赤い紐

猫又毬

赤い紐

健吾がその古本屋に入ったのは、偶然だった。

駅前の商店街。

健吾の住むアパートから駅へと向かう途中にあるこの通りは、活気に満ち溢れているわけではないが、寂れ切っているわけでもなく、その”ちょうどいい感じ”が健吾は気に入っていた。

仕事帰りのその日も、いつもの様に商店街を歩いていると、小さな店の軒先に

「閉店セール」と書かれた紙が貼られていた。

半分開かれた古いガラス戸の外側からチラリと店内を窺うと、古い本の匂いが満ち、どこか湿った空気が漂う、古本屋独特の空気がそこにあった。

「いらっしゃい」

カウンターの奥に座る老人が、入口から覗き込む健吾の姿を見止め、低くしゃがれた声でボソッと呟く。

特に欲しい本があったわけではない。

ただ、何か面白そうなものがあれば――そんな軽い気持ちで入った古本屋で面白い本に出会う、まさに古い物を売る店を訪れる醍醐味だ。

その「醍醐味」を求め、健吾は古い匂いを漂わせる本が所狭しと並べられた店内に視線を巡らせながらゆっくりと練り歩く。

店の一番奥に据えられた書棚まで来たとき、ふと、一冊の本が目に止まった。

手に取って見ると、今にも崩れ落ちてしまうのではないかと思う程ボロボロに擦り切れている。

手触りから、和紙で作られた手製のノートの様な冊子だと分かった。

表紙には、黒い墨で『赤い紐』とだけ書かれている。

――手作りの日記帳?

興味を引かれ、健吾はそっとページをめくってみる。

そこには、乱れた筆跡でこう書かれていた。

「赤い紐を見つけたら、決して触れてはいけない」

その言葉が何度も繰り返し書き連ねられている。

「それ、欲しいのかい?」

しゃがれた声に驚いて振り向くと、いつの間にかあの老人がすぐ後ろに立ち、健吾の手元を覗き込んでいる。

「ええ、まあ……面白そうなので」

「そうか」

老人はそれ以上何も言わず、ノートを紙袋に入れてくれた。

自宅に戻ると、健吾はさっそくノートを読み始めた。

他人の日記を覗き見る様な、背徳感に似た探求心はページを繰る度に急激にしぼんでいった。

どのページを開いても、同じ言葉が並んでいるだけで意味のある文章は一切書かれていなかった。

「赤いヒモを見つけたら、決して触れてはいけない」

何度も、何度も。

このノートを書いた人物のその異様な執着には興味を引かれたが、如何せんそれ以外の記載が何もなく、これを書くに至るまでの情報――健吾の興味の対象は主にそこなのだが――を得ることは不可能だった。

