海に沈むジグラート 第78話【ドラクマの誘い】

七海ポルカ

第1話 ドラクマの誘い




 さあ、とレイファ・シャルタナが手を差し出してくれた。

 アデライードは頷いて、助けを借りながら慎重に小舟に降り立つ。

 小舟はゆったりとしたソファのような仕様になっており、まるで「こうするのよ」と言うようにレイファは先に優雅に腰かけた。アデライードも倣って、座ってみる。置かれたクッションは春の陽射しに温まっていた。


「まあ。ふかふか」


 落ち着いたアデライードを見計らい、レイファが軽く手を上げる。

 小舟の後ろに立っていた漕ぎ手が、ゆっくりと漕ぎ出す。

 背の高い枯草の間に出来た道を、通り過ぎていく。

「今の時期は枯草も多いですけれど、初夏にはここも花に満ちますわ」

「そうなのですか」

 花の季節も美しそうだが、今日も枯草は陽に照らされて小麦のように輝きながら優しく風に揺れている。

 レイファが美しい水色の日傘を開いた。日傘を取り付ける場所もきちんとあり、「これは貴方の分」と薄紅色の日傘をアデライードに渡してくれた。

「ありがとうございます」


 日傘を開いてみると、美しい花の刺繍が施されていて、端は可憐なレースになっている。

 アデライードは嬉しく思い、レイファの真似をして側に広げた日傘を差し込み、立てた。


「これは気持ちいいものでございますね」

「そうでしょう? ほら、あそこに大きな木がありますでしょう? 夏場などあの木の下に船を止めて、寝そべりますの。風が心地よくてぐっすり眠れますわ」

 レイファはそう言うと、ソファのクッションに気持ちよさそうに埋もれた。

 本当に気持ちよさそうで、くすくすとアデライードは笑ってしまう。

「お行儀悪いでしょう?」

 レイファが楽し気にそう言った。


「……でも、本当に気持ち良さそうですわ。フランスでも少し川遊びなどに誘っていただいたことありますけど、もっと大きい小舟に五人くらい乗り込んでお茶菓子などいただくので、私には少し目まぐるしゅうございました……。楽しかったですけれど、のんびりするならこれくらいが一番いいですね」


「そうなのよ」

 アデライードも思い切って、ソファの背もたれに寄りかかる様にクッションに埋もれてみた。柔らかいクッションが温かく、本当に気持ちがいい。

「まあ、本当に眠ってしまいそう」

 少女のようにレイファが笑っている。

「見て、ネーリ様がいらっしゃるわ」

 レイファが指差した先にネーリが立っていて、彼は少し高くなったところから、広いシャルタナ家の湿地帯をまずはじっくり眺めているようだった。

 小舟が広い場所に漕ぎ出でてくると、それに気づいて手を振ってくれた。

 レイファとアデライードも手を振り返す。


「ネーリ様もあとでいらして下さい」


 うん、と彼は頷いてくれた。

「ここは湖のように広いのですね」

「湿地帯は幾つかこのように広くなってる場所がありますの。ここも入れて全部で四つ。あとは細く通路が張り巡らされてるようになっていますわ。西の湿地帯に向かって」

 漕ぎ手に告げる。

 ゆったりとしたスピードで小舟は曲がって行った。

「もう夢中で描いておられますわ。ネーリ様は本当に筆が早いのです。きっとあとでスケッチをたくさん見せてもらえるでしょう」

 アデライードの表情を、レイファは頬杖をついて、眺めた。


「……。ネーリ様がお好き?」


 アデライードがレイファの方を見て、一瞬紫水晶のような瞳を大きく開いた。

 それから数秒して、彼女は笑う。

「はい。ネーリ様の絵はどれも素晴らしいですし、お人柄も優しくて。大好きですわ」

 令嬢が少し何かをはぐらかしたかのようにレイファには感じられたが、厳しく追及などはしないでやった。

「ネーリ様のことは、ヴェネトに来てからすぐ見い出されたと仰ってましたわね」

「はい。ミラーコリ教会に偶然足を伸ばした時、お会いしました」

「そうなの。お二人は本当に初々しい初恋同士のように仲がよろしいから。貴方はラファエル様の妹君。お近づきになりたい貴公子がヴェネトには山ほどおりますわ。社交界はお嫌い?」


「社交界は……。煌びやかで、憧れます」


 アデライードがそう言ったので、少女らしい返事に、レイファは優しく笑いかける。

「私は今までそういう場所とは無縁でしたので、気疲れはすることがありますけれど。

 でも、ラファエル様が時々手を差し出して私をそういう場所に連れて行ってくださいます。ラファエル様がいらしてくれるなら、夜会でも安心して過ごせるので、そういう時はとても楽しく思いますわ」

