第12話 家出(デジャヴ)
「うー、緊張する……」
「なんで姉の私よりあゆみの方が緊張してんの」
三月中旬、その日は香奈の第一志望、誠英高校の合格発表日だった。
香奈はお母さんと二人で高校まで見に行くようだったから、恵奈と私の家で二人、パソコンを前に合格発表を待っている。
「恵奈こそもっと緊張するべきじゃない? 自分の妹でしょ」
「香奈の頑張ってるとこはずっと見てたからね。まぁ問題ないでしょ」
これが姉の余裕か。私も大丈夫だとは分かっているけど、緊張せずにはいられない。意味もなく部屋をうろうろしてしまって、恵奈にうるさいからやめてと注意されてしまった。
合格発表はちょうど十二時、現地では紙で張り出されて、インターネットでも公開される。
香奈も合否はすぐに連絡してくれるだろうけど、受験番号は教えてもらっているし、インターネットで見た方が早い。
「ほら、もう十二時なるよ」
「わ、わかった」
すでに高校のホームページにアクセスしていて、たぶん十二時になったら合格発表のリンクが出るんだろうけど、パソコンの前でじっと待つのはなかなか耐え難い。意味もなく更新してしまう。
「十二時なった」
その言葉にすぐさまページを更新すると、メインページに合格発表のバナーが出てきた。バナーをクリックすると、ずらりと数字が並ぶ。
「えっと、395、395……」
「あ、あった!」
その無数の数字の中に、395という数字はしっかりとあって、しかも横には『特』という文字がついていた。
「やった! これって特待生ってことだよね!」
「さすが私の妹」
私が恵奈を抱きしめて喜びを爆発しているのに対し、恵奈はうんうんと頷いている。私も香奈がたくさん勉強していることはもちろん知っていたし、不合格になるとは露ほど思っていなかったけど、いざ合格がわかると自分のことのように嬉しい。
そしてすぐにスマートフォンの方にも通知があった。そこに表示された画像を見て私達は思わずハイタッチをする。
画面の中には満面の笑みで自分の番号を指さしている、香奈の姿があった。
「いやーしかし私もやっと言えるな。結婚すること」
「あ」
そして香奈にはもう一つ大きなイベントがあることを、私はすっかり忘れていた。
『家出してきました』
合格発表から一週間経ったとある日。朝からだらだらしているうちに夕方になってしまい、今日という日を諦めようとしていた時にインターホンが鳴った。画面の向こうには香奈が一人立っている。
「これってなんて言ったっけ。デジャヴ?」
『デジャヴは既視感のことです。一度も経験していないのに、経験したことがあると誤認することを言うので、今回は少し違いますね』
「こんなにちゃんとした答え返ってくることあるんだ……」
なにはともあれ、香奈を部屋にあげる。
以前こうやって突然訪ねてきたときは、明らかに怒っている感じでだったけど、今回は特に感情の起伏がなく部屋に入ってきた。
「これ、お土産です」
「ありがとう、とりあえず座って。なにか飲むもの用意するから」
渡されたのは期間限定の高級アイスが二つ。前もそうだったなと思いながら、今回はアイスより香奈のことが気になってしまい素直に喜べない。
この一週間の間に、恵奈がどのようにことを運んだのかは聞いていない。ただスマートフォンを確認すると『失敗しちゃったー。あとよろしく』という短い文章と、テヘッとしたスタンプが送られてきていて、なにかしら問題が起こったのはわかった。
テーブルの前で大人しく座っている香奈は、いつも通りのように見える。前のようにわかりやすく怒っている方がまだ宥めやすかったかもしれないなと思いながら、香奈用のマグカップにミルクを温めて出した。
香奈はお礼を言って、ゆっくりとホットミルクに口をつけ、ほぅ、と息を吐き出した。
「あゆみさんは、知ってたんですね」
なにが、と言わなくてもその意味は分かる。
「うん」
「結婚祝い、決まりました?」
「……うん」
綺麗にラッピングされた結婚祝いが、今も私のクローゼットの中にある。それは以前香奈と一緒に出掛けたときにアドバイスをもらって、後日私が買いにいったものだ。
テーブルの前で膝を抱え込む香奈は、なんだか酷く一人ぼっちのように見えた。恵奈の結婚は喜ばしいもので、普通の妹ならただただ祝福すると思うけど、香奈はちょっと恵奈に依存しているところがあるというか、なんというか。普通の姉妹よりは仲が良いことは間違いなかった。
「昨日、両家の顔合わせがあったんですよ」
「そうなんだ」
「啓介さん……お姉ちゃんのお婿さんの名前です。ご家族もとても良い方たちでした。顔を合わせてすぐに啓介さんのお父様が、『教育実習生の時とはいえ生徒に手を出したようなものだ』と何回も謝っていて、啓介さんも一緒になって頭を下げていました。おねーちゃんがすぐに顔を上げさせて、それからは和やかな雰囲気で食事をしました。啓介さんもおねーちゃんも、もうパートナーとしての会話をしていて、とても幸せそうで。お母さんも凄く喜んでいて、悪いところなんてどこにもなくって」
結婚前の顔合わせ、家族同士で食事をしたりするのはよく聞くけど、経験のない私にはうまく想像できない。でも香奈の言葉を素直に受け取るなら、今のところ家出してくるような要因はないように思える。
「私もおねーちゃんから結婚の話を聞いてからずっと本当のことか疑っていました。いえ、実は顔合わせが始まってもどこかでドッキリでした~ってパネルがいつ出てくるかと思って」
「……全然信用してなかったんだね」
「でもそんなわけなくって、順調に顔合わせは終わりました。そこでようやっと私も受け入れることができて、祝福する気分になってきて、顔合わせが終わって家に帰ってきてから、改めておねーちゃんと話をしました。馴れ初めとか就職とか、家計はどっちが管理するのとか聞きたかったので」
「うん」
「おねーちゃんはいろいろ話してくれました。まだ半年しか付き合ってないのは、ちょっと早計な気もしましたけど、啓介さんも教職ですし、話した感じだととても立派で聡明な方だと思います。おねーちゃんにもったいないくらいに。おねーちゃん自身も最近は少しずつだらしないのが直ってきていますし、相性も悪くないのでしょう。でも一通り話してくれた最後に、おねーちゃんはこう言ったんです。お母さんのことは私に任せて、香奈は香奈のやりたいことをやんなって」
それを聞いて私は少し姉妹というものが羨ましくなった。そんな風に気にかけてくれる身内は、私にはいない。もちろん親は心配してくれてるんだろうけど、それはあくまで親の立場で、自分と同じような立場で考えてくれるのは、兄弟姉妹しかできないことだと思えた。
「これはきっと、私の考え方が悪いだけなんです。悪いだけなんですけど……私には、姉が身代わりになってくれたように思えたんです」
「身代わり?」
「おねーちゃん、実家の近くにマンションを借りて住むそうです。それで私が高校生のうちに、子供も産む予定みたいで」
「子供! 子供か……」
恵奈が? 子供? いきなり出てきた単語が上手く飲み込めない。
でもよく考えれば、香奈が高校を卒業するまでに丸三年ある。生活がある程度安定してきたら、そんな流れになってもおかしくはないの……かな?
「そうしたらお母さんにも孫の世話頼むことになるだろうから、ここを離れても大丈夫だよって。香奈は私と違って凄いところがたくさんあるから、もっと自分の好きにしなさいって……」
なんとなく香奈の言いたいことが分かってきた気がした。
つまり恵奈は、香奈を家から出させるためにに結婚したと思わせてしまったんだ。もともと香奈は高校入学の際にここを離れる計画を家族に話していた。私の介入もあって結局その計画は断念して、近くの誠英高校を受験することになったけど、香奈の才能は他の同年代と比較しても突出しているし、この先ずっと家から離れられず、この周辺で生きていくのはもったいなく感じる。
でも恵奈が香奈のことを想って結婚したかと言われると、その可能性は低いんじゃないかと思う。恵奈と啓介さんの出会いは私も聞かされた。結婚は確かにちょっと早いんじゃないかなぁと思うのは私も同じだけど、本人同士で了承が取れているなら問題ない。子供も、きっと一緒に過ごしていれば出来ることもあると思うし……。それがたまたま香奈の状況に合致したから、恵奈は香奈にそう言ったんだと思うけど。
なんというか、恵奈の伝え方も悪いし、香奈の受け取り方も悪いだけな気がしてきた。恵奈はともかく、香奈は自分の考え方が悪いことを自覚してるし、もう少しちゃんと話し合えば解決するような気がする。
といっても、今の香奈に「もうちょっと恵奈と話しておいで」と言っても、家出してきた矢先素直に頷くと思えない。黙ってしまった香奈を前に、必死に頭をひねらせて考えた結果。
「香奈は将来、宇宙のことを仕事にしたいんだよね」
「そうです」
「いったん恵奈のことはとりあえず置いといて、まずそのためにどうしたらいいかを考えてみようか」
私が提案したのはいわゆる、『問題の先延ばし』だった。
香奈の高校生活はまだ始まってもないし、これからもきっといろいろなことを経験する。私の転機も高校生の時だった。コンプレックスだった背の高さを、少しだけ自分でも認められるようになった。
香奈は私よりもずっと先まで人生設計をしているし、その通り自分の人生をコントロールする力もある。それを目指しながら高校生活を過ごすうちに変わるところだってあるし、そのために恵奈の力が必要になることだってきっとあると思う。
つまり、未来はまだわからない。香奈はまだ高校に入学する前だから、今から高校卒業の時を考える必要はないんだ。一つ一つ、近いところから頑張っていけばいいと思う。
だから、そんなに落ち込まないでほしい。香奈が悲しいと、なんだか私まで悲しいから。
最期の話は抜きにして、私が頑張ってそんな話を香奈に訴えていると、下を向いていた香奈がいつの間にか私をまっすぐ見つめていた。その視線に気づき話を止めると、香奈は膝を抱えるのをやめてこちらににじり寄ってくる。
「え、なになになに」
「ちょっと失礼します」
と、私の手とか足とかを避けて、私の股の間にすっぽり座る。私からは背中しか見えないけど、腕を回せば座ったまま後ろから抱きしめるような恰好になるわけで。
「抱きしめてもいいんですよ?」
「な、なんで」
「昔、おねーちゃんがよくそうしてくれたので」
いやそれどのくらい昔? とも思ったけど今の香奈を前にそうするしかないような気がした。言われた通り香奈の身体を引き寄せるように抱いてあげる。うぅ、なんか凄い良い匂いする……。そしてなんで私の鼓動は早くなるんだ……。
私の中にすっぽりと入った香奈は、膝を抱えていても足まで全然収まってなかった。なんだか寂しそうな頭を、励ますために撫でてやる。
そんなことをしているうちにふと思った。いろいろ話したけど、これってもしかして香奈が姉離れできてないだけなのでは? と。
一度それに気づいてしまうと途端にそんな気がしてきてしまって、でもそれを指摘することはできないから、結局その日は言われるがまま香奈を甘やかす日になった。アイスもあーんしてあげたし、髪も乾かしたし、いつものように一緒のベッドで寝ることになる。
一応敷いたもう一組の布団は、香奈が泊まるたびに準備するけど結局一度も使ったことはない。今度から出すのやめようかな……。
そうして次の日、幾分機嫌が良くなった香奈は、いつもと同じテンションで家に帰っていった。なんだかとても振り回された気分だったけど、元気になった香奈を送り出して、私はやっぱり安心したのだった。
「はい、結婚祝い」
「ありがとー」
その日はいつものように適当な居酒屋じゃなく、ちょっと雰囲気のいいフレンチ居酒屋を予約していた。左手の薬指に指輪をした恵奈とグラスを交わし、綺麗に包まれたプレゼントを渡す。
「おぉ、お洒落」
恵奈はさっそく包みを開封して、2つのグラスを光に透かしていた。プレゼントしたのは猫と月がモチーフになっている切子のペアグラス。もちろん主にお酒を飲むようを想定している。
「そういえば香奈から聞いたんだけど、もう子供の計画まで立ててるの?」
ある程度お酒も進んでから、気になっていたことを聞いてみる。
「うん、私もダンナも子供嫌いじゃないし、早い方がいいよねって」
「結婚に子供かぁ……なんだか恵奈が急に遠くにいっちゃったみたいで寂しいよ」
「なーに言ってんの。あゆみもこの近くで就職すんでしょ? いつでも会えるじゃん。むしろ私パートになるだろうから、あゆみより時間あると思うよ。暇になったら飲みに誘うから」
変わらない恵奈に安心する一方、それでもやっぱり変わっていくのは止められないんだろうなと思う。あと一年すれば私もどこかで働いているはずで、大学の時のように恵奈と顔を合わせることはないし、仕事を始めれば新しい人間関係だって始まる。
それが今から少し不安で、まだ働く場所も決まっていないのになんだか憂鬱になってしまう。
「っていうか、あゆみも男作ればいいじゃん。会社入ったら出会いもあるんじゃない?」
「そうだといいけどね、身長180はほしいなー」
「背低かったらダメなの?」
「ダメってわけじゃないけど、どっちかというと背が低い人が私が論外にするでしょ」
「そんなこともないと思うけど、もっとアピールしていかないと。男欲しいって、あゆみ最近いい感じだから、ちゃんと彼氏募集中っていえば誰かしら釣れると思うけど」
「そうかなぁ」
ふと香奈の顔が思い浮かぶ。……今私が彼氏作ったら、今度こそ香奈拗ねちゃいそうだなと思った。
「そういえば、あれから香奈とはどうなの? 仲直りした」
「仲直りはしてるよ、喧嘩したわけでもなかったけど。あー、そうだった。これちょっと見てよ。ちょうど今日撮ったんだけどさ」
と、恵奈に差し出されたスマートフォンを見る。
「うわ……」
そこには『完璧な女子高生』が写っていた。制服は紺のブレザータイプで、襟や袖には藍色のラインが入っている。膝が隠れるくらいのスカートも薄くチェックが入っていて、赤のループタイがワンポイント可愛い。そういえば香奈が入学する高校は偏差値が高いのと、制服が可愛いからさらに高倍率なんだっけと、どこかで聞いたのを思い出した。
そして何より、その制服を着こなしている香奈が、恥ずかしそうに微笑んでいるのは死人でも出るんじゃないかという可愛さで。
「これ、大丈夫? ファンクラブとかできたりしない?」
「正直否定しきれない。お姉ちゃんは今から心配です」
そんな写真を見ながら、香奈の高校生活が平和になりますようにと、私達は小さな居酒屋で祈ることしかできなかった。
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