興味を失い、ノートを閉じた健吾は、そのまま机の隅に放り出し、風呂に入ることにした。


――それが最初の夜だった。


翌日、健吾が仕事を終えて帰宅すると玄関のドアノブに何かが結ばれている。

何だろうと訝しみながら近づくと、それが赤い紐であることが分かった。

長さは十五センチほどだろうか。

よく見れば、どこにでもあるような木綿の細い紐だ。

健吾は、妙な悪戯をするヤツがいるもんだと、紐に手を伸ばしたが、指先が紐に触れる直前、凍り付いたようにピタリと動きを止めた。

あのノートの内容が脳裏に浮かび、紐に触れ、解くことを躊躇わせた。

大の大人が馬鹿げた事だと頭では思いながらも、得体の知れない警戒心が「触らない方がいい」と告げるのを無視する事が出来なかった。

どこかの誰かが結んだ妙な紐が玄関ドアの外に掛ったままだと思うと、なにか自分がこの部屋の中に閉じ込められているような居心地の悪さを感じながらその夜を過ごしていた。

いつもより少し遅い時間に就寝した健吾はその夜、不思議な夢を見た。

――暗闇の中、彼は必死で赤い紐を追いかけている。

どこまでも続く赤い紐を懸命に手繰り寄せるのだが、いつまでも先は見えない。

呼吸が早くなり、足元が不安定になる。

だが、止まるわけにはいかない。

紐を、赤い紐を追いかけなければ。手繰り寄せなくては――


荒い呼吸の中、目が覚めた健吾は額の汗を拭い、ふと手の平の違和感に気が付いた。

――紐の痕だ…

彼の両手の平には、細い線の様な赤い痕がみみず腫れの様に刻まれていた。

朧気に思い出される気味の悪い夢…そして夢の中で感じていた切迫感がまるで現実のもののように感じられ、健吾はひどい疲労感と共にベッドを出た。

重い脚を引きずりながらキッチンへ向かい、冷たい水を喉に流し込む。

喉から胃へと流れ落ちる水が嫌な夢の記憶を洗い流してくれる様で、健吾は少し落ち着くことが出来た。

ハッキリとしてきた頭で昨夜のことを振り返ってみると、やはりあのドアノブに結ばれた紐をそのままにしてしまった事が悪夢の原因ではないかと思えた。

不気味に感じながらも、放置したまま就寝したことが夢に影響したのだろうと、自らを励ますように結論付けた。

そうなると、やはりあの紐が気になる。

あの紐を一刻も早く外し、捨ててしまおう。

嫌な気持ちを断ち切ろうと、今度は力強い足取りで玄関へ向かい、ドアを開けた。

秋の朝の冷えた空気が一気に部屋に流れ込み、健吾は身震いした。

全身の毛穴が一瞬であわ立つ。

健吾は構うことなく外に出ると、ドアを閉め、ドアノブ付近を凝視した。

――ない。

玄関のヒモは消えていた。

夜の間に、悪戯を仕掛けた人間が回収していったのだろうか?

もしかしたら…最近よく耳にする、空き巣や訪問営業などが秘密裏に使っているとされる”暗号”の一種だったのではないだろうか?

そう思うと、恐怖心に煽られ妙な夢まで見てしまった自分が情けないと同時に、怯えていた時間が馬鹿馬鹿しくなり、思わず笑いだしてしまった。

恐らくは、妙な執着心に捕らわれた人物が書いた妙なノートを手にした事と、玄関に付けられた後ろ暗い者達の”暗号”が、偶然にも「赤い紐」という符合を見せたことで、無関係だった二つの事柄が自分の中で繋がり、意味のない恐怖心が生まれてしまったのだろう。

分かってしまえば、抱くべきは恐怖心ではなく、空き巣や詐欺営業などに対しての警戒心である。

健吾は導き出した爽快感と共に部屋へ戻ると、わざとらしく指をさして施錠を確認し、再び笑い声をあげた。

軽い足取りでキッチンを抜け、リビングへと足を踏み入れたところで、部屋の中央に置かれているローテーブルが目に入った。

――赤いヒモが置かれている。

心臓を鷲掴みにされた様に全身が強張る。

喉元に鼓動を感じる程、心臓が早鐘を打っていた。

――なんで?どうやって?誰が?