「エスコート役が必要ですわね」

「きっと、ヴェネト貴族の貴公子様など、私の相手なんて面倒臭く思われますわ」

「まあ。そんなことないのに」


 貴族とは、家の利益になるならば面倒なことも勤勉にやるものだ。

 いいことも、悪いことも。


 レイファは真面目に、アデライード・ラティヌーの今後のことを考えてみた。

 類い稀な容姿を持つ貴公子の、ラファエルの妹だけあって、美しい少女だった。

 少し内向的な所は見せるものの、ラファエルやネーリという信頼出来る者の側ではきちんと喋るし、明るい表情も浮かべる。こうして向き合って話しても、今まで修道院育ちだったというが、全くの世間知らずというわけでは無い気がするのだ。

 しっかりと自分の考えは持っているように思う。

 アデライードはまだヴェネト社交界に登場していない。

 そういえば、王妃セルピナともまだ会っていないと聞いた。

 王妃はラファエル・イーシャを気に入っているが、その妹をどう見るだろう?


(そもそも王太子様のお相手は、妃殿下の中で決まってらっしゃるのかしら?)


 王妃セルピナは手の内を六大貴族達にも見せていない。

 ドラクマの話では、六大貴族の中からもし王太子妃が選ばれても、恨み合わないようにしようなどと当主たちは飲みながら笑い合っているらしい。

 とはいえ、王太子ジィナイースと釣り合う年頃の娘がいない家もある。

 シャルタナ家もその一つだ。

 サン・ミケーレのラドナー家は息子ばかりだったし、

 リド島のイングレーゼ家もそうだ。

 ジューデッカ島のミラーと、ムラーノのバルバロ、そしてクトローネの所には一応釣り合う十代から二十代前半ほどの娘がいた。

 

 しかしいかにラファエル・イーシャを王妃が重用しようと、その妹まで王太子妃にするとはレイファには思えなかった。アデライードはラファエルの異母妹だ。母親の身分が低かったと聞いている。これは王太子妃としては問題視されるだろう。しかもフランスでもヴェネトでもまだ社交界デビューをしていないのだ。立場も曖昧であるため、レイファはアデライードの立ち位置が決まるのは、兄であるラファエル・イーシャがフランス艦隊総司令官ではなく、王妃からヴェネトでの公の地位なり立場なりを与えられた時だろうと読んでいる。

 ラファエルがもし、新設されるヴェネト聖騎士団の団長に任命され、ヴェネトの聖騎士の称号を与えられたり、若しくはヴェネトの公爵位などを与えられた場合、妹の立場も決まってくるだろう。

 王太子妃という言葉はあまり現実味はないが、実は興味深いのが、六大貴族とアデライードの婚姻が決まった時だ。そうなれば、その六大貴族はフランス王家の縁戚関係になる。


(いずれにせよ、いつかヴェネトは【シビュラの塔】を撃った許しを世界に乞わなくてはならない)


 その時、フランス王家やスペイン王家に繋がりがあるのは非常に意味を持って来る。

 シャルタナ家も一応ドラクマに息子はいるが、ほとんど手元で育てておらず、ドラクマもレイファもシャルタナ家の盛衰には無関心だ。それに、レイファから見てもドラクマの息子は凡庸だ。父親から受け継いだ財を程ほどに保つくらいは出来るだろうが、六大貴族の肩書を有難がってくれるような有力貴族から出来た嫁を貰って、その子供の中に優秀な者が現れることを願った方がずっと早そうである。


 そうなると、アデライードと釣り合う息子がいるのはラドナー家だ。


 イングレーゼ家は息子は二人いるが、すでに結婚している。その子供は何人かいたはずだが、あまり評判を聞かない。年頃では無かったはずだ。当主のルーファス・イングレーゼは若い頃内務大臣をしていて、非常に優秀な男だったが、子供たちはもしかしたらさほどではないのかもしれない。

 ラドナーの息子たちは父親に似て外交に強く、多言語を操り、レイファも会ったことがあるがなかなかの才覚を持っているようだった。二人の妻がいて、息子は三人おり、まだ結婚していない男子ばかりだったはず。

 ラドナーは非常に頭の切れる男だった。外務大臣として海外に知己も多く、ここの息子たちがアデライードと結婚してフランス王家と繋がるというのはなかなか面白い。


(少しばかりきな臭い感じもするけれど。あの妃殿下がそれをどう捉えるかだわ)


