最終話『審判』
あれから数日が過ぎ、清貴の帰宅の日がやってきた。
だが、もう私は彼を迎えるつもりはなかった。
―― 私は、すべてを終わらせる。
あの飲み会の翌日、私はすぐに不動産屋に足を運び、部屋の解約手続きを済ませた。新しい住居を見つけ、引越し業者の手配も終わらせていた。清貴の荷物はすべてまとめ、ゴミ袋に詰めて玄関の前に出した。彼の名前を書いた紙を添えて。
―― もう、あの生活には戻らない
自ら閉じ籠ったアイアンメイデン。棘が刺さるのは分かっていたのに、そこから出ることもできず、ただ傷つき続けた日々。
その扉をこじ開け、変わらなくてはいけない。
自らの人生を、取り戻す為に――
そんな決意を胸に、私は静かに待っていた。
以前のような不安や焦燥感は消えていた。代わりにあったのは、冷静さと確信。
これでいい。
これで、終わりだ。
それでも、私の手足は震えていた
恐怖ではない。長年の鎖を断ち切るための最後の一歩に、緊張しているだけだ。
それでも、もう逃げるわけにはいかない。
私は彼に最後の言葉を伝えるつもりだった。それが、私にとっての一番大事な決断だったから。
しばらくして、清貴がマンションに帰ってきた。
私はマンションの近くで、静かに息をひそめていた。
数分後、彼から電話がかかってきた。表示された名前を見ても、もう心は揺れなかった。
それでも震える手を、なんとか抑えながら私は電話に出た。
「どういうことだよ!」
清貴の怒鳴り声が、夜の空気を裂くように響いた。
私は、ゆっくりと深呼吸をした。
声が震えないように、慎重に言葉を選ぶ。
「……浮気していたこと、知ってるよ」
その言葉を聞いた瞬間、彼の声が止まった。
だが、私は構わず続ける。
「実家じゃなくて、浮気相手と旅行に行ってたんでしょ?」
電話の向こうで、清貴が何かを言おうとした気配がした。
焦ったような、慌てた声。
「ちっ、違うんだ、説明させてくれ……!」
その必死さが、かえって滑稽だった。もう、私は何も聞くつもりはない。
「もう遅いよ」
静かに、でもはっきりと私は言った。
「あなたが何を言おうと、私はあなたとの関係を終わらせる」
沈黙が流れた。
清貴は、しばらく息を呑むような音を立てた後、震える声で言った。
「……どこにいる?」
最後のチャンスだと思っているのだろう。
私は、一度だけ目を閉じ、深呼吸した。
そして、落ち着いた声で答えた。
「マンションの近くにいる」
私がそう言うと、彼はすぐにマンションから飛び出してきた。
私はマンションの影から静かに彼を見つめた。
走ってくる彼の姿が、まるで哀れな子どものように見えた。
「待ってくれ、頼む、お願いだ……!」
清貴は、私の目の前で足を止め、息を切らしながら叫んだ。
そして突然、地面に膝をついた。
土下座だった。
「何もかも俺が悪かった……! でも、お前がいないとダメなんだ……!」
清貴の肩が、小刻みに震えていた。
「もう一度だけ、チャンスをくれ……」
懇願するような声。
だが、それを聞いた瞬間、私の中で何かが完全に壊れた。
今まで感じていた罪悪感、不安、彼への依存――
全部、なくなっていた。
清貴の言葉が、もはや私には届かないことを実感した。
気がつくと、体の震えはすでに止まっていた。
――もし、以前の私だったら?
きっと、許していたのかもしれない。
彼を受け入れて、また同じことを繰り返していたのかもしれない。
でも、もう違う。
私は、変わったのだから。
これ以上、何もかもを犠牲にして生きるわけにはいかない。
これからの人生は、自ら選択した道を進む。
私は、目の前の男を一瞥し、冷たく言い放った。
「判決、死刑」
清貴が、驚いたように顔を上げる。
その表情が歪んでいくのを見ながら、私は静かに踵を返した。
もう振り返るつもりはない。
――これが、私の審判だ。
そして、私の新しい人生の始まりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます