ぼくたちはラブコメに恋をしている

シャコヤナギ

第1話 二日間の出来事

 ラブコメ。恋愛ラブ喜劇コメディ的な描写を含む創作物全般を意味する。幅広い世代に愛されるジャンルでありメディア展開も豊富。生涯このジャンルを追いかけていても全ての作品を網羅することは不可能だと思われる。

 僕とラブコメの出会いは中学生の図書室で出会った一冊のラノベから始まった。昼休みと放課後を費やしてそのシリーズを読破し、他のシリーズに手を伸ばしたところで完全にラブコメ沼に落ちていた。受験勉強の隙間でWEB掲載の小説を読んだり高校受験直後に新刊を買いに行ったり僕の人生のウェイトはややラブコメに支配されている。……まぁ、それでもそんなにラブコメというテーマに詳しくはないのだがラブコメが好きという気持ちは本当だ。


 僕、長内光希おさないみつきは今年の春に高校に進学、六月の今に至るまで色恋沙汰イベントなど発生することはなく、平均的な男子高校生の生活を送っている。

 ラブコメのようなカラフルで起承転結が明確なストーリーが現実で起きるはずがないとわかってはいるが、青春最前線に身を置く男としては数多なラブコメ主人公のような経験を体験したいと思うのは普通ではないだろうか?

 いや、まだ諦めるような時間ではない。今はまだ準備時間に過ぎないからである。いつこの身にラブコメの波動を受けてもクールに立ち回れるようにラブコメを接種し続け抵抗力をつけるための期間に違いない。

 だからこうして急な雨から逃げるためにポテト頼んでラブコメを読みながら独り寂しく時間を過ごすことは何の苦でもない! よって、ガラス越しに学生カップルが相合傘で歩いていく姿を見る僕の目は決して羨望や嫉妬といった感情を一切含んでいない! というか早くないか? 同じ一年生の制服だよな? まだ学校始まって2ヶ月経ったばかりだぞ。恋愛はRTAではないはずなのに。

 ラブコメの時間経過やストーリー展開ではあり得ないスピード交際を目の当たりにして眩暈のような錯覚を覚える。ここは現実、隣でPC開きながらコーヒーを飲んでるおじさんも現実。


「はぁ……」

「はぁ……」


 思わず出てしまった溜息が誰かの溜息と重なってしまった。隣のおじさんの溜息かと思ったがそんな様子じゃないし、そもそも声色は女の子だったような……おじさんのスマホのアラームが鳴ると、おじさんはPCを畳んで慌てて席を立つ。その様子をぼんやり見ていると、おじさんの影に隠れていた女の子と目が会ってしまった。互いにたまたまおじさんを見ていただけなのに目が合ってしまい彼女も少し驚いているように見える。先程の溜息はこの子だったか……というかウチの制服だし、学年も一年生だ。いや同じクラスにいたような……


「あ、え、あ……」


「長内くんじゃん。雨宿り?」


 僕が彼女の名前を思い出す前に会話が始まってしまった。というか僕の名前知ってるし、同じクラスだよこれ。会話に集中すると記憶呼び起こし用のメモリが不足して彼女の名前を思い出す確率が0.3%ぐらいに収束してしまう。大変まずい。


「そ、そんな感じかな。ああ、ええっと……」


「槙野。槙野雪衣まきのゆきえだよ。もう二ヶ月同じクラスなのにひどくない?」


「ごめん、名前を覚えるの苦手でさ。ま、槙野さんも?」


 僕が名前を覚えていないことを看破され不服そうな表情で名乗らせてしまった。本当にごめんなさい。でも思い出したぞ。槙野さんは確かクラスのギャルグループの1人だったはず。見た目は清楚系なんだがギャルグループに馴染めるということは間違いなく槙野さんは陽の者。じゃあなんでそんな彼女が一人でこんなところにいるんだ? 放課後はテーブル席で友人達とギャルトークしてるもんじゃないのか?


「ま、そんなところ……それよりそれさ」


「ん? ……あ」


 槙野さんは僕のテーブルに置かれたラブコメの表紙を指差していた。まずい、ギャルにとってオタクは対を為す存在! オタクに優しいギャルは存在しないってネットでも言われていたし、僕のあだ名が一生オタクくんになって彼女達の奴隷になってしまう!


