第6話 呪いか加護か!? ー 片目の《龍の瞳》が挑む成人の儀

 荒野の訓練を終えてイルドラ城へ戻った夜は、不思議と心のざわつきが収まらなかった。


 父のもとで騎乗試練をこなし、片目でも馬を操り弓を放つことができる――そう実感した矢先、次なる大きな節目が目前に迫っているからだ。


 明日の朝には『シヴィカ』という幼名を捨て、正式に『レイシス・ナデア』として《成人の儀》に臨む。


 右目の光を失って以来、いつもどこかで怯えていた気持ちを、今日はまだうまく振り払えていない。


「……ああ、まったく眠れそうにない」


 イルドラ城の夜回廊を歩きながら、小さく息を吐く。


 壁際のランプは頼りなく、月光のほうがむしろ明るいほどだ。


 昼間のあわただしさが嘘のように、城内はひっそりと静まり返っている。


 不意に、背後で控えめな足音がした。小姓が敬礼しながら近づき、俺の顔をのぞく。


「シヴィカ様――いえ、もう少しすればレイシス様、でしょうか。夜分に失礼いたします。城内を巡回しておりましたが、眠れないご様子ですね」


「ああ……なんだか頭が冴え過ぎてね。お前こそ、こんな時間までご苦労だったな」


 そう返すと、小姓は微笑み、再び回廊の先へと消えていった。


 残された俺は、ふと胸の内に生まれた違和感と向き合う。


(まさかここまで緊張するなんて、らしくもない)


 左目が少しむずがゆい。あの龍のアザが熱を帯びているのか、あるいは月のせいか。


 右目はもう戻らない。それでも俺は訓練を重ね、馬や剣を扱えるところまで身体を鍛え直した。


 なのに、いざ《名乗り》が変わると思うと、ざわざわと不安が広がってしまう。


 回廊をさらに歩いていると、曲がり角で母の姿を見かけた。


 地味な装束をまとい、小さな護符を握りしめて、壁に手を当てている。かすかに唇が動いていた。


「……龍神よ、どうかあの子が呪われぬよう……加護を、どうか……」


 母の必死な祈りの声。普段は毅然とした母が、こんなふうに神にすがる光景は珍しい。


 俺は物音を立てずに立ち尽くす。


(あの強い母ですら、こんなにも不安を抱えているなんて)


 右目を奪われた俺の身が、呪いだと言われるのも無理はない。


 それでも母は信じてくれる――この瞳は災厄でなく、龍神の加護だと。


 母は祈りを終えると、そのまま気づかずに去っていった。


 自分が愛されていることを痛いほど感じて、胸が締めつけられる。


「……成人して、俺は本当に『レイシス・ナデア』になれるんだろうか」


 そう呟く声が虚空へ消えた。


 今日まで築き上げてきた意地や誇りが揺らいではいけない――その思いとは裏腹に、心が定まらない自分がいる。


 最終的には部屋に戻り、寝台へ倒れ込むように身をあずけたが、やはり眠気はやってこなかった。


      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 結局、夜明けに近づくほどになってもまどろむことさえできず、じっと布団の中で天井を見つめ続けた。


