恍惚
夏融
恍惚
婆様は女をこさえろと言った。母様は金をこさえろと言った。埃を被った道徳だ。そんなものがどうしたというのだろう。女も金も空蝉には不相応だ。
僕の家はどっちを向いても同じ姿をしている――男はおしみたいに口をかっちり閉じて、女はブリキのガラクタみたいにぺちゃくちゃ喋る――叩きゃ不快な愉快な音が出るというわけだ。そんなんだから僕もおしで、石のような怠惰をさらけ出している。女――?そんなものは必要ない。金の心配も僕はしない。だから婆様と母様はいつまでも口煩くて、爺様と父様は恍惚としている。
恍惚。目が覚めた僕は恍惚とできずに部屋を見る。一畳。寝るためだけの部屋――一畳あるが半畳ない――女も金もありゃしない――ここで寝ていさえすればいいのだ。布団から四肢と頭だけを蝸牛みたいにつき出した僕は窓の日を浴びる――午後四時――疲れきった日差し――表皮が受容した日光は僕の栄養に置換されない――いっそ緑の畜生に成りさえすれば。僕は邪魔なカーテンを閉めて、狭い暗がりで目も閉じる。瞼の裏を蠢く虫どもは秩序なく僕に覆い被さり、怠ける僕は停止する。哀れなハンバート・ハンバートがニンフェットのみを愛するように、哀れな夏融は怠惰のみを愛するのだ。そうとも、いっそ石にさせてくれ。石の上にも三年と言うじゃないか。何年でも石でいてみせよう。
その気分と裏腹に、僕がカーテンを閉めたのに驚いて、家族が油を差しに来る。布団をひっぺがされた僕の背に母様はぜんまいを挿しては回し、錆び付いた身体はすんでのところでガタピシと駆動する。
せっかく起きたのだから散歩にでも行ってらっしゃいよ。今日は暖かいんだから。そうじゃなければ、仕事でも探してくるといいわ。
背中を押された僕は靴を嵌められて外に出る――うざったい――オツベルの作った靴だ。今度こそやくざでない靴。足を不自由にされては歩けやしまい。玄関をくぐりしな居間を見やる。父。恍惚とした父。役目を終え、安楽椅子に安楽に座っている空蝉だ。僕もああしていられれば。ポケットの底の小銭は役に立たなかった。
日差し――熱――燦爛たる自然の熱。僕は外界のベンチにどっかり腰かけて息も絶え絶えだ。細長くした目で街を見回す。そこらに立つ看板どもは株式会社、有限会社、会社、会社、会社の会社。いったい何が違うのだ。同じ会社のくせして別人の面だ。僕を見ろよ。ひとつの仮面――ひとつの暮らし――ペルソナ――女――金――どんなものをも必要としない。大義名分など怠けの足しにもなりゃしない。
ガタピシ、ガタピシ。駅までよぼよぼ歩いていって、Sの店を目に入れる。Sは僕の同級だった人だ。今は株屋で儲けて、道楽に幾つかの店を経営している。昔は一緒に筆を執ったこともあったっけな――僕は一度通りすぎて、十字路ひとつを渡ってから息を整え引き返す。今度こそ入るぞ――僕はようやく入店した。思った通り、中は人がわんさかだ。橙のライトの下で皆が豪奢にやっている。だが遠慮は要らない。僕は店長の知り合いだもの――払ったためしなぞ無いがね。怖気を震って人の来ないボックス席へ滑り込んだ僕は皮張りのソファに腰かけ、空席を相手にメニューの一から十まで目玉を滑らせる。二千円、二千百円、二千二百円。終われば十から一までもう一度。二千二百円、二千百円、二千円。何度見ても紙切れより高価な硬貨では手に入らない品ばかり。呆れたよ。君たちも金が欲しいんだ。金、金、汚い亡者が――僕はどうだろう。生きている、健康な亡者。空蝉に執着などありはしなかろう?