 レイファは穏やかに浮かぶ白い水鳥に笑いかけているアデライードの横顔を眺めながら、思いを馳せた。

 王妃セルピナの望みというものが、彼女には全く見えてこない。

 昔から気難しい娘だと聞いていたが、確かに周囲の人間を簡単に信用せず、何をしたいのかという部分がよく分からないのだ。

 今のところ王太子ジィナイース・テラの戴冠が彼女の最もたる望みだと思うが、あの王子が戴冠して王になったあと、あの王妃が大人しく王宮の奥に戻るとは到底思えないのだ。


(エスカリーゴ王の病状も気になるわね)


 最初から釣り合っていない夫婦だった。

 エスカリーゴはヴェネトの名門出身で、貴族院とユリウス王に承認されて王になった。

 セルピナが選んだわけではなく、結婚するまで会ったことがほとんどなかったとこれは彼女自身からレイファは聞いた。エスカリーゴの話をする時、セルピナからは愛しさのようなものを全く感じない。ただ自分の夫に選ばれた男を話すような感じだ。

 しかしユリウス王の後を継ぐとなると、有力貴族や貴族院の強力な後ろ盾と承認が必要であり、誰でもなれるというわけではない。そのことはセルピナも理解しているようだったし、別に不満は無いのだと思う。

 そもそもエスカリーゴが発言権を持つ王だったら、セルピナは今もああやって社交界の女王のような素振りはしていられないはずなのだから。


 レイファは王の病床はさほど快癒していないのではないかと考えていた。

 ……崩御もあり得るかもしれない。


 その場合、王宮の勢力図は一気に歪になる。

 亡くなったユリウス王はともかく、【シビュラの塔】の動きに不満を持つ有力貴族たちは実は少なくない。王妃を恐れて口は噤んでいるが、個人的に招かれて行った夜会では、【シビュラの塔】を保有するのは構わないが、他国を滅ぼしたりするべきではなかったという声もよく耳にする。

 犠牲の出ない場所を撃つだけでも良かったはずだ、と。

 エスカリーゴが崩御すれば、例えジィナイース・テラが戴冠しても、権力を掌握するのは難しいだろう。特にセルピナが摂政のように居座る限り、貴族たちは不満を抱くはずだ。そうなった時にセルピナが、誰を味方と見なすか。

 

 ヴェネトの有力貴族に顔の利くラドナーを味方に引き入れたいのなら、ラファエル・イーシャを説き伏せて、アデライードとラドナー家の婚姻を進める可能性は低くはない。

 いずれにせよ、シャルタナ家はあまり関わりのないことのように思える。

 この際、その無関係さを武器にする方が得策だ。

 つまりアデライードにはこの先色々と煩わしいことが増えて来る。


 その時にこの純朴な少女は気疲れを感じるだろうから、シャルタナは政とは縁遠いのでいつでも気兼ねなく頼りなさい、などという関係になっておけば、アデライードはシャルタナ家に心を許し、色々相談に訪れるかもしれない。

 当事者になってあれこれ気苦労耐えなくなるより、そういう高みの助言者のような役回りの方がドラクマや自分には合っている、とレイファは思った。


 この少女には親切にしておこう、という結論が自分の中で出た所で、レイファは腕を伸ばし小舟の側にくっついていた小さな木箱を自分の下に引き寄せた。

 アデライードが小首をかしげている。

 蓋を開くと、それがそのまま小型のテーブルになり、中からティーセットが現れれば、アデライードはさすがに目を丸くしてから喜んだ。小さく手を叩いている。

「この下で温めてありますのよ」

 レイファが自らお茶を淹れると、言った通り湯気が立った。

「すごいです。ヴェネトでは皆さんこのようにされているのですか?」

「いいえ。道楽貴族の私が、小舟の上で寝転がりながら温かいお茶が飲みたいと我儘を言ったら、うちの使用人がこういうものを考えて用意してくれたのです」

「まあ」

「さあ、どうぞ。召し上がって。外で頂くお茶も格別ですわ」

「ありがとうございます」

 アデライードは注がれたカップを手に取り、美しいカップの模様を眺めた後、一口飲んだ。

「美味しい」

 ふふ、とレイファも頷いて紅茶を飲んだ。

「遠慮なく寛いで下さいな。私もそうしますから」

 レイファは靴を脱ぐと、小舟の縁に足を乗せた。


「こういうことしても文句を言うような男がいないのは最高」


 くすくすとアデライードが笑っている。

「アデライード様はまだ社交デビュー前のご令嬢ですから、あれこれ聞くとドラクマに叱られますわ。どうせだからラファエル様のお話を聞かせて下さいな」

 レイファはクッションに半ば埋もれるように寛ぎながらそう言った。

「ラファエル様ですか?」

「ええ。ヴェネトに来て早々王妃様のお気に入りになられたから、ヴェネトの女たちはまだあまりラファエル様にあれこれ聞けず、やきもきしていますのよ。フランスでは、親しくされてる女性などいらっしゃるのかしら」