「新刊だよね! 今月発売だったっけ? 色々あって忘れてたなぁ、あとで買わなきゃ」


「読むの!? ラブコメ!?」


「なにその反応。読むでしょそれぐらい。そもそも有名じゃん、いせげん。アニメ化決まってるし」


 いせげん、正式なタイトルは「異世界と現世で告白された俺、二人の愛に対して体が足りないんだが?」である。訳あって異世界に行くができるようになった主人公が色々合って異世界側のヒロインに告白される王道系と思いきや現世の方でも幼馴染に告白されるというラブコメである。合法的な二股ということで負けヒロイン無しのすごい設定が受けて、アニメ化が決まるほどの作品である。てっきりインターネットのオタクの界隈だけで流行っていた作品だと思っていたが、ギャルも読んでいるとは……


「そ、そうだよね! 制作会社も良いところだしさ、めっちゃ楽しみなんだよ」


「そう! めっちゃ楽しみ! アニメ化の話聞いた日に一巻から読み返したもん!」


 あれ、その口ぶりだと結構前からいせげん知ってる感じ?


「……どっち派? 僕は幼馴染派」


 僕は何を聞いているんだ? ヒロイン派閥論争は危険だって皆言ってたことなのに! でも目の前にいるギャル、いや槙野さんは僕の勘違いじゃなければこちら側の人間! 

 高校に入ってからあまりできなかったオタクトークをしたくて攻め過ぎた会話デッキをぶつけてしまった! これでももし異世界派だったら戦争になってしまう!


「……異世界派」


 終わりです。


「長内くん、時間ある?」


「あ、あ、あ、あります!」


「テーブル席行こうか」


「あ、はい」


 僕はこれから死ぬかもしれない。槙野さんから逃げる度胸などもなく、言われるがまま空いているテーブル席に移動するのであった。



 ◇◇◇



「で、あそこのアイちゃんの台詞がすごく刺さってぇ!」


「わかる! 異世界側のレンちゃんの台詞が伏線になっててジュンくんがハッとするシーン! すごい好き!」


「わかるそれ! 僕もそこ好き!」


 めっちゃ盛り上がった。というか槙野さん相当詳しい。

 女子との会話がこんなに楽しいと感じたのは人生初かもしれない。


「あ、やばっ。もう結構いい時間じゃん」


「え、マジだ。というか雨止んでるし」


 どれだけ周囲を省みずに会話の花を咲かせていたかわかるような時間経過の仕方であった。健全な学生という立場、これ以上の長居は不要だ。二人分のゴミをトレイの上にまとめて、店を出る準備を進める。


「長内くん、連絡先」


「連絡先?」


「教えて」


 思考がフリーズして動きも止まる。母親と姉以外の女性が登録されていないアプリに槙野さんの名前が加わるってことか? いいのか? 本当に? いや、これくらい普通か、同級生だし。陰キャ故にその場を和ませるような気の利いた言葉が出ず無言でアプリの連絡先コードを槙野さんに見せ登録してもらった。

 ぺこんとデフォルトの着信音が僕のスマホから鳴り、画面を見ると何か可愛いキャラクターのスタンプが槙野さんから送られていた。


「私も新刊読んだら感想送るから! じゃ、また明日ね!」


 槙野さんは僕がゴミをまとめていたトレイを掻っ攫い、颯爽とテーブルから去っていった。また明日……僕は今日が木曜日だったことを思い出した。



 ◇◇◇



 次の日の朝、誰に向けて言ったでもないおはようを口にして教室に入り自席に着く。窓側の席が良かったが、五十音順の関係でどう足掻いても廊下側だ。身長と視力の関係で加藤君と席を変えて一番後ろの席になっただけまだマシである。

 窓側の方では槙野さん含めるギャルグループが自分とは一生縁が無さそうな会話をしている。気づかれないように槙野さんの様子を窺っているが、昨日のはしゃぎ様が嘘のように思えるぐらいクールな立ち振る舞いをされているように見える。ギャルグループの会話にはしっかり参加しているようだが……どちらが素の槙野さんなんだろうか?


