ショートショートvol.8『メメラ』

広瀬 斐鳥

『メメラ』

 同じクラスの蓮村くんは、くらくらしちゃうくらいかっこよかった。

 私は親友の詩織にその思いを打ち明けたのだけれど、彼女はメメラの背を強く撫ぜながら、戸惑うような顔をしただけだった。

 まあ、それも仕方ないんだろうなと思う。蓮村くんのかっこよさは、背が高いとか、顔のパーツが整っているとか、そういう分かりやすいものじゃない。その仕草が、所作が、佇まいが、かっこいいのだ。

 頭のてっぺんから爪先まで自然な力が込められていて、何気ない動作にも不思議な魅力がある。すっくと立ち、さっと座り、まるで何かのお手本のように歩く。若さと幼さが跳ね回る乱雑なハイスクールの教室で、その姿はぴかぴかと光ってさえ見えた。

 それに、それに。私なんかにも、ときたま向けてくれるあの笑顔。毒気がなくて、無垢で、高級な化粧水みたいに私の胸にすーっと染み込んでいく。それは青春映画にありがちな胸の高鳴りとはまた違った、しっとりとした幸福感を私に与えてくれるのだ。

 たまらない、たまらないよ蓮村くん。

 

 そして私は今日もまた、数学Bのテキストを熱心に読むふりをしながら、斜め前の席に座っている蓮村くんの横顔をずっと見ていた。

 蓮村くんは、退屈な授業にもいつも真面目に取り組んでいて、時々思い出したように長めの髪をかき上げる。そのしなやかで細い手は、机の端に置いたメメラの喉を潰すときには少し筋が浮いて、彼の男性的な部分をささやかに主張したりもする。

 その手つきにどぎまぎした私もつられて、ポケットの中のメメラに指を突き立てる。じゅくじゅくと熱い液体が溢れる感触がして、すぐに消えていった。ハッカを塗ったみたいにすうっとする指先で、鼻をかく。

 いけない、いけない。つい夢中になってしまった。

 でも浮かれた気持ちが少し落ち着いたのも束の間、私は斉藤先生が教壇の上からこちらをじいっと見ていることに気が付いた。なんだか、いやな予感がする。

「佐倉、テキストにかじりついているようだが、俺の話は聞いてんのか。問六で使用する公式は何か答えてみろ」

 いやな予感、的中。

 突然指された私はしどろもどろになり、思いつく公式をいくつか挙げた。オイラーの等式とか、マルホルムの遷延化定理とか。他にもいくつか。でもそれは全部間違いだったらしく、一つ答えるごとに先生の眉間に皺が一本ずつ増えていった。

「すみません。ちょっと、違う問題に夢中で」

 これは嘘じゃない。私にとって蓮村くん問題は史上最大の命題なのだ。この問題の前では、フェルマーの最終定理だってメじゃないし、ゴールマハティヒ予想だって些細なもんだ。

 私が言い訳すると、教卓の下からチイチイという鳴き声がした。きっと先生がメメラの脚を折ったんだろう。

「熱中するのはいいことだけど、先生の話も聞いてくれな」

 とても数学教師とは思えないまっちろな歯を見せて笑う先生に「はあい」と答えて、私はまた蓮村くんの横顔を眺める作業に戻る。

 彼はわたしたちの問答には目もくれず、窓の向こうの青空を眺めながら、優雅な手つきでずっとメメラの皮を剥いていた。その所作がまた、たまらなくかっこよかった。


 私の情熱とは裏腹に、ママは蓮村くんのことが気に入らないようだった。理由は単純で、私が彼に夢中になってから、がくんと成績が落ちたからだ。

 高校二年生の秋は、もっと学生の本分ってやつに集中しないといけないというのがママの主張だった。私は蓮村くんと学校の成績は関係がないと反論したけれど、ママはメメラの耳を指で擦り潰しながらそれを否定するのだ。

 ママに言わせれば、私は、月に一度の席替えで蓮村くんと近い席になれば夢中になって成績が落ち、遠い席になればガッカリして成績が落ちるのだという。そんなばかな。どの席になったって、私の想いは変わらないのに。

