返りの風が吹き、宇賀は月光に輝く
武州青嵐(さくら青嵐)
序章 この家の嫁
あまつかぜ くものかよひぢふきとじよ をとめのすがた しばしとどめむ
第1話 17年前のできごと
家中が寝静まったのを確認し、
廊下の間接照明は、子どもたちが夜中にひとりで便所に行くためのものだ。
ふたりとも男だというのに、夜にはひとりで便所に行けない。特に長男はもう中学1年生にもなろうというのにまるでだめだ。
『なさけない』
勝利はしかりつけたが、妻のルイは『まだこどもですから』となだめる。
『お前が甘やかすからだ』
勝利はルイを責めた。
『年取ってできた子がそんなにかわいいか。甘やかすばかりで躾もできんのか』
ルイと勝利には年齢差がある。
結婚した時、ルイは34歳。勝利は28歳だった。
そんな年上の女は絶対にいやだと言ったのに、父は『お前のように女にだらしない男は年上がいい』と言い、母は『いいところのお嬢さんなのよ。きっとあなたを幸せにしてくれる。よかったわね』と喜んだ。
勝利は高校卒業と同時に家業を継いだ。
継いだといっても父がまだ手綱を握っている。母も店に出てくる。
つまらない。自分の自由にはならない。
それで夜な夜な遊びに行った。いろんな女性とも交際した。その中で、結婚を迫られたことがあり、両親に泣きついて女と別れ、堕胎費用を出してもらったことがあった。
だから、勝利は両親に首根っこを押さえこまれている。
仕方なく、6つ年上のルイという女性と見合いをし、2か月後には結婚した。
『お前みたいなババア。相手にしてやってるだけありがたくおもえ』
思うだけではなく、勝利は面と向かってそう言った。寝室では避妊などせず、きままに弄んだ。閨では恋人にはできないような事も平気でやったし、酒が入ると男友達に笑いながらそのさまを語ったこともあった。
その後、ルイはすぐにひとりめの子を。数年後にはふたりめを生んだ。いずれも男児だった。
両親は手放しに喜び、ルイを「すばらしい嫁だ」と丁重に扱った。ルイもまた両親を「お舅様、お姑様」と敬い、家事に育児に、店の手伝いにと
そうすると、勝利はまた暇になった。
暇になったから、女に手を出した。
夜遊びだけではなく、家族に嘘をついて温泉に行ったりもした。
楽しかった。
仕事もせず、ずっと女のことを考えて過ごしていたのだが。
その女たちが。
次々と不幸な目に遭っていく。
交通事故、原因不明の病気、火事にまきこまれる、階段から落ちて大けがを負う。
そして勝利の前から去っていく。
そんなことを繰り返しながら。
勝利は奇妙なことに気づいた。
女たちが不幸に見舞われると、ルイの機嫌がいいのだ。
当然、勝利はルイに女たちの存在を隠していた。
それなのにまるで彼女たちの不幸を笑うように、ルイの機嫌は目に見えてよくなる。
『今日、なにかあったのか? やけに機嫌がいいな』
不倫相手の女が入院したと連絡を受けたその日、勝利はルイに尋ねてみた。
『だってこれでしばらくあなたは家にいるでしょう?』
ふふ、とルイは品よく笑った。
『もうこれで最後にしてくださいね? これ以上誰かが、あなたのせいでけがや病気になるなんて……可哀そうじゃないですか』
勝利はぞっとした。
知っている。この女は勝利の不実をすべて知っている。
その後、数年はおとなしくしていたものの。
飲み屋で知り合った女とねんごろになった。
しばらくは久しぶりの情事に燃えた。心躍る日々を送った。
だが。
『変なことが続けて起こるの』
その女に言われた。
『それに夢にずっと白蛇が出てくる。その白蛇にいつか殺されそうで怖い。お願い、一緒に逃げて。
そのころになると勝利もルイが怖かった。
いつの間にか家に自分の居場所がなくなっていることに気づいたのだ。
店にも家にも家族関係の中にも。
すべてはルイ中心にまわり、誰もがルイの言葉に従い、あれだけ跡取り長男として敬われていた自分なのに、いなくてもなにも困らない状態になっていた。
勝利は女に伝えた。
『俺には手に職がある。どこでだって食っていける。だから一緒に逃げよう』
決行日は今日だった。
夜行バスの待合室で落ち合う予定になっていた。
勝利は静かに廊下を進み、玄関で靴を履いた。
立ち上がり、引き戸に手を伸ばして気づく。
紙が。
貼ってあるのだ。
半紙を縦に割いたようなもの。
常夜灯にぼやりと浮かび上がる半紙。
そこには筆でこう書いてあった。
『天つ風雲のかよひぢ吹きとぢよをとめの姿しばしとどめむ』
百人一首だということは分かった。
だがなぜこんなところにこれが。
「まあ、あなた。こんな夜分にどこにおでかけ?」
背後からルイの声がした。
驚いて。
声を上げて振り返ろうとしたのに。
声も。
足も。
びくとも動かない。
「前回で最後ですよ、と伝えたのに。
ふふふ。
笑いを含むルイの吐息が首の後ろを撫でた。
勝利はなんとか態勢を変えようとするのに、まったく動かない。喉もしびれたようになって勝手に気道が細くなる。うめき声さえ出ない。
「ここでずうぅっとそうやって立っていればいいわ。そして子どもたちの成長を見守っていてね」
「お……おれがいないと、店はどうなる……っ」
ようやく言葉が漏れた。
殺される。
その切迫さが声帯を震わせた。
「お舅さんが頑張ってくださいますよ、子どもたちが継ぐまで。それに」
ふふふ、とルイは可笑しそうに笑った。
「あなたの技術……子どもに悪影響だわ」
しゅる、しゅる、しゅる、と。
廊下の床をなにかが擦りながら近づいてくる。
しゅる、しゅる、しゅる。
その音は、帯が床を擦る音に似ていた。
「もういらない」
ルイの言葉と共に勝利の身体になにかが巻き付き、締め上げられた。
まるで万力でひねりあげられたようだ。
いたいいたいいたいいたいいたいいたい!
悲鳴を上げた。
いや、上がらない。
うめきすら漏れない。
ただ強烈な痛みの渦に放り込まれ、散り散りになりそうだ。
たすけてくれ、ルイ!
懇願の声は、別のものにかき消された。
「まあ大変! 勝利さんが玄関で倒れている! お舅さん! お姑さん! 誰か!」
ルイは叫んだあと、勝利を見て嫣然と笑った。
「わざとらしかった?」
そして改めて悲鳴を上げなおした。
「誰か来て! 勝利さんが息をしていないの!」
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