「野球部の高岡先輩とマネの市原先輩って付き合ってるのかなぁ、どう思う槙野?」


「二人は確か幼馴染だよね。ちょっと前に見かけたけど市原先輩は間違いなく待ちの態勢。高岡先輩の恋心が芽生えるまで長い戦いになるだろうね」


 先輩なのによく見てるな……いや、まぁ有名な二人だから知っててもおかしくないか。


「3組の後藤と三上どう思う?」


「二人で言い争いしてるところよく見るけど……近い内に付き合い始めるね。私の経験的がそう言ってる」


 ラブコメでよく見る関係性だな、羨ましい。


「槙野の恋愛予測って当たるんだよねぇ、」


「たまたまだよ」


「じゃあさ、私と樫村くんってどう思う?」


 質問の主は花咲姫乃はなさきひめのさん。クラスのリーダー的立ち位置の女子であり、同学年の中でもトップクラスの美少女……と周囲が評価している子である。僕でも名前を覚えてるぐらいだから相当目立っている。樫村くんは同じクラスのサッカー部の若きエースである。現在は朝練の疲れで机に突っ伏して寝ている。花咲さんと同じく普段はクラスの中心に近い人間である。


「え? ええっと、ど、どうかなぁ」


 動揺を隠しきれない槙野さんの視線はクラスの誰かに一瞬向けられた……なるほど、何か知ってるんだな槙野さん。


「ま、まぁ、花咲さんから攻めれば樫野くんも結構意識してるみたいだし……」


 多分思っていないことを言っている槙野さんだが、幸いギャルグループに槙野さんの視線は読まれていないようだ。


「言うねぇ、信じちゃうよ?」


「参考程度、参考程度にね? それに二人はまだ出会って数ヶ月な訳だし、勝負はもっと機が熟してから確実に、雰囲気とかもあるし、ほら! ドラマとか映画とか」


 身振り手振りで色々誤魔化そうとする槙野さん。昨日僕と話していた槙野さんが帰ってきたような喋り方である。こっちが素かもしれない。それにしても花咲さんと樫村くんは高校で初めて出会った関係、槙野さんが好きそうな運命の出会い系のはず。にも関わらず二人の仲を遠回しに否定しているようにも思える言動。ちょっと引っかかった。

 僕は槙野さんのチャットに「運命の出会い派じゃなかったのか?」と送った。チャットに気づいた槙野さんが固まり周囲から不思議そうな目で見られていたところで始業のチャイムが鳴る……チャイムが鳴り終わる前に槙野さんから返信が届いた。


「放課後同じ店。それまで黙ってろ」


 こわい。



 ◇◇◇



 放課後、槙野さんの言う通りに昨日白熱したラブコメ談義を行なったお店に来たのだが……一足先に着いていた槙野さんが店の入り口で僕のことを待っていた。


「満席。他に近くで話せそうな場所って知ってたりする?」


 平日といえ満席か。そんなに大きくない店舗だし、今日は雨も降ってないしね。


「うーん、そんなに土地勘ないんだよね。喫茶店とか探した方が早いかも」


 ネットで近くに喫茶店がないか検索をかける。運よく少し大通りから外れた場所にお店が見つかり、まずはここに行くことを槙野さんに提案した。


「こことか」


「古そうなお店ね。行ってみましょ」


 マップなしでは迷いそうな住宅街を特に会話を交わすこともなく進めていくと、5分ほどで目的地の喫茶店に到着した。レトロというかなんというか……趣のある個人経営のお店。窓から店内を覗いてみたがお客さんの影は無さそうだ。


「空いてる空いてる」


「おっけ、ここにしよ」


 槙野さんが先に扉を開けて中に入っていくので、慌てて僕も店内に入った。カランカランと存在しない昭和の記憶が蘇るドアベルの音がこのお店の雰囲気をさらにレトロへと変えていく。


「いらっしゃいませ。おや、その制服は……月丘高校の一年生かな」


 カウンターでグラスを拭いている初老の男性店長に出迎えられる。確かにここは高校からそこまで離れていないし、制服で特定されるのも仕方がないだろう。


「はい、今年から制服変わったので目立ちますよね。あ、二名なんですけど」


「学ランとセーラー服からブレザーだからね。お好きな席にどうぞ」


 気の利いた返しのできない僕に変わって槙野さんが話を進めてくれた。槙野さんは窓から離れたテーブル席を選んで僕達はそこに対面する形で座る。


「うっ」


 メニューを見た槙野さんの顔が引きつる。僕もメニューの金額を見たが、きっと槙野さんと同じような顔をしている。高い。学生が寄りつかないわけだ……


「長内くん、き、決まった?」


 お財布的に頼める範囲は豊富だが下手な選択は致命傷に繋がりそうだ。


「……本日のブレンドで」


「私もそれで! すみません! 注文を……」


「本日のブレンドおふたつですね、少々お待ちください」


 店長がお水を運んできてくれたタイミングと僕達が金額にビビっていた様子が重なっていたらしく注文はスムーズに通った。


「ええっと……それで話って……」


「私がラブコメの知識で恋愛相談してるってこと絶対みんなに言わないで! というかラブコメ愛読してることも!」


「え?」


 今朝の話のこと? そうだったの?