 ある夜も、私とママは蓮村くんのことで散々言い合った。ママは分からずやで、お互いに過去のことを持ち出して泣いたり泣かせたりして、散々なことになった。

 でも、そんな大騒ぎは病院からの一本の電話によって遮られた。なんと、パパが目醒めたのだという。七年ぶりに。


 翌日、私とママは鈍行列車を乗り継ぎ、急いでコウセイ病院に駆けつけた。ところが、心配する私たちをよそに、ベッドの端に座るパパは思ったより元気そうだった。

「どうも、タイムスリップした気分だよ」

 そんなことを言いながら、骨張った手で頭を掻きつつ私たちを迎える。七年もぐうぐう眠っていたんだから、その感想も当然だ。

 パパがばたばたと入院した時には小学生だった私も、いまや高校生になっていた。実の父親というよりも、疎遠になっていた親友と久々に会ったような気分で、なんとなく照れ臭くて、当たりさわりのない会話をしてしまう。最近の天気とか学校の話とか。もちろん、蓮村くんの話も。すると、なぜかパパは目線をあっちこっちに泳がせた。

「どうしたの、パパ」

「いや、まあ。まだ調子が戻らないみたいだ」

 パパはそう言って笑い、また少し目を泳がせる。そして、私の肩に乗るメメラを見て、大きく「ほう」と声を上げる。なんだか、少しわざとらしい。

「なんだ、今はそういうペットが流行ってるのか」

「ペットというか……ねえ」

 いまどき、ペットだって。私はママと顔を見合わせて笑う。パパは訳がわからないというふうに首を振る。その仕草は七年前のそれと変わらないように見えて、私はなんだか嬉しくなった。

 ずうっとママと二人で暮らしてきたけれど、パパが退院すれば、三人で楽しく暮らせる。一緒に起きて、一緒に食べて、一緒に寝る。ああ、なんて素敵なんだろう。

 それに、それに。私は少しだけ妄想の世界に耽ってみる。そこに、もし、蓮村くんが加わってくれたらどうだろう。

 おはよう、蓮村くん。お疲れさま、蓮村くん。おやすみ、蓮村くん。

 これはとっても、とっても素敵なことだ。私は耳がじいんと熱くなるのを感じた。


 ところが、楽しい再会の時間は長くは続かなかった。

 パパとママがいろいろと話し込んでしまったので、私が所在無げにメメラの毛をむしると、なぜか、パパは急に目の色を変えたのだ。

「おい、それは可哀想だろう」

「可哀想? なにが?」私は訊く。

「その、メメラとかいう生き物がだよ」

 パパは真面目でございますという顔で、とんちんかんなことを言う。初めは何かの冗談だと思い、私とママも笑っていた。けれど、パパはどうやら本気でそう思っているらしかった。

「毛をむしるのをやめなさい。鳴いているじゃないか」

「メメラは、こういうものだもん」

「なんだって?」パパはぎょろっと目を見開く。

「ママ、俺がいない間にどんな教育をしてきたんだ」

「べつに、普通に育ててきたわよ」

「これのどこが普通なんだ!」

 興奮したパパは、なぜか私の手の中にいるメメラを指さして、がなり立てる。脚のつぶれたメメラはいつもどおり、普通にチイチイと鳴いているだけだ。

「ほんと意味わかんないよ、パパ」

 会話が噛み合わず、たまらず私はメメラの肌に何度も指をめり込ませた。なんとか落ち着かせようとしても、メメラのチイチイを聞くたびに、なぜかパパの興奮はどんどん高まっていく。

 困り果てたママがメメラの足をラジオペンチでもぐと、パパはついに半狂乱になって喚き始めてしまった。目は血走り、青白い顔にゴツゴツとした頬骨が浮かんで、まるで墓穴から出てきたばかりのゾンビみたいだ。

 その形相が怖くて、怖くてたまらなかった。あんなに優しかったパパが、こんなふうになってしまうなんて信じられない。

 ようやくママが震える手でナースコールのボタンを押すと、ばたばたと看護師たちが駆け付けた。彼らは手際良くパパの体をベッドに押さえつけて、背の高いお医者さんが眠り薬をかがせる。

「夫がご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 ママが頭を下げるので、私もそうする。

 お医者さんは暴れるパパを押さえるときに何発かパンチをもらっていたけれど、そのことには触れずに「力及ばず申し訳ありません」と、頭の一つを深々と下げた。立派なふるまいだな、と思った。

