本庄桐子の懐古録 ~春~

石田ノドカ

序章 『本庄古書堂』

第1話 どちら様ですか?

『本庄古書堂』


 そんな名前のついた小さな建物を見つけたのは、ある日の夕刻、せっかく引っ越して来たのだからと、新しい住居の周りを何となく散策している時のことだった。

 こんな所に抜け道が、こんな店が、こんな家が――そんな風に思いつつ足を進め、ふと見つけた細い路地裏を抜けた先に、それはひっそりと、しかしどっしりと、確かな年季と重量感を以って構えていた。


 古書堂、というからには、本屋としての仕事なのだろうけれど……この、扉の端に貼ってある『思い出の補修作業』というのは、一体何なのだろうか。

 汚れへたってしまった本の修繕作業でも請け負っているのだろうか。


 と、そんなことを考えながらも。

 大学入学と共に越してきて、アルバイトも探そうかなと思ってもいたところだったため、歴史を感じさせつつも丁寧な清掃の行き届いているその建物に貼られていた『アルバイト募集中』の文字は、もはや運命かとでも呼ぶように、僕の足を、自然とその中へと誘い込んだ。


 カラン、コロン。


 少し鈍った、ベルの音が耳に届く。

 短く響くと、それは余韻なく店内の空気に溶けた。

 ……店内、と言っていいものやら怪しい、薄暗くも暖かいその中には、あらゆる本が積み重なっていて、想像する通りの古書店然としている。

 少しの埃と古本の匂い。地元を思い出して、不思議と嫌ではない。


 せめて通路は、とでも言いたげに足の踏み場だけは最低限確保されているが、それ以外、棚や机の上は悲惨なことになってしまっている。

 大掃除か整理の途中だったりするのだろうか。

 文庫本や昔懐かしい漫画の他、隠れた観光地、世界の絶景何選、といった本も多く見られる。


 それら古本の数々を横目に見ながら、中へ中へ。

 突き当たった壁を横に向くと、奥に小さな扉を見つけた。

 ここは何だろうか――そう思いドアノブに手を掛けた時だった。


『どちら様ですか?』


 扉の向こうから、透き通った綺麗な声がそう尋ねて来た。

 物音ひとつしないものだから、てっきり無人の廃墟なのでは、とすら思っていたのだけれど。

 ともあれ存在が気付かれてしまった以上は、返答しない訳にもいかない。


「あ、えっと、神前結人かんざきゆいとと申します…! 越して来たばかりで、辺りを散策してて……すみません、勝手に上がり込んでいて」


『ああ、なるほど。店先の札を《CLOSED》にしておくのを忘れてしまっていたみたいですね。申し訳ございません、入って良いものやら、迷われたことでしょう』


 声は、少しこちらへと近付いて来ていた。

 そうして、ギィ、と鈍い音を立てながら、扉が開かれる。

 顔を出したのは、ふわっとした口調から何となく想像した通りの、清楚という文字をそのまま人の形につくり上げたような、若い女性だった。

 髪は黒の長髪。さらりと揺れるストレート。

 白のニットを羽織った下は、紺色のロングワンピース。緩くずれたニットの肩からは素肌が覗いている。ノースリーブだ。

 傾げられた首の上、小さな顔には、黒い縁の丸眼鏡。


 大人の女性、というような風貌だ。

 肌も、驚くほど白い。


「あの……?」


 つい見回している間に女性は、闖入者たる僕に、控えめな声を掛ける。

 慌てて我に返って、すいません。


「ここって、古書店、なんですよね?」


「ええ。それが何か?」


「あ、いえ、その割には喫茶店みたいな香りもするな、と。紅茶、でしょうか……?」


「ああ、それなら――そうだ。ご一緒にいかがです? 今、丁度淹れていたところだったんですよ」


 そう言うと女性は、僕を中へと誘うように身体をずらす。


「えっ。いや、迷惑じゃ……」


「暇を持て余していたところですから。それに、散策と言うのであれば、私、多少お力になることは出来ますよ?」


「う、それは確かに……」


 ここに住まう人間から話を聞けるというのは、越して来た人間からするとたいへん有難いことではある。


「……では少しの間、失礼します」


「ええ。どうぞ、中へ。少し狭いかも分かりませんが」


「ありがとうございます。失礼します」


 その女性に促されるまま、僕は細く小さな扉から中へと入った。

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