 キョトンとしているであろう僕を見て槙野さんが話を続ける。


「あのチャット! そういうことだよね!? 長内くんのラブコメ知識を侮ってた!  私の経験談が全部ラブコメの話だと思って笑ってたんでしょ!? 何が望みなの!?」


「え?」


 どういうことか僕が何をしようとしていたのかも検討つかない。恐らくだが槙野さんは勘違いをしている。いや、自爆している。


「そんなこと思ってなかったし、というか今それ聞いて確かにそんなストーリーもあったよなぁと思ったぐらいで……その、多分……勘違い、槙野さんの」


「……まじ?」


「まともに会話して二日目でいきなり脅迫するクラスメイトがいたら怖すぎるよ。というか僕のことそんな目で……」


「い、いや、待って! そこまでじゃないの! そうだったら二人で隠れて会うことすらしないわよ! クラスの立場とかそういうので……とにかく! ごめんなさい! 今の話忘れて!」


 別に本気で傷付いたわけではないので問題ないが、槙野さんがここまで愉快な女の子であったという事実が先に来る。


「言いふらす気はないけど、忘れるのは……そうだなぁ……」


 僕はメニューに書かれたコーヒーの金額の部分を無言でトントンと指差す。


「くっ! わ、わかったわよ、奢るわよ! 今日だけだからね!」


「もちろん」


 人の金で飲むお高いコーヒーはさぞ美味しいだろうなぁ。


「はぁ……一人で騒いでバカみたい」


「別にラブコメ読んでるぐらい気にしなくて良いんじゃないの?」


「私のクラスでの立ち位置考えてよ。恋愛相談役の恋愛経験がラブコメだけの女だってバレたらやばいでしょ。別にラブコメをバカにしてるとかじゃないからね」


 そういうものだろうか……スクールカーストというのは良くわからないが大変なのだろう。僕のポジションはどこなんだ? 最下層か?


「そうそう、読んだわよ最新刊」


「え? もう? 早くない? 僕はまだ途中だよ」


 まだ半分ぐらいなんだけど。


「私、読むのだけは早いのよね。そっかぁ感想会はまた別の日か」


「お、おお! 感想会! いい! やろう!」


 高校生活では諦めていた同志との感想会! まさかクラスの女子とできることになるとは……世の中何が起きるかわからないものだ。


「だから早く読み終わってよね。うっかりネタバレするかも」


「それは勘弁してほしいな……」


「じょーだんじょーだん。長内くんっていせげん以外も読むの?」


「流行から往年の名作ラノベと漫画、アニメ。ラブコメ中心だけどそれ以外も」


 なんなら実写ドラマや洋画も見る。


「昨日も思ったけどラブコメに限らず創作関係の知識豊富だよね。まぁだから勘違いしたんだけど……」


「そうかな? 広く浅くだと思うよ。考察とか全然当たったことないし。槙野さんは? いせげん以外も読んでる感じだよね?」


「私はラブコメメインかなぁ、話題になったやつとかは読むけど。最近読んだやつだとアオハルエリートとか」


「めっちゃ好き。早く主人公に恋愛感情が芽生えてほしいけど」


 アオハルエリート。主人公の男子高校生がヒロイン達の抱える問題を解決していくラブコメである。主人公は恋愛関連に関しては超鈍感なのでヒロイン達のアピールが通用しない無敵の男である。


「男子でもそう思うんだ」


「そりゃね」


 だから面白いんだけども。


「お待たせしました。本日のブレンドでございます」


「ありがとうございます」

「ありがとうございます」


「ごゆっくり」


 店長がすっとテーブルにコーヒーを運んできてくれた。湯気に混ざる薫りはすでに良く、値段相応の価値を感じる一杯に感じられる。槙野さんは綺麗な動作でカップを持ち、静かに吐息でコーヒーを冷ましながら飲む。わちゃわちゃしてることが多いのだけど育ちの良さを感じる。一方僕はコーヒーシュガーをスプーン三杯入れてかき混ぜているところである。