混乱する頭を働かせようと必死に考えるが、思考が追い付かない。

玄関ドアに結ばれていたものと同じものの様に見えるが確証は無い…しかし、昨夜、眠りに就く前はこんなもの無かった筈だ。

結局、彼はこの紐に触れることができないまま、慌てて身支度を整えると、逃げる様に出社した。


それから三日間、健吾の部屋に入り込んだ赤い紐は場所を変えながら至る所に出現と消失を繰り返した。

たかが細く短い紐である。されど不気味な細く短い紐なのだ。

いつ何処に現れるか分からないという恐怖心を無視することは出来ず、健吾の緊張の糸は次第に張りつめていった。

そしてその間も、彼は例の夢――必死で赤い紐を手繰り寄せるあの夢――を、見続けていた。

あのノートが良くないのではないか、あのノートに繰り返し書かれている内容、その書き手の執着心にこそ自分は恐れをなしているのではないか。

しかし、あのノートを手に入れて以来自分の身の回りで起こっている不可思議な現象は一体何なのだろう…。

紐が勝手に出てきて、勝手に移動するなどという事は、現実的にはあり得ない。

無意識のうちに自分がやっていると仮定するのが一番説得力がある……しかし、それを自ら検証し証明する勇気は今の健吾にはなかった。

少なくとも彼自身はあの赤い紐には触れないよう意識して生活をしているのだ。

すべてが判然とはしないながらも、健吾は現実的に説明できる解釈をアレコレ考える中で、やはりあのノートに主な原因があると考えた。

ここ数日起こっている異様な現象に、恐怖心と共に苛立ちを覚えていた彼は、あのノートを処分しようと試みた。

一番手っ取り早く、かつ確実な方法として火をつけることを思いついた。

台所のシンクの上でライターに点火し、ノートを燃やしてしまおうと考えたのだ。

しかし、ノートに火を近づけると確かに点火していた筈の炎がすっと消えてしまう。

それならばと、ガス台のコンロに火を点け、じっくりと炙るように消えない炎の中にノートをくぐらせてみた。

しかし、その火がノートに燃え移ることはなく、ただノートをコンロにかざしているだけの時間が過ぎていった。

動揺した彼は、火が駄目なら、と今度は水に沈めてみることにした。

今にも崩れてしまいそうな弱った装丁と和紙である。

水の中でボロボロに溶かしてやろうと思ったのだ。

長い間使っていなかったバケツを引っ張り出し、風呂場に置くとその中にノートを放り込み、シャワーの水を掛け始めた。

蛇口を思いっきり捻った為、勢いよく噴き出した水が音を立て、ノートの表紙を叩きながら水が溜まっていく。

八割がた水が溜まったところで彼は蛇口を閉め、汚れた雑巾を洗う様にジャバジャバとノートを手荒く”擦り洗い”した。

かなり手荒く擦っているはずなのだが、一向に装丁や紙の剝れる様子がない。

訝しく思い、彼がそのノートを手に持ったまま水から引き上げると、驚いたことに擦られた形跡も濡れた形跡すらもなかった。

あの古本屋で手にした時と変わらぬ姿で、濡れた彼の手の中にその身を預けている。

その瞬間、全身に悪寒を感じ、健吾はそのノートを放り投げた。

「なんなんだよ…なんなんだよ!」

怒りと絶望が入り混じった声をあげ、その場に座り込んだ彼の耳に、聞き覚えのある機械音が遠くの方から聞こえてきた。

――ピーッピーッピーッピーッ……

……ゴミ収集車だ!!

そう思うが早いか、彼は勢いよく立ち上がると、今放り投げたばかりのノートを掴み取り、台所に置かれたゴミ箱の蓋を開けるとその中にノートを叩きつけ、袋の口をきつく結んだ。

その袋をゴミ箱から引き抜くと、転がり出る様に部屋を飛び出し、近所中の家庭ゴミを収集している作業員の元へ一直線に駆けていった。

「すみません、これも…お願いします!」

息も絶え絶えにゴミ袋を差し出す彼を見て、作業員は少し驚いた顔をしたが、

「はい。ありがとうございます。」

と笑顔を向け、受け取ったゴミ袋を収集車の荷箱の入口に投げ入れてくれた。

作業員が収集車側面へと移動すると、回転板が低い音をたてながら作動を始めた。

数日間の生ゴミや紙屑などが詰められたゴミ袋たちが一斉に圧縮され、健吾のゴミ袋と共にゆっくりと荷箱の奥へ飲み込まれたのを見届けると、作業員はペコリと小さくお辞儀をし、足早に収集車の助手席へと乗り込んでいった。