 そうしているうちに、侍従の小さなノック音が聞こえる。


「シヴィカ様――いよいよ《成人の儀》のお時間が近づいております。礼装の準備を……」


 その声に、半ば無理やり意識をはっきりさせる。


 起きあがると、侍女たちが手際よく身支度を整えてくれた。


「正式に『レイシス・ナデア』として名を受ける。俺は、片目のままでも前に進むんだ……」


 白い布と冠による礼服の着付け。幼名の髪型を解き、大人として相応しい姿へ整えられていく。


 身体を清める湯の蒸気で、右目の失われた痛みがかすかに蘇るような気がしたが、それ以上に左目が鋭く冴えているのを感じる。


「いよいよですね、シヴィカ様……ご不安はございませんか?」


 侍女が心配そうに問いかけるが、俺は静かに首を振った。


「いや……大丈夫。むしろ、不思議なくらい心が落ち着いている。迷いを振り払わないと、何も始まらないから」


 手早く冠を整えられ、腰には宝剣を帯びる。


 その剣は昨夜、シャーマンによって清められたもの。ナデア家の紋章が刻まれ、鞘にはかすかな光沢がある。


 これを腰に差し、今までは幼名『シヴィカ』だった自分が、正式に『レイシス・ナデア』として立つ。


 その事実が、身体全体にひしひしと圧をかけてきた。


      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 《成人の儀》が執り行われる大広間へ向かう回廊を歩く。


 行く先々で家臣や侍従が一礼し、深々と頭を下げてくる。


 中には俺の左目をちらりと見て、少しだけ戸惑った表情を浮かべる者もいる。


(けれど、もう隠すつもりはない。呪いだろうが加護だろうが、この瞳は俺の一部なんだ)


 曲がり角を抜けると、そこに母が立っていた。


 夜中に見かけたときとは違い、凛とした姿に戻っている。だが、かすかな緊張を帯びた顔立ちは隠せないらしい。


「……立派になったわね、シヴィカ。――今日からはレイシスと呼ばなくてはね」


 母の言葉に胸が詰まりそうになる。昨夜の祈りを偶然見てしまったせいだろう。


「母上、今まで本当にありがとう。右目を失ったときも、ずっと支えてくれて……」


「いいのよ。あなたは、私の子。呪いなんかではなく、龍神の加護を持った大切な息子……そう信じているわ」


 母はそう言い切ると、胸元の護符をそっと握って微笑む。


 その瞳には迷いがない。人は俺を《呪われた子》と呼ぶかもしれないが、母にとってはかけがえのない存在だと伝わる。


 護符を受け取ると、俺は深く頭を下げて言葉少なに礼を述べた。


 そのまま、堂内にいる父のもとへ向かう。


     ◇ ◇ ◇


 大広間には、来賓や家臣がずらりと集まり厳粛な空気に満ちていた。


 朝の光が差し込む中、父は壇上で背筋を伸ばしている。目が合うと、そのまま促されるように壇へ上がった。


「シヴィカ――いや、本日をもってその名は終わる。お前には新たな名を与えよう」


 父はそう言って、白銀の冠を手に取る。そして凛とした声で宣言した。


「これより、お前は『レイシス・ナデア』を名乗り、ナデア家の嫡男として生きる。――誇りを忘れず、この国を守り抜く意志を示せ」


 冠がそっと頭に戴かれ、俺の心に熱いものが込み上げる。


 周囲の参列者が一斉にひれ伏し、拍手や歓声はないものの祝福の視線を向けてくる。


(……ついに、シヴィカじゃなくなるんだ。名乗りが変わるだけと言われれば、それまでかもしれないけど……)


 この瞬間の重みは計り知れない。


 俺を取り巻くすべてが、大きく動き出す気がする。


「レイシス、これを受け取れ」


 父が差し出したのは、白銀の太刀。


 さやにナデア家の紋章が刻まれ、つばには精緻な彫り物がある。


「戦場で血を流すためだけの剣ではない。守るべきもの、断つべきもの――お前自身が見極め、その力を正しく使え」


「はい。誓います、父上」


 両手で剣を受け取ると、不思議な静寂が広間を包む。


 まるで俺がここからどんな未来を切り開くか、それを見届けようとしているような――そんな空気だった。


 父が俺の左目へ視線を向けた。


 黄金に光る眼が周囲の人々の耳目を集めると、あちこちでどよめきが起こる。


「……呪われていると恐れる者もいるかもしれないが、俺はそうは思わん。お前のその瞳を、ナデア家の誇りのために振るえ」


 父の一言が重く響く。


 母のほうを見やると、涙を浮かべながらも小さく頷いている。


(呪いじゃない。俺はここで堂々と生きていく。《龍の瞳》が何と言われようと、受け止めて力に変えるんだ)