「ブラック派なんだ、どう? 美味しい?」


「お父さんの淹れたコーヒーが可哀想になるぐらい美味しい!」


 それは本当にお父さんが可哀想だ。やはりプロの仕事、値段の力! 砂糖が溶け切った感じがしたので僕も一口……美味しい、と思う。これまではコーヒーの苦さがなんとなく良いものだと思い込みながら飲んできたが、そういった感想が失礼なものだとわかるぐらいに美味しいコーヒーだ。


「おいしい!」


「だよね! いいお店見つけちゃったなぁ」


 微笑みながらコーヒーを飲み進める槙野さん。値段が値段なので通うのは難しそうだが確かに定期的に飲みたくなる味。恐らくケーキとかナポリタンとかのメニューも美味しいのだろう。


「そういえば、花咲さんと話していた時って誰のこと見てたの?」


 あの時、確かに槙野さんの視線は明らかに花咲さんとは別の人間の方向に向いていた。それだけでは誰かを特定できなかったので、興味本位で聞いてしまった。


「ん? ああ……別に。というか席遠いのによく聞こえてるね。聞き耳立ててたの?」


「みんな声が大きいんだよ」


 聴力には多少自信はあるが、ギャルグループの会話は勝手に耳に入る程度には声量が大きい。樫村くんが寝てるとはいえギリギリの会話内容だった気もする。

 そして、誰を見ていたのかは教えてもらえなかった。


「そ、れ、よ、り! ジャーン!」


 槙野さんがおもむろに鞄の中から冊子を取り出して僕に眼前に突きつけてくる。近すぎて何も見えない……少し距離を取って表紙を確認する。


「こ、これは! いせげんの作者さんがいせげん書く前に書いていた同人誌! 通販すらされていない入手困難な奴! なぜここに!?」


 いせげんの作者、狐ねねねこ先生が有名になる前の名義で書いていた同人誌。内容は少しニッチで部数も出ていないが、この時から既に光るものがあったと古参のファン達が語る一冊である。


「私が古参ファンっていうこと」


 人間ってここまで見事なドヤ顔をすることができるんだ……いや、これはドヤっても仕方がない。


「しかし、どうやって……」


「私、文章読むの早いって言ったじゃん? 表紙で釣られて中身読んで一目惚れ」


 運命の出会いってやつだ……槙野さんがその派閥であることに納得せざるを得ない。

 狐ねねねこ先生、絵も上手いんだよなぁ。そして槙野さんが夏コミとかにいく人間であるということもわかった。


「価値がわかっている長内くんには特別に貸してあげよう。それ布教用だし」


「布教用!?」


 保存用、布教用とかで複数本を買う人を初めてみた。


「いや、ありがとう! 読んでみたかったんだよね!」


「ふふん、今度感想聞かせてね」


 宿題が積み重なっていく……学業の方も含めて。土日は忙しくなりそうだ。プリントをまとめていたクリアファイルから中身を鞄に投げ出し、お借りした同人誌をそのクリアファイルに保管する。雨風に濡れないように慎重に帰宅する必要ができてしまった。本日は六月とはいえ快晴なので全くの杞憂なのだが。


「さて、昨日は何の話で終わったんだっけ?」


「確かラブコメ主人公の性別による性能差についてと、いせげん6巻の内容について……」


 昨日の会話の続きを始めようとした瞬間に人の気配を感じ振り向く。女性らしい黒髪に溶け込む細長く黒いシルエット、店内の照明の配置の関係ではっきりと見えない表情。いつの間に僕たちは人の接近を許した? そもそも人なのか? お店に入った時には店長さんしかいなかったはず……導き出される結論は一つ、ゆうれ


「君たち」


「うひゃあ!?」


「え? わぁはっ!?」


 幽霊に突然話しかけられて僕も槙野さんも情けない悲鳴をあげる。


「……え、なに?」


「い、いつの間に!? ドアベル鳴ってないし、僕たち以外お客さんいなかったのに!」


「ずっといたけど」


 なんで僕は幽霊と会話できているんだという話なのだが、ずっといたという言葉を信じられず店長さんの顔を見る。店長さんは困ったような表情で入口側の窓の席の奥にある一角に視線を送る。テーブルの上にはノートPCとコーヒーカップが置かれており、確かにそこには誰かがいた痕跡が残っていた。


「あ、窓から死角だよ、あそこの席……」


 槙野さんに言われて色々と繋がった。いや、そもそも気配なく僕らのテーブルまで接近できたことについては何の説明にもならないのだけど?

