第3話 奪われた光、暴走する《龍の瞳》― 片目の継承者が挑む宿命

 右側の視界を失った世界は、想像以上に混乱していた。


 寝台から起き上がるたびに平衡感覚が狂い、体がかすかに揺れる。


 たとえば物を手に取るにも、右側の距離感がわからず指先が空をかく。


 もどかしさが胸を刺すたび、喪われた右目の存在を嫌でも思い知らされた。


 そのうえ残った左目までが不可解な変調を起こし、明暗が交互に錯綜さくそうする。


 ぼんやり曇ったかと思えば、ほこりの一粒まで鮮明に見えるほど鋭利な視界を発揮する。


 さらに目元にはウロコのようなアザが浮かび、まるで龍の爪痕が刻まれているかのようだ。


 痛みすらともなうそれは、ただの病気とは思えなかった。


「……シヴィカ様、少しは落ち着かれましたか?」


 侍女エレナのささやく声が耳に届く。


 寝台に伏せたまま、俺は懸命に首を縦に振った。


「ごめん……気持ち悪さが抜けなくて……右目も……戻りそうにない」


 自分の声がかすれ、どうしようもない無力感に襲われる。


 一方、部屋の外からは低い話し声が漏れ聞こえていた。


 父と家臣たちが、俺の未来を案じているのだろう。


「……右目が奪われたとなれば、ナデア家の跡継ぎとしては……」


「左目まで呪われているなら……」


 そんな言葉がちらつくだけで胸がえぐられる。


 幼い頃からあこがれていた《ナデア家の当主》という道が、足元から崩れ落ちていくようだ。


 侍女のリナが心配そうに水杯を差し出してくれるが、右側の距離感がつかめず、指先が宙を滑った。


 水がそでを濡らし、わずかな震えを伴って冷たさが肌にしみる。


「すみません、シヴィカ様。わたし……」


「いや、俺こそ……ごめん」


 急いでいてくれるリナの表情には、かすかな戸惑いが浮かんでいた。


 視界の端に映る左目のウロコのアザが、やはり異形と映るのだろう。


 それでも彼女は決して視線をそらさず、小さく微笑んでみせる。


「わたしは……シヴィカ様の目を、呪いだなんて思いたくありません。きっと《龍神》の加護なのだと信じたいです」


 だが、そう言われても素直にうなずけない。


 《加護》と言うには、あまりに苦しみしか生まない力だからだ。


 高熱にうなされ、ついには右目まで奪われた。


 残った左目が再び曇るたび、暗闇が脳裏を覆い尽くす。


――曇りが晴れるとき、金色に輝く視界が訪れる。


 それが《加護》なのか、それともさらなる《呪い》か。


 わからないまま、俺はただ痛みに耐える日々を送っていた。


 そんな俺を案じて、母は片時も離れずそばにいてくれる。


 ナデア家の血筋を継ぐ子を守ろうと、シャーマン祈祷師とともに呪いの対策を検討し続けているらしい。


 小窓の向こうから聞こえる母の震える声が、痛ましく心に沁みた。


「どうか……シヴィカをお救いください……あの子は、まだ何も成していませんのに……!」


 母の願いが届くたびに、俺は自分の不甲斐なさをみしめる。


 幼いころから無邪気に外を駆け回り、騎乗の訓練も剣の稽古も、すべて《未来の当主》として楽しんできた。


 それなのに、今やほとんど動くこともままならない。


 夜になると、熱は低く残り、右目の痛みが脈打つ。


 左目の奥で龍がうごめくような幻聴が聞こえ、冷たい汗が背を伝った。


 目を閉じると、一層はっきりと金色の残像が浮かび上がる。


(古の呪疫なんかに、どうして俺が……)


