鉄線花の咲くころに
宝積 佐知
⑴花も盛りの鉄線花
瑠璃色の水平線が遥か彼方に伸びていた。薄水色の空は、海と溶け合うように境界線を曖昧にしている。その上を白いカモメが羽搏き、空を真っ直ぐに引き裂いていく。
中学二年の夏休みだった。生命の密度が濃く、傷付き易く繊細な時代。一日が光の速さで過ぎていき、童話のように色付いた不可侵の日々。
潮風の吹き込む庭先に、小さな鉢が置かれている。
花も盛りの
海を一望する縁側に座っていると、微風が頭上で風鈴を鳴らす。今年は猛暑が予想されている。七月上旬にも関わらず気温は三十度を超えることもあり、先のことを思うと気が重かった。
「恭介ぇ」
板塀の並ぶ庭の奥から、自分を呼ぶ声がした。麦藁帽子を被った
風鈴が涼やかな音を立てる。油蝉の声が雨のように降り注ぐ。恭介が腰を浮かせると、初夏の日差しが眩しく網膜を焼いた。
視界がぐらりと揺れ、白く点滅する。遊里が心配そうに覗き込んでくる。人の良さそうな垂れ気味の目尻、色素の薄い榛色の虹彩。真っ直ぐに向けられる眼差しは、象やキリンのような大型哺乳類のように優しかった。
「恭介、夏バテか?」
「そうかもな」
「食欲なくても、ちょっとは食えよ。また女子に絡まれるぞ」
「そういうの、興味ねぇし」
そんな会話をして、遊里は隣に腰を下ろした。
遊里が麦藁帽子を脱ぐと、日に焼けた首筋から汗の滴が流れていくのが見えた。恭介が沈黙すると、遊里は大きく息を吐き出した。
近くの海水浴場から、家族連れの賑やかな声が響く。打ち寄せる波の音、入道雲を横切っていく飛行機の影。二人の静寂を夏が埋めていく。
遊里のいる季節はいつも特別だった。
舞い落ちる桜、青く萌える新緑、澄み渡る青空と白く輝く雲。吹き抜ける風や落ちる木の実の一つさえ意味を持つような、まるで大きな川の流れに身を任せているような全能感に包まれていた。
このまま夜になっても構わないと思った。
何の面白味もない、単調な日常。誰も自分に興味がなく、自分も自身に興味がない。世界の滅亡を願うような希死念慮を何処にも吐き出せないまま、それでも恭介は日常を愛していた。
遊里は小学校の時に転校してきた同級生だった。音楽の趣味もプライベートの過ごし方も何もかもが違うのに、一緒にいる時間が心地良い気の合う友達だった。
遊里は何処の群れにも溶け込んで、味方を作るのが上手かった。自己開示をせずに相手の気を悪くさせない、巧みな聞き手でもあった。孤立しがちな恭介には、まるで物語の主人公を見ているみたいに眩しく見えた。
日差しを受けた榛色の瞳が、海面の乱反射みたいに煌めいている。恭介は、その翳りのない宝石のような瞳を、どうしても手に入れたかった。だが、それはまるで逃げ水のように、手を伸ばすほどに遠去かる。
隣を見遣ると、遊里は遠くを見るような目で水平線を見詰めていた。観光客の食糧を狙ったカモメの甲高い鳴き声が聞こえる。
「俺、東京に引っ越すから」
何の前触れもなく、引っ掛かりもなく、遊里がさらりと告げた。恭介は一瞬言葉を失って、平静を取り繕うのに深呼吸をしなければならなかった。
唾を飲み込み、声が震えないようにと腹に力を込める。遊里は相変わらず横顔を向けていて、自分のことなんて見えていないみたいだった。
「……それは、夏休み前の、あれのせいか?」
そう言った瞬間、あの日のことが頭を過ぎる。
遊里の過去を暴こうとした連中。SNSにばら撒かれた事実と虚構の入り混じった情報。田舎特有の噂好きの連中は、事の真偽を確かめることなく『そういう目』で見るようになった。
恭介の家にも、何度か遊里と妹がやってきたことがある。両親は、彼等を家族みたいに扱っていた。でも――。
恭介がそっと尋ねると、遊里が漸く此方を向いた。目を細めて泣き出しそうに笑うのは、遊里が謝る時の顔だった。そんな顔をする必要なんてないのに、自分の言葉が彼を追い詰めてしまっていることに胸が苦しくなる。
恭介は家は、地元の小さな定食屋だった。両親は高齢ながら、遊里の真面目で朗らかな性格を愛していたし、妹のことも心配していた。だから、俺達の間には何の問題もなかった。