 ……落ち着いてよく見ると、幽霊は月岡高校の上級生の制服である紺色のセーラー服を着ていた。2年か3年かはわからないけど僕らの先輩ということには違いない。


「せ、先輩!? す、すみません! なんかちょっとそのびっくりして!」


「私も全然気づかなくて……ごめんなさい」


「驚かせてしまってごめんなさい。君たちの会話に興味があって、声を掛けたかっただけなんだ」


 衝撃が大きすぎて幽霊なんて言ってしまったが、血色はいいし全然幽霊ではなかった。身長は僕よりも高いがちゃんと人間だ。ただ、喋り方はちょっと気だるげであんまり感情表現が得意そうではなさそうな先輩である。


「僕らの会話って……ラブコメの話?」


「ほとんどそれしかしてないもんね……」


 印象で人のことを言うのは良くないが、先輩からはあまりラブコメという雰囲気を感じない。


「自己紹介をしてなかったね。私は黒川恭子くろかわきょうこ、2年生だよ」


「槙野雪衣、一年生です。」


「長内光希、同じく一年生です」


「その制服、今はまだ一年生しか着てないからね」


「それでその……私たちの会話が気になったんですよね?」


 黒川先輩は少し考える仕草を見せたがすぐに僕たちの目を見て口を開いた。


「私……趣味で小説を書いていて、今はラブコメ小説を書きたいと考えている」


 冗談などではなく真剣な声色だ。何というか……言葉に重みすら感じる。


「ただうまく書けてる気がしなくて……槙野さんも長内くんもラブコメに造詣が深そうだし……教えて欲しいんだ、ラブコメのことを」


「え!? 造詣が深いってそんな! 私たち人に教えるとかそういうのじゃないというか……単純にラブコメ作品が好きってだけで」


「会話したのも昨日がほとんど初めてなんですよ僕ら。なのに先輩の役に立つような内容を話していたとも思えませんし……」


「昨日初めて? それ本当?」


 黒川先輩は少し驚きながら槙野さんに僕の言葉の真偽を確認する。


「ほ、本当です。クラスは一緒だったんですけど……まさか同じ趣味だとは思ってなくて」


「……は力だよ。同じ感性を持つものの関係構築に期間なんて必要ない」


 黒川先輩の言いたいことはわかった気もするがよくわからない……


「私たちがこうして出会ったことはもはや奇跡や運命。ますます見逃せないね」


 ちょっと気が昂っているのかちょっとだけ声が大きくなっているような気がする。


「でも、こういうのって文芸部の人とかに聞いた方が……ね?」


 槙野さんが同意を求めたのですかさず頷く。


「私は文芸部から追放されてるから無理なんだ」


 何だそれ! 部費とか横領したんですか!? 色々気になるが、もう何を言っても引かないという強い意志を黒川先輩から感じる。槙野さんもそれを感じ取っており、どうしようという目で僕のことを見ている。


「ええっと、僕ら多分そんな難しいこと考えてないし、先輩の役に立つかは全然自信ないんですけど……その、相談に乗ったりお話しするぐらいなら」


「ありがとう。それで大丈夫」


 即答! 何が見えてるんだこの人!


「……早速だけど、こっちに移動しても良いかな?」


「構いませんが……」


 僕がそう言うと槙野さんは自分の荷物を詰めて、手前の席を空ける。


「あと二人とも好きなもの1つずつ頼んで良いよ。私だけ貰ってばかりでフェアじゃない」


 与えてるつもりもなかったんだけど……でもここで断るのもなぁ……しかし、いきなり先輩に奢ってもらうというのも何だか気が引けるというか……


「長内くん! 私アップルパイ頼むから別のケーキ頼んで! シェアしよう! シェア!」


 槙野さんが僕にメニューを突き出す。……まぁいいか。グラタンとかも気になってたんだけど、仕方がない。



 ◇◇◇



 テーブルの上には半分ずつになったアップルパイとガトーショコラ、三人分の飲みかけのコーヒーが置かれている。僕のコーヒーの底にだけ溶けきらなかったコーヒーシュガーが残っており、照明に反射して少しだけ煌めいていた。


