コエビソウ

「じゃあお婆ちゃん、行ってくるね」

「はいはい。愛ちゃん、気を付けて行ってらっしゃい」


 手を振りながら優しく微笑む祖母の姿を後にして、愛は人気ひとけのない田舎道を歩き始めた。上空は灰色の雲で覆われており、遠目で見える小学生たちはみな傘をたずさえている。曇りがかった空の下を歩きつつ、愛は昨日の出来事について不安を募らせていた。

 精神的に極限まで追い詰められた人間は、呼吸の仕方を忘れていく。酸素の供給は徐々に失速していき、やがて声を発することすら危うくなる。昨日の結葉は、まさにそんな状態だった。浅い呼吸を何度も繰り返し、発せられる声からははっきりとした恐怖が感じられた。

 一度植え付けられたトラウマは、決して枯れることはない。神出鬼没に現れては、当人の心を蝕んでいく。だからこそ、結葉のことが心配だ。昨日のことで、傷ついていなければいいのだが……。

 顎の下に手を当てつつ、愛は車が来ていないのを確認して横断歩道を渡った。ちらほらと、学校へ向かう中学生の姿が見え始める。奥に見えるバス停には、すでに何人かが待機しているようだ。列の最後尾につき、愛はポケットから携帯を取り出して時間を確認した。画面には「6時35分」と表示されている。

 バスが来るまで、あと3分。結葉からは、まだ返信は来ていない。昨日の夜にメッセージを送ったが、いまだに既読すらついていない。真面目な結葉だからこそ、昨日のことで思い悩んでいないか気がかりだ。

 眉をひそめつつ、愛はおそるおそる横目でバス停に並んでいる人たちを確認した。左手で通勤バッグをぶら下げながら呆然と立ちつくすサラリーマン。ビニール傘をかたわらに駅のベンチへ腰を下ろしている、険しい顔をしたおじさん。そして、真剣な表情で携帯の画面を見ている草上くさかみ高校の男子生徒。小中学生の頃の同級生がいないとわかり、愛は軽く安堵を覚えた。

 私が早朝のバスを選んでいるのは、昔の同級生と鉢合わせたくないからだ。私を人殺しの娘だと散々ののしり、彼らからは何度もひどい扱いを受けた。あの時味わった苦しみは、これから先も消えることはないだろう。私は、あいつらを許すことができない。


『間もなく、6時38分発、木ノ坂きのさか駅行きのバスが到着いたします』


 鳴り響くアナウンスの音を聞き、愛は膨れ上がる感情を胸の内に抑え込んだ。首を右へ向けると、道路の奥からバスの頭が見え始めていた。愛はもう一度結葉から連絡が来ていないことを確認し、携帯をポケットの中へしまい込んだ。

 目の前にバスが停車し、乗車口のドアが開き始める。数人の列はすぐさまバスの中へと取り込まれ、愛もそれに続くように乗り込んだ。定期券を改札機にかざし、後方の席へ着座する。ガラス越しにはよどんだ色の海が広がっている。


「あの……花園さん、だよね?」


 突然後ろの席から声を掛けられ、愛は体をびくつかせた。振り返ると、そこには先ほど見かけた男子高校生がおどおどした様子でこちらを見つめていた。


「えっと……どなたですか?」

「覚えてないかな? 宏大こうだいだよ」


 その名を聞き、愛はある一人の同級生のことを思い出した。


「えっ、嘘。本当に宏大なの?」

「ほ、本当だって! 久しぶり、花園さん」

「……うん、久しぶり」


 そういうと、宏大は嬉しそうな表情を見せた。

 とても信じられなかった。鹿島宏大かしまこうだいは、確かに私が通っていた雨宮あまみや中学校の同級生だ。けれど今の彼は、私の記憶上の姿とはひどくかけ離れている。


「宏大さ、ずいぶん雰囲気変わったね」

「よく言われるよ。親戚のおじさんからもすごい驚かれたし」


 中学のころ、私が宏大に対して抱いていたイメージは、ぼさぼさ頭と眼鏡、それだけだった。けれど、今の彼にはその二つがない。髪で隠れていた瞳は蒼色あおいろに輝き、眼鏡もコンタクトへ代わっているようだ。


「へー。宏大ってさ、こんな顔してたんだね」

「……えっと、そんな見つめられると照れるんだけど」

「あっ、ごめんごめん」


 赤面する宏大を見て、愛は不意にも可愛いと思ってしまった。


『間もなく、発車致します』


「あっ、そろそろだね」


 出発のアナウンスが流れ、バスはゆっくりと加速し始める。静止していたガラス越しの景色が、絶え間なく移り変わってゆく。宏大はまだ照れているのか、手のひらで顔を隠している。


「そ、それでなんだけどさ。花園さん、連絡先交換しない? 中学のグループに花園さんだけいなかったからさ。グループに招待したいなって思って」

「あぁ、そのことね。遠慮しとくよ。だって私、ハブられてるから」

「あっ……ごめん」

「ううん、大丈夫」


 宏大は落ち込んだ表情を浮かべながら、顔をうつむかせた。

 別に、宏大のことは嫌いではない。なぜなら、宏大も私と同じ、いじめの被害者だったからだ。父が殺人を犯す前、私のクラスでは宏大を標的とするいじめが行われていた。そのきっかけがなんであったかは私にはわからない。けれど、だからこそ宏大は、他人を陥れて快感を覚えるようなあんな連中たちとは違うと信じられる。さっきのも、悪気があって言ったわけではないだろう。


「まぁでも、連絡先の交換ぐらいなら全然いいよ」

「え、ほんと!」


 宏大のあどけない仕草を前に、愛は不思議な感覚に至った。私の連絡を知れるのが、そんなに嬉しいのだろうか。携帯を取り出し、メッセージアプリのQRコードを提示する。


「はい、これが私の」

「……本当にありがとう!」


 宏大が喜ぶ姿を見て、愛は頬を緩ませた。中学の頃はもっと大人しい奴だと思っていたのに、案外子供っぽいんだな。愛の中で、宏大に対する印象が大きく書き換えられた。


『間もなく、田城たしろ駅、田城駅』


「あっ、もうすぐ下りないと」

「そっか。宏大は草上高校だもんね」

「そうそう。あとでメッセージの方も送っておくよ」


 田城駅にバスが停車し、先頭にあるドアが開き始める。


「じゃあ花園さん、ま、またね!」

「うん、またね」


 宏大は軽く手を振り、上機嫌にバスを降りていった。

 なんだか、久々に結葉以外の同級生と話したような気がする。まだ高校生活がはじまって3か月しか経っていないのに、人は大きく変わるものなんだな。宏大の変わりようを目にして、愛は自身の気持ちを奮い立たせた。

 宏大にだって、辛い過去があったはずだ。けれど今はそれを乗り越えて、前へ進もうとしている。彼の勇ましい姿勢を、私も見習わなくては。愛の中に宿った黒色の薔薇は、次第に深紅の色を取り戻しつつあった。


『間もなく、発車致します』


 再び出発のアナウンスが流れはじめる。ふと、外の方へ眼をやると、宏大がこちらへ小さく手を振っていた。愛は一瞬ためらったが、宏大へ向けて静かに手を振り返した。



コエビソウ 花言葉は「思いがけない出会い」

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