってみる。


【黄金崎公園にいます。夕日が綺麗なので、おすすめスポットです!】

 とメッセージを添える。一人で見る夕日もいいけれど、玉木さんと見られたら、きっとまた格別だろうと思った。


 太陽が完全に海へと沈む瞬間、水平線が燃えるように黄金色の光を放つ。そして火を吹き消すように夜が訪れ、一番星が西の空に輝いた。

 玉木さんからはウサギのイラストのスタンプで返事があり、「いいね!」と言っていた。


【ありがとうございます。おすすめスポットがあったら、また教えてくださいね】

 玉木さんからメッセージが続き、あたしは嬉しくなってスマホをいじる指先が汗で滲む。ときめきの炎が胸の中で小さくゆらめき、あたしは愛車に跨り夜の山道を走っていった。

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