 そう、胸の内で声を張った。


「それでは儀式はこれにて終了。皆の者、『レイシス・ナデア』の門出を祝うがよい」


 進行役の高らかな声に続き、参列者が拍手を送る。


 祝福の波が広間中に広がると、それまで張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。


「おめでとうございます、レイシス様!」


「ナデア家の未来をどうかお導きください!」


 家臣や近隣領主たちが次々に祝いの言葉をかけてくれる。


 右目を失ってから、ずっと押しつぶされそうだった俺にとって、これほどの激励は初めてだった。


 壇を下りる直前、母がそっと護符を掲げて見せた。


 目が合うと、笑みの中に確かな覚悟が宿っているのがわかった。


(俺が《龍の瞳》をどう使うかは、これから次第だ。どんな道を歩もうとも、この瞳ごと背負っていく)


 そう決意して、俺はゆっくりと広間を後にする。


     ◇ ◇ ◇


 その後は祝宴の支度が整い、城の一角で華やかな席が設けられることになった。


 俺は人々から出迎えを受けながら会場へ向かう。


 煌びやかな装飾が施され、賓客たちの談笑が遠くから聞こえてくる。


 しかし――左目の奥が、不意にちりりと痛んだ。視界が一瞬金色に揺らぐ。


 周囲の人影が輪郭を持たない数値や文字のように見えた気がして、思わず立ち止まる。


 すぐに元の景色へ戻るものの、胸の鼓動が早まった。


(……加護なのか、呪いなのか。どちらにしても、俺はこの瞳を押さえ込むだけじゃ済まないかもしれない)


 かすかな不安を振り払い、祝宴の扉を開く。


 連なる拍手と歓声が、さっきまでとはまた違う熱気を帯びて俺を包んだ。


「おめでとうございます、レイシス様! これからはナデア家をさらに盛り立ててください!」


「いやあ、こんなに立派に成人されて……右目のことなど微塵も感じさせませんな!」


 口々に称賛を浴びながら、俺は応対に追われる。


 父と目が合うと、父は微かに笑い、杯を掲げた。母も嬉しそうに皆へ挨拶を返している。


(ここまで来たんだ。あの荒野での修練も、両親との衝突も、全部今日へ繋がっている。……まだ始まったばかりだけど)


 握った杯を口に運ぶと、祝いの酒が喉を通って熱く全身に満ちていく。


 しかし、華やかな祝宴の片隅で、妙な視線を感じた。


 振り返ったときにはもう人ごみに紛れて見えないが、まるで暗闇からこちらを値踏みするような、そんな冷たい眼差し。


「……気のせいか」


 騒がしい笑い声と美酒の香りに混ざって、その不穏な気配はかき消えた。


 《成人の儀》は無事に終わったものの、この先はきっと安泰ではないのだろう。


(龍の瞳を持つ俺が、いずれ戦乱の中心へ立たされるときが来るかもしれない)


 片目を失いながらも『レイシス・ナデア』として新たな道を歩み始めた――。


 その行く末に待つ運命がどんな姿をしているのか、今はまだ知る由もない。


(……それでも、もう迷わない。俺はこの瞳と生きる)


 胸の中にある静かな決意を噛みしめながら、俺は乾杯の歓声が渦巻く祝宴の輪へと歩んでいく。


 目の前に広がる祝福の喧噪が、次なる波乱の幕開けを予感させるかのように煌めいていた。


――そしてこの夜は、やがて来る初陣や激動を知らずに、ただ祝いと笑い声で満たされる。


 だが、祝宴の裏で密かに動き出す影は確かに存在する。


 『《龍の瞳》の成人』――レイシス・ナデア。


 その名が、まもなくイルドラ城と辺境の地を超え、大陸へ大きく響き渡る日が来るのかもしれない。


 俺は歓声の中、ふと覚悟を新たにして杯を握り直す。


 希望と不安が胸をかき乱す中、次なる時代の足音だけは、もう聞こえ始めていた。

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