ライラック

「お前なんか、産まなきゃよかった」


 父のことは大嫌いだけど、私はこの言葉に嫌なほど納得された。私には、みんなと違って秀でたところが何もない。勉強も運動も、人並みの基準をキープするだけで精いっぱいだ。人との関りもめんどくさいと思うし、誰かと進んでつながりたいとも思えない。私はいつだって空っぽで、与えられた指示をこなすことしかできなかった。


「……愛ちゃん」


 誰かが、私を呼んでいる。よく耳になじむ声だ。私は何度も、この声に助けられたような気がする。

 暗闇の中、愛は百花繚乱に咲き乱れるのライラックの花々を見た。それは実に優美であり、端麗であり、そして華々しい光景だった。愛は、すぐそばにある一輪のライラックの花弁に手をあて、「ふふっ」とあどけない笑顔を見せた。

 なんて、温かいのだろう。胸のうちが安らいでいくのを感じる。臼ピンク色の、可愛らしいライラック。私はこの花を、枯らしたくはない。


「……愛ちゃん!」


 さっきよりも、はっきりと声が聞こえる。ごめんね。そんな悲しそうな声を聞きたかったわけじゃないの。どうやら私は、自分のことを簡単に捨ててしまえるみたいだから。

 飛び降りたのは、今回が初めてじゃない。中学のころにも一度、命を投げ出そうとしたことはある。私の唯一の居場所だった花壇が荒らされて、全部の花が根こそぎもぎ取られていた。辺りにはぼろぼろに散らされた花びらが何枚も落ちていて、それは私へ投げかけるようにこう言っていた。


「どうして、私を守ってくれなかったの」


 私にできたのは、唯一無事だった一輪の薔薇を植えなおすことだけだった。雨で全身が濡れて、手のひらに付着した土は鉛のような泥へと形を変えた。安いブラシで整えた髪は原型を失い、私の視界は徐々に暗黒の世界へと連れ去られていった。

 家に帰ってベランダに立った瞬間、もうすぐそこまで死が迫っているのを感じた。覚悟は決めたはずなのに、すごく怖かった。これまで感じたことの無いほどのおびただしい恐怖が私の体を取り巻き、それはやがて震えへと変わった。なぜ自分がこんなことをしているのか、なぜここに立っているのか、その理由すら分からなくなるほど、私は朦朧としていた気がする。

 けれど、同時に心地いい気分でもあった。不思議と安心したんだ。あぁ、やっと解放されるんだなって。最愛の母さんが父さんの浮気を理由に自殺して、その父さんは今も刑務所の中にいる。あの時は、何もかもが立て続けに起こりすぎた。何とか立ち直ろうとした私の気力は一瞬のうちに擦り切れていって、最後には体全体に大きな切り傷だけが残った。痛くて、苦しくて、何もかもが嫌だった。私は、私を好きであるため全てを失っていた。

 けれど結局、私は両足を骨折するだけにとどまった。家よりも高い場所なんていくらでもあったはずなのに、ビビリな私は家のベランダを選んだ。死ぬ理由なんてたくさんあったはずなのに、どうして本気で死のうとしなかったのか。病室で寝転がりながら私はそんなことを呆然と考えていた。

 だけど今は、あの時死ななくて本当に良かったと思えている。今の私がいなければ、私は結葉にも、先輩にも会えなかった。文芸部に入って、物語を書くこともなかった。

 私は、今が好きだ。私のことを理解し、そして認めてくれる人が大好きだ。傲慢かもしれないけれど、それが私の本音。そして、この気持ちをずっと心に宿していたい。そう、私は、