颯爽と走り去るその後ろ姿を安堵の表情で見送り、健吾は軽い足取りで自宅のあるマンションへと戻った。

何か吹っ切れた様な清々しい気持ちで玄関のドアを開け、部屋に足を踏み入れた健吾は、その場に崩れ落ちた。

そこには、今捨てた筈のあのノートが、静かに置かれていた。


四日目の朝、憔悴しきった健吾はあのノートを鞄に押し込むと、古本屋へ向かった。

どんよりとした雲からは、止んだと思われていた秋霖が再び降り始め、天気のせいか、先日とは打って変わって人気のない商店街を重い足取りで歩く。

見慣れた景色の中あの古本屋が見えてくると、重かった足取りが一層重く、引き返したい衝動に駆られた。

それでも何とか自分を奮い立たせ、歩を進める。

古本屋の店先に立ってみると、店の様子が先日と違っていることに気が付いた。

閉店セールの貼り紙は剥がされ、入口には「営業中」の札が掛けられている。

あの日と同じ様にガラス戸の隙間から店の中を覗き込むと、カウンターにあの老人の姿は無く、代わりに中年の女性が何か作業をしていた。

健吾は何故かホッとし、店内に入ると女性に声を掛けた。

「すみません、少し前にここで古い日記を買ったんですが……」

「日記ですか?」

彼女は怪訝そうに首を傾げる。

「はい。和紙で作られた古いノートで、表紙に『赤い紐』って手書きで書かれてたものなんですけど…」

健吾の言葉を聞き、女性は改めて記憶を辿る様にしばし考え込み、

「和紙の本ですか……?そういう本は、うちでは扱っていないと思いますが……。」

と再び怪訝そうに答えた。

「そんなはずはない。確かにここで買ったんです。四日ぐらい前です。

そうだ、店主さんはいらっしゃいますか?」

「ええ、私が店主ですが?」

その言葉を聞き、健吾はぞくり、と背筋が冷えるのを感じた。

「あの…つかぬ事をお聞きしますが、このお店で、おじいさんは働いていますか?70代後半ぐらいの、白髪で、丸い眼鏡を掛けた人なんですけど…」

困惑しながら問いかける健吾に、店主の女性は更に困惑した様に答える。

「いえ。この店はいつも私一人です。

どこか…他の古本屋とお間違えではないですか?」

言葉が続かない健吾に、店主が思い出した様に問いかけた。

「そういえば、先程おっしゃっていた本?ノート?

何かお聞きになりたい事がありましたか?返品にいらしたのかしら?」

その言葉に、健吾は必死で考えを巡らせた。

このまま「返品」としてこの店主にあのノートを引き取ってもらおうか…

しかし…”扱えない品”として引き取りを拒否されてしまったら……

彼はしばし思案した後、

「店を間違えていたみたいです。すみませんでした。

このまま、お店の本を見せてもらってもいいですか?」

と、とっておきの笑顔で答えた。

「ええ、どうぞ。ごゆっくり。」

そう言うと、彼女は営業用のスマイルを返し、元の作業へ戻っていった。

健吾は店の中をゆっくりと歩きながら、怪しまれないように店の一番奥まで進むと、

あの日、あのノートを見つけた書棚の前までやってきた。

周りを警戒しながら、音をたてないように鞄を開きあのノートを取り出すと、素早くあの日と同じ場所に置いた。

まるでずっとそこに立て掛けてあったかの様に……。

今にも背後からあの老人に声を掛けられるのではとビクビクしていたが、再びあの老人が現れることはなく、あっけない程簡単に「返品」することが出来た。

それ以来、健吾の周りに赤い紐は現れなくなり、あの不気味な夢をみることもなくなった。

最後は窓際で見掛けたあの紐も、古本屋から戻るといつの間にか消えていた。


古本屋、骨董屋など古いものを扱うお店は面白いもの、珍しいものに出会うことのできる心躍る異空間だ。

その独特の空気の中で巡る一期一会は、物たちが醸し出す記憶を嗅ぎ取れる者にとっては素晴らしい人生の彩となる。

が、しかし、長い時間を生きてきた物たちを手に取る時は少しだけ、嗅覚を研ぎ澄ますことをお勧めしたい。

人知を超えたスパイスをお望みとあらば、その限りではないのだが。


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