 一方のパパは、すっかり様子がおかしくなっていて、薬が効いて意識が途切れる瞬間まで、うわ言のように「化け物め」と口汚く罵っていた。

 結局、お医者さんの判断で、パパはもうしばらく入院することになった。聞いた話だと、いろいろと薬が足りなかったらしい。みんなで暮らせると思っていたから残念だったけど、あの病院にはパパと同じ症状の患者さんがたくさん入院していて、最後にはみんなちゃんと退院しているから大丈夫だと、お医者さんは元気づけてくれた。

 でも、ママはこの一件ですっかり怯えてしまい、ドライバーやカッターナイフでメメラをいくつもだめにした。配給局の人は何も言わずに毎朝メメラを届けてくれたけど、暑い日も寒い日も、とっても大変だろうと思う。

 そんな私も慰める言葉が思い浮かばず、毎晩ママの部屋から聞こえてくる、メメラの血が乾くしゅわしゅわという音を子守り唄にして眠るようになった。


 さて、うちの家族はどうにも悲惨だったけど、蓮村くんはいつも、ずっと、どこまでも、たまらなくかっこよかった。

 ふと笑った時の八重歯。バスケットのシュートを外したときの悔しそうな目。上履きを脱ぐときの手つき。部屋のドアを開ける時の背中。寝返りを打つ時のかすかなうめき声。それに、目玉焼きにケチャップをかける仕草なんかも、ぜんぶ素敵。

 ああ、もう、完璧だ。美術の授業で「神は細部に宿る」なんて言葉を習ったけれど、それは蓮村くんという存在に結実する真理だと思う。彼の一挙手一投足が、いちいち私の胸の奥に、うずたかい宝の山を築き上げてくれる。

 私はもう、蓮村くんから目が離せないのだった。

 そして、また七年が過ぎたその日も、私は変わらず蓮村くんの横顔を見ていた。

 技術の進歩はすごいもので、二百五十倍の光学ズームレンズは私と蓮村くんの物理的距離をみごとに縮めてくれる。ビルの二十階ともなればさすがに少し怖いけれど、それが何だという気持ちだ。

 都会を歩く蓮村くんは相変わらずかっこよかった。すっくと立ち、さっと座り、まるで何かのお手本のように歩く。コンクリートにまみれた猥雑な社会の中で、やはりその姿はぴかぴかと輝いて見える。

 私はビル風に飛ばされないように気を付けながら、素早くカメラのメモリーカードを入れ替えて、蓮村くんの姿をふたたび捉えた。蓮村くんという発光体がレンズを軽やかに通過し、リズムよくレフレックスミラーで反射して、さんざめくペンタプリズムに導かれ、鮮やかにファインダーに飛び込んでくる。いち、に、さん。カシャリ。またひとつ増えた、私と蓮村くんの永遠。

 ただ一つ気に入らないのは、蓮村くんの横で、あの女がみっともなく口角を吊り上げていることだ。腹はずんぐりと膨れていて、のしのしと歩く。まるでたぬきの置物みたい。

 私はメメラの首をぎゅうっと絞る。二つになった内のかたわれが、ビルの下にすうっと落ちていく。指先で小さな泡が踊り、ハッカの香りが風に交じって鼻を抜けていく。清涼感。

 だが、私の気持ちはまったく晴れなかった。

 優しい蓮村くんは、浅はかな詩織のおままごとにいつまで付き合ってあげる気なんだろうか。優しさは一つの美徳だけど、優しすぎるのも考えものだよ、蓮村くん。

 キャッチ・ミー・イフ・ユーキャンの流し目に見惚れながら、私は余計なものを排して、彼だけをファインダーに捉えてシャッターを切り続けた。増える、増える、二人の永遠。

 ママは私の強い想いを分かってくれたのか、もう何も言わなくなっていた。朝早く出かけて、夜遅く帰ってきても、いつも笑いかけてくれる。ほら、会話らしい会話はなくとも、通じ合うものはあるのだ。それが愛というやつだろうと、私もようやく理解してきた。