 うめき声をこらえ、混濁する意識の底をさまよっていると、父や家臣たちの話し声がまた耳を打つ。


「シヴィカ様が当主の座に就くのは、もはや難しいのでは……」


「ナデア家の名を守るために、別の継承を考えるべきかもしれません」


 耳に刃を突き立てられるような台詞に、息が詰まる。


 頑固なまでに黙り込んでいた父が、深く低い声で答えた。


「……だが、あいつが立ち上がる意志を見せる限り、私が見限るわけにはいかん。甘いのかもしれんが……まだ、待たせてくれ」


 その言葉を聞いた瞬間、胸にかすかな温かさが宿った。


 父は、厳しい人間であると同時に俺の力を信じてくれる人でもある。


 今、どうにか希望の糸をつかみたいと願っているのは父も同じなのだろう。


      ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


 翌朝、左目の異常な冴えが訪れる合間をって、なんとか身を起こそうと決意した。


 母や侍女たちが必死に制止するが、それでもこのまま寝台に伏せているわけにはいかなかった。


「シヴィカ様、どうか……もう少し休まれては」


「いいや……父上が見限らない限り、俺も諦めたくない。動けるうちに体を慣らしたいんだ」


 母の不安げな表情が痛いほど伝わる。けれど、失われた右目にとらわれて、ただふさぎ込むわけにもいかない。


 一歩でも動けば、その先に生きる道があるかもしれないから。


 侍女たちの支えで廊下へ出ると、立ち尽くしていた父がゆっくりと俺の方へ振り返った。


 鋭い視線が、濁りそうになる自分の心を見透かすように突き刺す。


「父上……」


「お前が立ちたいなら、立てばいい。ナデア家の跡継ぎとして戦うつもりがあるのなら、それを示せ」


 父の言葉に、ぐっと歯を食いしばる。


 左目は相変わらず不安定だが、それでも視界がわずかに揺れているのがわかった。


 胸の奥に小さな決意の火がともる。


「……失った右目に負けるわけにはいきません。俺は……ナデア家の子として、戦乱のイルドラを守る義務があります」


 自分を奮い立たせるように言い切ると、父は眼光を緩めずにただうなずく。


 その足取りで中庭へ向かうと、母が小走りに追いかけてきた。


「シヴィカ……急に無理をしないでちょうだい。まだあなたの身体は……」


「母上。無理くらいしないと、心まで折れてしまいそうで……」


 そう絞り出すように言葉を返すと、母は何かを言いかけて唇をかんだ。


 彼女の頭の中に、再び古の呪いが脈打つ恐怖がよぎっているのだろう。しかし、今はその心配をよそにするしかない。


 片目だけの視界を頼りに、ふらつく体をなんとか支える。


 見るものすべてが半分欠けているようで落ち着かない。だが、倒れ込むわけにはいかなかった。


 ほんの数歩、ゆっくりと歩いただけで息が上がる。


 稽古どころか、まともに立っているのもやっとだ。


 それでも、一歩、また一歩と足を動かすたび、心の奥に巣食う絶望がほんの少しだけ遠ざかる気がする。


 気を張っている最中、不意に左目が曇った。


 暗闇に呑まれるような感覚に、思わず息を呑む。


 だがすぐに鋭い金色の輝きが戻り、今度は足元の砂粒までもが妙に鮮やかに映った。


(俺の中で、いったい何が起こってるんだ……?)