それなのに、何処かの暇人が遊里の過去を漁り、あろうことかSNSで暴露した。事実である確証はないまま、尾鰭背鰭が付いて被害者と加害者さえ逆転してしまう。一度インターネットに流れた情報は完全に消し去ることができない。たった数週間で、遊里は暇を持て余した人間達の玩具になった。ヒーローになることよりも、ヒーローで居続けることの方が難しいのだ。
けれど、それは遊里自身の落ち度じゃないし、そんなに柔でもない。SNSに個人情報が流出しようが、そんなものは便所の落書きだと一蹴する。だが、排他的な田舎の空気は、和を乱す異物を受け入れないことに決めたようだった。
彼等は情報の真偽を確かめることもせず、多数派の意見に乗って何かを攻撃する。彼等は攻撃してもいい弱者を探し、正義を盾に他人を傷付ける。そんな人間ばかりだ。
思春期真っ只中の遊里、小学生の妹。これから襲いくるだろう村八分、悪口雑言。遊里は兎も角、妹がそのような目に遭うのは余りにも酷だった。
「あんなつまんねぇ奴等の為じゃねえよ。親父の勤務先が変わっただけ。行きたい高校も東京だったし、丁度良かったんだ」
「……」
「ああ、もう。そんな顔すんなよ」
覗き込むようにして、遊里は情けない声を出した。
恭介は彼等の決意や覚悟に口を挟む権利はなかったし、守ってやることもできなかった。恭介は空気を和らげるつもりで憎まれ口を叩いた。
「これでやっと、うちも静かになるな」
「俺がいないと寂しいくせに」
遊里が慣れた調子で軽口を叩く。
こんな時間も無くなっていくと思うと、誰を憎めばいいのか分からないまま、手当たり次第に八つ当たりしたくなる。
何故、遊里がこんな思いをしなければならないのか。
彼に反省すべき落ち度はなく、被害者でありながら、個人情報を勝手に暴露される。そして、彼は反論の機会も与えられないまま逃げるように東京へ行く。
恭介は奥歯を噛み締めた。悔しくて堪らなかった。
けれど、遊里は眩しそうに目を細めて笑った。そのまま甘えるように肩をぶつけられ、恭介は心臓が跳ねるのを感じた。ほんの一瞬のことだったのに、熱が移ったみたいにその感覚が残る。
恭介が見遣ると、遊里は楽しそうに笑っていた。
「困難はあるだろうさ。でも、きっと良い方法がある。胸いっぱいの希望を持たなきゃな」
照れも衒いもなく、遊里が言った。
その目は既に次の希望を見付けていて、未来への展望を持っていた。彼はこの退屈な海街から、自分を置いて去っていく。
人間という生き物は不思議だ。
孤独になるにも他人を必要とする。
「……お前はずるいよ」
恭介は呟いた。
そういうところが好きだった。群れに溶け込みながら、誰の色にも染まらない。風のように自由で、日差しのように暖かい。手に入らないと知っているから、こんなにも焦がれるのだろうか。
遊里は白い歯を見せて幼く微笑み、ゆっくりと立ち上がった。麦藁帽子の下で榛色の瞳だけが一等星のように眩く光る。なだらかな水平線、突き抜けるような蒼穹、眩しく光る入道雲。蝉時雨の中で、遊里が明るく言った。
「ありがとう。またな、恭介」
酷くフラットな口調で言って、遊里が背中を向けて歩き出す。目的地を持った迷いのない足取りで、猛暑を引き裂くように進んでいく。
頭の上で風鈴が清涼な音を立てる。恭介は泣くことも、引き留めることもできずに立ち尽くしていた。中天の太陽に照らされた自分の影が、足元に蟠っている。
「……またな、遊里」
俯いた時に、頬を汗が伝った。小さな雫が敷石の上に落ち、丸く染みを作る。蹲りそうな自分を奮い立たせ、遊里の足音を最後まで聞き届ける。
鉄線花の花弁はたっぷりと光を受け、笑うように開いている。濃紺の
きっと自分は何年経っても、この花を愛しく思うし、世話をし続けるだろう。仄かな希死念慮が陽炎のように浮かび、言えなかった言葉が胸の中で湧き水のように溢れた。
なあ、遊里。
俺は、お前を守りたかったんだよ。
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