「妹として答え方に困りますけれど……、ラファエル様は女性にとても好かれる方なので、親しくされている方はたくさん」

 でしょうね、とレイファは明るく笑った。


「あの美男子で、フランス王家に血が連なり、若き公爵様ですもの。女が放っておくはずないわ」 


 そう言えば、レイファ・シャルタナは自分の屋敷に見目のいい青年を使用人として雇っていると聞いた。

「レイファ様から見ても、ラファエル様は美男子でいらっしゃいますか?」

「?」

「あの……。わたくし……」

 レイファは気づいて、吹き出した。


「まあ。心配なさらないでアデライード様。私が集めているのは使用人ですわ。ラファエル様は身分も、雲の上の方ですわよ。いくら私でもどうにかしようなどと考えておりません。勿論、あんな美しい殿方は今まで見たこともありませんけれど。でも、さすがに王家に連なる方です。何というか、自分の屋敷にあんな太陽のような方がいらしたら、私は寛げません」


「私も最初はそう思っていました」

「ラファエル様はフランスにご兄弟もたくさんおられると聞きましたわ。でも、ヴェネトに呼ばれたのは末妹の貴方だけ。余程のご寵愛だと思いますわ」

「ラファエル様のご兄弟は皆さん立派な方ばかりですから、それぞれフランスにおいて重要なお仕事をなさっています。身の回りのことを頼むようなことが出来なかったんです。私は何の気兼ねもなく過ごしていましたから」

「優秀な一族でいらっしゃるの?」

「はい。そう聞いています。幼い頃などは、ラファエル様さえ気後れしてしまうほど上のご兄弟は優秀だったそうで。少し、苦手だったそうにございますよ」

 レイファは笑った。


「まあそうなの。どこの家族も、色々ね」


「シャルタナ家はお二人の御兄妹ですか?」

「本家は私たちだけ。分家には従兄弟たちがいましたけれど、私たちの祖父母がとても躾の厳しい人で、いつしか子供たちは寄り付かなくなってしまいましたわ」

「そうだったのですか……」

「でも気持ちは分かるわね。誰だって鞭で打たれたくなんてないわ」

 シャルタナ兄妹からは、さほど厳しい躾けを受けて来たような暗い雰囲気は見えなかったので、不思議だった。

 アデライードの表情を読み、レイファは穏やかに菓子を勧めた。


「暢気でございましょう? 私たち。特に兄は昔からのんびりした所があって……。私も大概いい加減な人間でしたけれど、これでも子供の時は祖父母の厳しさに反発してたこともありますの。でも兄は厳格なシャルタナ家で驚くほど平穏に暮らしていましたわ。我が兄ながら呆れるくらい。昔から何かを強く望んだりしない性格をしていました」


 レイファの言葉は、今アデライードがドラクマ・シャルタナから受ける印象と完全に一致した。確かにあの人物が力ずくで誰かを攫ったり、攫えと人に命じたりするようにはどうしても見えなかった。

 シャルタナ家の兄妹には財と話術、人望がある。

 力で攫わなくとも、こうして言葉を交わせば、彼らは自分たちの魅力で他人を惹きつけることが出来る気がするのだ。

(やはり……リストとシャルタナ家は無関係なのではないかしら……)

 レイファは、はっきり「力で人を意のままにするなどつまらない」などと言いそうである。

 しかしアデライードはネーリの言葉を忘れてはいなかった。


『彼には何かがある』


 あの【ノアの方舟】。

 贋作を作らせたのは不思議だ。真偽を知りたかったが、あれは贋作ですか? などと聞くのはさすがに憚られるので、今は黙っていた方がいいだろう。

「けれど……ラファエル様は御血筋から言ってもいずれ公爵家を栄えさせるためにどなたかを選ばれることになると思いますわ。フランスの方なのか、ヴェネトの方なのか……それとも他の国の方かもしれませんけれど。きっと家柄もご容姿も、お人柄も釣り合う、美しい方をお迎えになられるはずですわよ」

「ラファエル様と釣り合われる方なんて、一体どんな女性なのでしょうか? 想像もつきません」

 アデライードが首を傾げると、レイファは扇を揺らして楽し気に笑った。


「まあ。本当に仲がよろしいこと。きっと盛大な式になりますわよ。その時はお友達として私も結婚式に呼んでくださいましね。フランス式の結婚式なんて見ものだわ。華やかで、いいわね」



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