 脳裏で龍が咆哮ほうこうするような錯覚を覚える。


 あの眠れぬ夜に、何度も耳をつんざく幻聴と同じだ。


 歯を食いしばり、どうにか持ちこたえると、そっと肩を貸してくれたリナが小声で言った。


「シヴィカ様……大丈夫です。きっと、この瞳には意味があるんです。呪われてなど、いません」


 彼女の励ましに応えるように、深く息をつく。


 痛む頭をなんとか振り払い、再び足を踏み出そうとした――そのとき、父の声が背後から響いた。


「シヴィカ、まずは休め。焦るな。お前が立つ意志を示しただけで十分だ」


「父上、でも……」


「立ち続けるのが跡継ぎの務めとは限らん。お前は自分の力を受け入れ、時間をかけて鍛え直すんだ。それが、我らナデア家の未来につながるのだからな」


 真っすぐな言葉に、胸の奥が熱くなる。


 今の俺はまだ片目の視界に慣れず、身体も呪いの影響から回復しきっていない。


 それでも、諦めるつもりはなかった。


 母は少し離れた場所から、胸を押さえながら俺たちのやり取りを見つめている。


 涙をこぼさぬように必死で耐えている姿が、痛々しくもありがたかった。


 もう一度父の方へ振り返ると、彼の視線は厳しいがどこか穏やかだった。


「父上……ありがとうございます。俺は、片目になっても、ナデア家のために……」


 声が震えてうまく続かない。けれど、それで十分伝わったように、父はかすかにうなずいた。


 やがて夕暮れが近づき、俺は再び部屋へ戻された。


 侍女たちが支えてくれなければ立っていられないほど、体力は落ちている。


――けれど不思議と心は軽くなっていた。


 部屋で横になってしばらく、母が心配そうに寄り添ってくれる。


 背をなでる手から優しさとかすかな震えが伝わってきた。


「シヴィカ……あなたが立っている姿を見られただけで、私は嬉しい。けれど……ごめんなさい、わたしは何もできないままで……」


「母上がいてくれるだけで、充分だ。あの日、俺が呪疫に倒れたときも……母上がいなかったら、きっと……」


 想いがこみ上げ、言葉にならない。


 口を閉じ、かすかに手を伸ばすと、母の手がそっと重なった。


 暖かさに包まれながら、左目の奥のざわめきが少しだけ静まる気がした。


 夕闇が落ちたころ、ふと廊下に人の気配がする。


 侍女のひとりが、深刻そうな顔で戸口に立っていた。


「申し訳ありません。テルミス様が、シヴィカ様にお話があると……お呼びです」


 母が不安そうに眉を寄せる。


 俺もまた、胸騒ぎを覚えながら身体を起こした。こんな時間に父が呼ぶなど、よほどのことに違いない。


 それでも、震える足を踏みしめる。


 立ち上がることを選んだ以上、もう後戻りはしたくなかった。


「母上、俺……行きます」


 母は何か言いたげに唇を動かし、それから静かに頷いた。


「わかったわ。無理をしないように、ね……」


 そうして再び廊下へ出たとき、ほんの一瞬、視界に奇妙な《数字》めいたものが浮かんだ。


 意味はわからない。しかし、左目の奥で淡くきらめくそれは、まるで何かを告げる合図のように思える。


 ――加護か、呪いか。


 先ほどまでの激痛が嘘のように薄れたのを感じながら、俺は父のもとへ歩みを進めた。


 これは、ナデア家の跡継ぎとして、本当の試練が始まる前触れなのかもしれない。


 右目を失い、左目に潜む《龍の何か》を制御できるのか――それを確かめるのが、今の俺の宿命だろう。


(必ず立ち上がる。失われた光の分まで、ここから先を見据えてみせる)


 胸の奥に渦巻く決意をかみしめながら、奥の間へと足を進める。


 重苦しい沈黙の奥で何が待ち受けているのかはわからない。


 だが、かすかな脈動を刻むこの左目は、もはやただの呪いではない――きっといつか、俺に必要な力へと変わるはずだ。


 自分にもそう信じ込ませていなければ、暗闇に飲み込まれてしまいそうだから。


 廊下の先、父の声が微かに聞こえた。


 その響きは、どこか覚悟を固めているようでもあり、厳しさの中に熱を帯びているようでもあった。


(俺は、ナデア家の未来を……イルドラ城の運命を……守れるだろうか)


 答えはまだ遠い。けれど、この一歩を踏み出した瞬間から戻れない。


 失った右目と暴走しかける《龍の瞳》を抱えてでも、俺は進むしかないのだ。


――そして、次に父が告げる言葉によっては、ナデア家は新たな局面へ向かうだろう。


 それがどれほど苛烈な道であっても、俺は逃げない。


 もう夜の闇は深い。けれど俺の胸には、小さくも確かな光が宿っていた。


 (この道の果てに、どんな戦乱が待ち受けようとも――俺は決して目を逸らさない。)

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