「ここのケーキ美味しいですね……まさか手作り?」


「近くのケーキ屋さんから仕入れてるんだよ」


「後で教えて貰おう……」


 この喫茶店「ポラリス」の店長さんは黒川先輩の親戚だそうで、先輩が原稿を書く時によく使っているとのことだった。店長さんが新旧制服の話をした時にヒントはあったのかもしれない。

 黒川先輩と合流してからわかったのはそれぐらい。まだラブコメの話はひとつもしていない。


「ええっと、先輩はラブコメを書きたいって言ってましたけど、学校が舞台とか会社が舞台とか何か書きたいジャンルみたいなものってあるんですか?」


「学生だし、学園青春ラブコメかしら。設定とかも調べやすいし」


 確かに黒川先輩は学生なのだけれども、大人びている見た目のせいで青春とは無縁の存在に感じてしまう。


「普段はどんな小説書かれているんですか?」


 槙野さんの質問に対して黒川先輩はPCを立ち上げ始める。

 今はラブコメを書きたいと言っていたし、これまでは違うジャンルを書いていたのだろう。


「……これとかが良いかな」


「読ませて頂きます」


 隣にいる槙野さんが先に内容を確認する。読むのが早いとは言っていたが、スクロールの操作を見るに本当に早そうだ。黒川先輩も少し驚いている……気がする。


「ミステリー……だけど、すごい。プロの文章を読んでるみたい。最後まで読みたいけど……はい、長内くんも」


 ノートPCを受け取り、映されていた文章に目を通す。……ちょっと人よりも文章を読んでいる程度の自分がこんなことを言っていいのかわからないが、数行読んだだけでこの人の書く文章は上手いと思えてしまう内容だった。生き生きとした登場人物、存在しない映像が目に浮かぶ表現力……次はどうなるんだ? この後の展開はどうなっていく?


「……」


「長内くん、ちょっと! 分かるけど帰って来て!」


「え? まだ読み始めたばっかりだけど……」


「もう十分ぐらい経ってる」


 スマホの時計を確認すると槙野さんの言う通りそれくらいの時間経過が感じられる時刻だった。


「す、すみません。いや、すごいですよ! 素人の感想で申し訳ないですけど面白いです! すごく!」


「ふふ、ありがとう。嬉しい」


 これだけの文才が文芸部から追放されるなんて、本当に何をやったんだろうか。

 その話も気になるけどそれよりも……


「賞とかWEBとかに出したことないんですか? 実はもう有名だったり?」


「この小説、書き終わったら絶対何かに出した方がいいですよ!」


 僕も槙野さんの言葉には同意見だ。


「公に出すのはちょっと……でもそうだね、考えておくよ」


 この人でも通用しないくらい小説界隈は修羅なのか? 僕だったら自信作で速攻なんとか賞とかに出しそうなものなのに。


「それより、槙野さんと長内くんはどうしてラブコメが好きなの?」


 あまり真面目に考えたことなかったな……シンプルに面白いからって答えるのも失礼な感じもするし……ここは槙野さんの答えを参考にしてみよう。


「そうですねぇ……登場人物がみんな心が綺麗というか純粋というか……読んでて不快にならない作品が多いんですよね。意地悪するような子も背景があったり、何なら仲直りだってすることもありますし」


「あーわかるわかる。現実の汚さを忘れられるんだよね」


「長内くんそれ高1の台詞とは思えないんだけど……でも逆に心の汚さとかそう言うのが強い作品は苦手かなぁ、意味のない暴力とかも。ラブコメはその辺があまりない気がします」


「たまにラブコメでもあるけどね、主役級の登場人物がドス黒いやつ」


 ちなみに僕はそっち系も全然アリだ。


「もうそうなるとラブコメじゃなくて愛憎劇じゃん」


「それはそうかも」


「長内くんは?」


「うーん……ありそうで無いような話が自分にも起きるんじゃ無いかなぁっていう期待感があるというか。でも異世界転生なんて絶対起きないけど好きだしなぁ、ラブコメ作品が好きなのは間違い無いんですけど。何でこんなにハマってるのか……面白いからってぐらいで、あんまり意識して無いですね」


 僕はライブ感で生きているタイプの人間らしい。


「異世界行けるかもじゃん。ちょっとトラックに轢かれてきなよ」


「逝くのはあの世だよ」


「なるほど、とても参考になった」


 本当ですか黒川先輩?