 以心伝心、あうんの呼吸、テレパシィ、ヒトとメメラ、私と蓮村くん。迷い込む愛の答えはいつだってシンプルだ。

 私は来る日も来る日も、高いビルの上から蓮村くんを捉え続けた。レンズを丁寧に拭いて、呼吸をしっかり整えて、バンジージャンプをするみたいに一気にシャッターを切る。


 パパが目醒めたという連絡が来たのは、そんなある日の夜だった。

 台風が接近していて、雨が降りだしていたけれど、構うことなく二人で病院に向かった。

 看護師さんに案内されながら、私はパパがまた錯乱して、ママもおかしくなっちゃうんじゃないかと不安だったけど、それは杞憂というものだった。

 病室に入ると、パパはとても穏やかな顔をしていて、その手ではメメラを遊ばせていた。

「ああ、ずぶ濡れじゃないか」

 私は看護師さんにもらったタオルで身体を拭きつつ、パパに体調はどうかと尋ねる。

「なんの問題もないよ。なんにも」

 パパはご機嫌だ。何を聞いても笑って答えてくれる。悩んだ時もくるくるとメメラを弄ぶだけで、首を振って困る仕草は、もうしない。

 私は七年前の事件以来、パパのあの仕草が怖くなっていたから、本当にほっとした。パパが豹変するスイッチのように思えたのだ。

 そのうち、病室の窓を叩く雨音が強くなってきた。ゴロゴロと響く雷鳴にまぎれるようにして、がちゃりと病室のドアが開く。

「お加減はいかがですか、お父さん」

 現れたのは、あの時のお医者さんだった。暴れるパパが何度もパンチを食らわせた、長身のお医者さんだ。

「ああ、ええ。元気になりました。おかげさまで」

「それは良かったです。でもまだ、無理はなさらないように」

 いたわる言葉にパパは頭を下げたけど、すぐに過去の醜態を思い出したようだった。

「あの、先生。前に起きたときは取り乱して、先生のことを化け物だとか言ってしまいましたよね。それに、パンチも何発か」

 パパはバツが悪いのを誤魔化すように笑う。先生がびっしりと並んだ黒い歯を輝かせて「いいんですよう」と優しく言うものだから、パパはいよいよ弱ってしまった。

「ああそうだ。どうしたんだ、あの男の子のことは」

 パパは無理くり話題を変える。私は蓮村くんがおざなりに扱われた気がして、むっとした。

 でも、それでパパを無視したりはしない。なんたって、蓮村くんの話なのだから。

 蓮村くんはいつも、ずっと、どこまでも、たまらなくかっこよい。一時の感情でそのことに触れないのは、とっても失礼だと思うのだ。

 しばらく私の話を聞いてから、パパはふう、と息を吐いた。ママがなぜか少し体を強張らせる。

「目いっぱい恋愛すればいいじゃないか」

 言いながら、お父さんはメメラの目をくり抜いて、指先でぷちんと割る。ライム色の液体が蒸発して、爽やかな香りが広がった。

「もう、無理しちゃって」

 ママが弛緩したように笑うので、私も笑う。窓の外が光って、病室のみんなの姿が闇に浮かび上がる。私の家族に久しぶりの笑顔が戻った。私はまた素敵な想像をして、耳を熱くするのだった。


 パパが家に戻ってから、ママがダメにするメメラの数はだいぶ減った。でも、配給局の人は相変わらず、暑い日も寒い日も、毎朝メメラを届けに来た。ママがダメにするメメラの数はそれはそれは多かったから、パパの分を足しても全体では大きくマイナスになるはずだった。でも、配給局の人がうちに来るペースはあまり変わらない。これには、どうやら別の理由があるようだった。

 私はその理由に思い当たりがあったけれど、ずっと気のせいだと考えていた。そんなまさかあり得ない、って。だけど、日々の焦りと苛立ちの中で、どうしてもそれを認めなければいけない瞬間がやってきた。

 メメラが、効かなくなってきたのだ。

 怖気と一緒に、あのお医者さんの顔が頭をよぎった。コウセイ病院の不潔そうなベッドと、セボフルランの甘い香り、それに頬骨の浮いたパパの顔も。

 耳の奥でサイレンが鳴り響く。いけない、いけない。私は大丈夫。まだまだ大丈夫だ。


 私は灰褐色の気持ちを振り払うように、蓮村くんに逢う回数を増やした。本当はそんな不純な動機で蓮村くんに接してはいけないのだけれど、メメラの効きが鈍くなってきたのと、蓮村くんはたぶん、無関係ではないのだ。