どう嗅ぎ付けたか、その僕の向かいにSは遠慮なくやってきた。洒落た茶色のスーツにぴかぴかしたネクタイピン。全く似合っているとは言い難いが、その脂ぎった顔には自信が満ちている。短い足を必死に組む姿は黄色い猿よりか豚に近く、昔のひょろひょろした面影は既に無い。
「よう、融。元気してるか。え?顔を見せんのは三週間と二日ぶりだな。髭くらい剃ってきたらどうだ。いくらお前とてずうっと寝てたわけじゃあるまい。まあいい。とにかく、よく来たな。まあゆっくりしてけよ。俺はぼちぼち余裕もあるんでね」
Sは煙草に火をつけた。こっちにも一本差し出して、咥えた僕にライターをかざす。不健康な煙が桃色の肺を黒々染め上げて、深い息を吐いた。
「今珈琲を持って来させるからな」
程無くして二つのソーサーとカップが運ばれる。金縁の光る食器に砂糖は所望しなかった。資本主義の薫香を温かく立ち上らせるそれを僕は枯れた唇を通してジーン・アーサーさながらに飲み干す。染み渡る金の味だ。Sはスプーンをガチャガチャやり、結局口をつけやしない。
「近頃は、フー(煙を吐く音。プカプカした船)、上手くやってるか。はっ。そのザマ見りゃそんなことはねぇってわかるよ。世辞だ、世辞。社交辞令。俺のおべっかも、フー、様になってんだろ?毎日使ってんで歯に黄色く染み付いちまったぃ。あ、そうだ。お前さんにいいもん見したろう。(内ポケットから携帯を取り出す。指紋認証に二三度手こずり、パスで解除する)フー、ほら、どうだ。(僕に手渡し)最近知り合った女さ。美人に写ってんだろ。そりゃ直に見りゃ多少不細工だかな、まあ可愛らしい奴よ」
その画面に光る女は異星人じみた細腕をぶらつかせ、足は骸骨、骨盤の形がありありとわかり、顔には飛び出しそうな目玉が皿のごとくぎょろついていた。紛れもないSの女。小枝のようだ。僕もガリガリに痩せているが、ちっぽけな分この女はもっと惨めだ。Sと並べば蜘蛛と豚。僕は卒倒寸前に煙を吐いて携帯を返した。
「気に召さないか?」
大分ね。僕は付け加えた。
「お前はわからん奴だよ。融、こいつは世間様が喉から手を出して欲しがるような女だってのに。そんならどんな女がご所望だ?太いのか?でかいのか?巨人から小人まで、この世に女はゴマンといるんだぜ」
女なぞに興味はない。無論金も。僕は呼び鈴を鳴らし、ギャルソンに珈琲をもう一杯言いつけて灰皿に煙草を揉み消す。
「興味ない、ね。大層な虚飾。痩せ我慢だ。痩せっぽちが、痩せ我慢――ハハ、こりゃ傑作だ。愉快痛快」
下品な笑いと共に唾が磨かれた机にぴちゃぴちゃ飛んだ。
「なあ、滅多なこと言うもんじゃねぇ。金と女抜きに生きられる人間がいるもんか。いいか、俺はな、お前が望めばどんな支援もしてやろうと思ってんだ。今もこうしてご馳走してやってるし、必要とあらば女も見繕ってやる。昔のよしみさ。こんなに骨ばっかりはみ出たお前を見るのはいたたまれなくてなぁ。遠慮すんなって。芸術を志した仲間だろ?おい」
もう一本。火をつけるS。肺を燻らせて脳を回す。タービン。誰が――仲間?豚。僕とて侮辱されれば怒る理性くらいは残っている。棘むした心臓を堪えて煙る。あの日の筆――長靴が踏みにじったキャンバス――灰色の夢が過ってゆく。僕の停滞している灰色の夢が。君にゃわかるまい。僕の怠惰。恍惚境。全てに意味が無く、惚けた空蝉は夢だけ見る。
「やっぱり、お前のことはわからん。でも、わかるとも。お前は子供だ。融。子供。浮世を知らねぇ、殻に縮こまった子供だよ。少しは浮世を知るべきだって。なあ」
ぼそぼそした耳障りな鳴き声が右から左へ流れる。反対に、店内の小気味好いジャズ・ミュージックは左から右へ流れてゆく。
「このままじゃいかんよ。融、俺が手を貸しちゃる。戻ってこい。苦しかろうて。寂しかろうて」
僕は強く息を吹いた。煙が僕とSのわずかな隙間に立ち込めて、豚は向こうへ消えてしまう。いっそ夢ならば。現に夢を夢見る僕は夢に現を夢見ている。恍惚とできない僕は僕自身が埃を被った石さながらで、視界がひどく悪くなる。
ぶつりと途切れて目が醒めた。ポケット。ポケットはどこだ。ひい、ふう、みい。小銭――いくらでも構うもんか。じゃらじゃら全部ぶちまけて僕は店を出る。開きっぱなしの瞳孔に眩む夕陽が飛び込んだ。鼠。振り返らない僕は道端に伏してシクシク泣く。吐瀉物とガソリンの匂いが浸透する。誰か慰めてくれ。鉄の車を履いた人間は次から次へ、ごおごおと目前の路を過ぎ去ってゆく。空っぽでないんだ。僕は。理性ばかりが締め上げる。また目に入る冷たいコンクリートとアスファルト。社会が僕の中にも根付いているんだよ。S。社会の道徳。よしてくれ。僕は空っぽなんだ。石なんだよ。ねえ、そうでしょう?ねえ!
恍惚 夏融 @hayung
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