「愛ちゃん!」


 結葉の声とともに愛が目を覚ますと、そこには見覚えのある天井が広がっていた。


「結葉……っ」


 足首を動かそうとしたところで、愛の右脚に鋭い痛みがはしる。


「ははっ……また骨折ったみたい」


 愛が痛みをごまかすような笑いを浮かべると、結葉は横たわった愛の右手を掴んで大きく泣き崩れた。


「どうして、いつも無茶ばっかりするの……」


 うなだれる結葉を前に、愛は口をつぐんだ。


「もっと、自分のことを大事にしてあげて……。お願い……」


 親友の涙ぐむ目を見て、愛は結葉が心から自分のことを心配してくれているのだと気づいた。


「愛ちゃんが私のことを思ってくれているように、私も愛ちゃんが傷つくのは嫌なの。だから、お願い……。私たち、友達でしょ……」


 ライラックの葉先から、数滴の雫が零れ落ちる。愛は親友の体を勢いよく抱きかかえ、結葉と同じように涙を流した。


「ごめんね、結葉……」


 泣きじゃくる二人のすすり声が、病室を覆いつくす。一通り泣き終えたあたりで、結葉は愛に対してある質問を投げかけた。


「ねぇ、愛ちゃん」

「んっ、どうしたの」


 袖で涙をぬぐいながら、結葉が愛の方を見つめる。


「どうして、愛ちゃんはいつも、私のことを守ってくれるの?」


 その時、愛の中へ宿る一輪の薔薇が、青色へと変化した。わずかな沈黙の後、愛は静かに口を開いた。


「だって、私は……」


 ねぇ、結葉。知ってる? 私の父さんさ、浮気した挙句、人を殺したんだよ。そして、私はそんな人殺しの娘。なのに、結葉はこんな私のことを、抱きしめてくれるんだね。本当に、嬉しいな。

 それでさ、そのクズ、母さんと結婚したときから相手の女性を関係を持ってたんだって。やっぱり、大人は汚いなって思う。見えなければバレないって、本気で思っているんだろうね。クズの思考は、やっぱり私にはわからないよ。まぁ私も、そのクズの血を引いているわけだけどさ。

 それでなんだけど……父さんの浮気相手さ、旦那さんからほぼ毎日、家庭内暴力を受けていたみたい。そこに仕事や家事も重なって、いろいろ疲弊していたんだと思う。それで、そのことを同じ職場に勤めていた父さんに相談したら、ずるずると関係を持ってしまったみたい。……まぁ、そんな成り行きなんてどうでもいいんだけどね。

 私が、その人のことを憎んでいるのは間違いないし、母さんを苦しめたことも忘れてない。けれど、ちょっとだけ共感できるところがあるんだ。孤独な人は、近づいてきた手を振り払うことはできないから。名前は、久美子くみこさん。その人が正真正銘、父さんの浮気相手だよ。

 それでさ、久美子さん、父さんと隠れて交際している時に、子供を身籠ったらしいんだ。旦那さんは疑う余地もなく自分の子供だって言い張って、遺伝子検査をしようとも言いださなかったみたい。それだけ、久美子さんが自分を裏切るわけがないと信じ切っていたのか、それとも単に、自分の子供に興味がなかっただけなのかはわからないけどね。

 私ね、知らなかったんだ。あの時は父さんの浮気相手の子供のことなんて考えたくもなかったし、なにより苦しむ母さんを誰よりもそばで支えてあげたかったから。私がその子のことを調べようとしたのは、大好きな母さんが死んでからだいぶたったころだった。理由は、単に憎かったから。母さんを苦しめた存在が、どんな顔をして生きているのか見て見たいと思ったから。

 けどね、実際に話してみると、その子はとても優しくて、温かくて、眩しかった。太陽みたいな笑顔でいつも私を支えてくれて、逆に苦しい時は静かに隣にいてくれた。独りぼっちだった私に、誰よりも寄り添ってくれたんだ。

 そして私は、あなたを守るって誓ったんだ。これからどんな辛いことがあっても、どんな困難が待ち受けていても、私は必ずあなたのことを助けて見せる。私が、結葉のことを守って見せる。


「だって私は、結葉のお義姉ねえちゃんだからね」



 青いバラの花言葉は、「奇跡」。私はもう、絶対に手放したりしない。

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