 ビルの屋上から、私だけの光る君をファインダーに捉えてシャッターを切る。彼の横に醜くへばりついている、余計なものは写らないように。いち、にい、さん。カシャ。心なしかニブい音だ。強い風が吹いて、こらえるように踏ん張る。コンクリートの粒がざりざりと耳ざわりな音を立てる。蓮村くんは相変わらずしゃんと姿勢よく歩いていたけれど、私の背はなぜだか丸まっていく一方だった。みじめな気持ち。モップで、はさみで、安全ピンで、マッチで、いくらメメラをダメにしても、無味、無臭、無感。私はずっとコンクリート色の薄曇り。


 でも、パパとママのフェイラムールを聞きながら、メメラを手のひらで遊ばせていたある日の夜。私はひたひたになった手をオリオン座の方に振って乾かしながら、ある真理にたどり着いたのだ。

 きっと、もっとおっきなメメラが必要なのだ。

 ユリイカ! なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。

 ベッドから跳ね起きた私は、夜道を駆けて、コンビニで大きな鉄亜鈴を買った。棚にずらりと並べてあるセール品だ。ずっしりが、とっても頼もしい。自動ドアを抜ければ、コンビニのメタルハライドランプが背後にきらめいて、世界はビビッドなモノクロになっている。新月の夜だったけれど、天から光が差しているようだった。その光はくるくると撚れて、私の頭のてっぺんに降り注ぐ。その信号を受けて、マリオネットのように手が、足が動いた。振り向けば、宵闇に夢魔がいた。でもよく見てみると、それはガラス窓に映った自分の嬉色だった。

 光、闇、そして光。初めてお酒を飲んだ時みたいな酩酊感。あっという間に視界がくるくると回転する。洗濯機に放り込まれたようなヴァーティゴー。たまりかねて、ぎゅうっと目をつむる。

 そして、目を開ければそこは、いつものビルの屋上だった。

 すでに陽は高く昇っていた。桜散らしの風が、風見鶏の背中を押している。眼下に街が見える。もう、二百五十倍の光学ズームレンズは要らなかった。蓮村くんは、澱んだ川底で光る砂金のように輝いていた。

 非常階段を三段飛ばしで駆け降りる。腓骨が、膝蓋骨が、大腿骨が、絶叫する。喉の奥から空気が絞り出されて、熱っぽい隙間風が鳴る。

 墜ちるように地上まで降りると、途端に足元から耳ざわりなアラーム音が響いた。右足に絡みついた電子足輪が、私と蓮村くんの異常接近を告げる。

 水を差すな。鉄亜鈴を何度か叩きつけると、足輪はあっけなく壊れた。散らばった軽金属の破片を蹴とばして、私はビルの隙間を飛ぶように走る。

 いた。いた。いた!

 蓮村くん。バロック絵画の一角から飛び出してきたような、憂える姿態。世界が反転して、鏡花はまさにそこにある。

 きれいだ。まるで何かのお手本のように。さあ、しょうもないおままごとを、終わらせてあげるね。

 私は、蓮村くんにみっともなく付いて回っている物体に躍りかかった。

 肩をぐいと押しただけで物体は無様に転んで、大きく突き出たメメラを晒す。ああ、みっともない。でも、それが私をたまらない気持ちにさせる。

 鉄亜鈴を振り下ろす。重力に想いを乗せて。メメラはいつものように鳴く。二千四百ヘルツの快音。固まっていた四肢がほぐれていくような、心地いい感触が身を浸した。

 パステルカラーの視界の中で、蓮村くんが何かを叫んでいた。

 その声で、私は、恋の終わりが近付きつつあるのを察した。

 でも、寂しい気持ちはまったくないのだった。

 それはきっと、愛の成就を告げる鐘の声に違いないのだから。

 天気予報は、晴れのち晴れ、時々晴れ。クラウドナインの、はるか上。

 こんにちは、蓮村くん。大丈夫だよ、蓮村くん。よろしくね、蓮村くん。

 愛の答えを、探そうね。


(終)

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ショートショートvol.8『メメラ』 広瀬 斐鳥 @hirose_hitori

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