「今書いている小説が書き終わったら、二人の意見を参考にラブコメを一つ書いてみるよ。その際は是非二人にも読んで貰って感想を聞かせてほしい」


「私たちで良ければですけど……」


「むしろ黒川先輩の作品がいち早く読めるなんて嬉しいです!」


 先輩の文才なら名作が生まれる瞬間に立ち会えるかもしれない。


「多分来週には見せられるかな……二人は普段どこにいるの? 部活には入ってる?」


「僕は帰宅部です。どこにいると言っても本来なら真っ直ぐ家に帰ってますからね」


「私も」


 槙野さんはギャルグループの集まりとかあるんじゃないの? カラオケとかタピオカとか。昨日はたまたま一人だっただけなんじゃ……


「じゃあ、ポラリスで良い? 私は大体ここにいるから」


 学生的には確かに穴場だし、集まる場所としても申し分ない。黒川先輩のご親戚のお店というのも合法感がある。メニューの金額はちょっと高いが……毎日豪遊とかしなければ全然耐えられる。というか毎日来るわけでもないし大丈夫。


「僕は構いませんよ、ポラリスで」


「あ、あの、先輩はポテトとか……」


「あまり食べないかな」


「そ、そうですよねぇ、騒がしい場所とか嫌いそうですもんねぇ」


 いかん、お財布的にダメな子が一人いる。いやそれが普通だよ。だって高いもん、ここのコーヒー!


「……槙野さんバイトとかは?」


「ええっと、そのうち始めようかなぁって……」


「おじさんバイト探してたよね」


「へえ?」


 話を振られると思ってなかったのか店長さんから変な声が出た。


「バイト探してるって前に言ってた」


「いや、恭子ちゃん、そんなこと言った記憶は……」


「言ってた。それに槙野さん可愛いから雇ったらアドだよアド、この期を逃すな。名店になるチャンスタイム」


 可愛いと言われてちょっと照れる槙野さん。先輩が折れないタイプだとこの短い付き合いでわかった僕としては、困ってる店長さんの気持ちが何となくわかる。


「はっ! 先輩、店長さんも困ってるみたいですし……私はバイト先なら別に他の場所でも」


「……余ったケーキもらえるかも、あとおじさんの作るサンドイッチは美味。というか料理は全部美味しい」


「是非! よろしくお願いします!」


 正気に戻った槙野さんが一瞬で寝返った。僕には何も言う権利はない。


「はぁ……わかったよ。私の負けだ。学校の許可は貰ってきてね」


「ありがとうございます!」


 ハイタッチして姉妹の様に喜ぶ黒川先輩と槙野さん。ついさっき会ったばかりなのに。ちょっとお疲れのように見える店長さんの背中は年頃の娘に苦労する父親の様な面影を感じる。見たことはないがきっとそう。

 雇用って簡単に決められるものなのか学生の僕にはわからない世界だが、多分きっとそんなに簡単ではない。頑張れ店長。もうちょっとコーヒーの値段が安くなったら通って貢献します。



 ラブコメをきっかけに集まった三人。まるで青春ラブコメの序章みたいじゃないか? 流れでこんな話になってしまったが、今まさに僕はラブコメ主人公のような状況に置かれている! 気がする!

 ……いや待て、冷静になれ光希。槙野さんは多分オタク仲間として、黒川先輩は自分のスキルを磨くための情報として僕のことを見ているに過ぎない。

 たったの二日の中で恋愛感情が湧きますか? いや湧かない。黒川先輩に至っては数時間も経ってないぞ。もっと冷静に現実を見なくてはいけない。僕らは高校生で青春を謳歌する仲間。あくまで仲間だ。ここは現実でラブコメ世界ではない。勘違いで二人を不快にさせるようなことがあってはならない。全員が楽しく過ごせるようにベストを尽くすのが男というもの! そうですよね! 店長さん!


「何で拳握って震えてるの長内くん……」


「こわ……」


 僕はラブコメ主人公にはなれない。そう思ったね。

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