第4話 セーターのしわ

  「君は今、何をしてるんだい?」


 彼は聞いた。

 彼女は、母親と一緒に小さな食堂をやっている、と言った。


 「ランチとか、おいしいコーヒーを出したり、オーガニックにこだわったりしているの」 


 「料理が好きだったもんな。とても君らしいよ」


 彼は言った。


 「でも、もう5年になるんだね、あなたと別れて。私もどうしてか最近あなたのことをよく考えてしまうの。どうであれ、あなたは私という本の数ページを占めているのは間違いないことだものね」


 直之は何も言えず、ただ頷いた。直之の方でも、渚紗が自分の一部として、自分の中のどこか深くて柔らかい特別な場所にしっかりと息づいていると感じていたのだ。

 その場所を思い起こすとき、直之はいつも同じ風景を思い描いた。思い描くというより、意識が自分の中に入り込んで、そしてその場所にたどり着くといった感じだった。

 そこは、柔らかい陽光のさす、大きなクスノキの下の小さな優しい木陰。透き通った爽やかな風がなでるように絶え間なく吹いて、柔らかな緑の草を揺らしている。クスノキの下の木漏れ日の中には、壊れやすい殻をまとった卵のような物が、まるで何かから守られるかのように長い草の葉の中に、半分埋まるように置かれているのだった。

 

 停まっていた電車が大きなきしむような音をあげながら、再びゆっくりと動き出した。まるで停止していた時間が再び音を立てて回りだしたかのようだった。



 「ねえ、私たちって何が原因で別れたんだったっけ?」


 渚紗は言った。直之は少しの間考えて、首を振った。


 「私、たぶんあなたにとって、とてもめんどくさい女になってたよね」


 直之はだまって、彼女の細い指ときれいに切りそろえられた指の爪を見つめた。それは彼女の細い指先を、包み込むようにして美しく弧を描いていた。

 電車はまるで、これまでの遅れを取り戻すかのようにスピードを上げはじめていた。窓の外の街の明かりが流れるように過ぎ去っていく。

 直之は言った。


 「あの頃ぼくはよく想像してたんだ。君と長い時間をかけて船に乗って世界中を旅して周るのをね。中国、インド、スエズ運河、エジプト、喜望峰、スペイン、ロシア、アラスカ、アルゼンチン・・・とにかく色んな国をまわるんだ」


 彼女はふうっと息を吐き、頭を下から上にゆっくりと動かした。何か言いたそうだったが、何も言わなかった。


 「思い返してみると」


 彼は、彼女と同じ職場で働いていたときのことを思い出しながら言った。


 「ぼくが作った書類にミスが見つかって、それをぼくら二人で修正しようとしたことがあったよね」


 「ああ、あったわね」


 彼女は言って、そして顔をゆがめた。直之は彼女の肘の内側にできたセーターのひだを見つめた。


 「あの時、私は精神的にものすごく大変な想いをしたわ。そして私はその時のあなたの頑固さがとてもいやだった。私の意見を聞く気がないんだったら相談なんてしなきゃいいのにって」


 「君はまだぼくのことを責めているのかい?」


 彼は言った。彼女は、まさか、と言った。


 「ただ、そんなあなたを好きになろうって思ったけど、できなかっただけ。でもそれが理由かどうかなんて、今となってはもうわからない・・・しょせんそんなものなのよ」


 そう言って彼女は軽く肩をすくめて見せた。

 窓の外の景色から街の明かりが消え、濃紺の闇が広がった。電車が大きな川の上にさしかかり、わずかに速度を落としながら橋の上を走行しはじめた。鉄橋を渡る振動と音がひときわ大きく車内に響いている。

 彼女は、手に持ち続けていたスマートフォンをバッグににしまった。

 そして、私、もう行くね、と言った。


 「久しぶりにあなたと話せてよかった」


 彼女は、立ち上がって、彼に向って軽く左手を振った。


 「結婚したんだね?」


 彼は立ち去ろうとする彼女に向って言った。

 ほんの一瞬の沈黙があった。そして、そう、と短く言って彼女はうなずいた。それから、じゃあね、ともう一度手を振って、彼女はゆっくりと隣の車両へと移って行った。

 遠ざかっていくセーターの背中のしわでさえ彼女にふさわしいように思えた。

 車両の連結部分を過ぎ、彼女の後ろから静かに扉がスライドして閉まると、彼女の姿は見えなくなった。

 

 電車は、橋の上で再び停車した。そしてお詫びのアナウンスがまた繰り返された。

 後ろの窓を振り返ると、濃紺の空に黄色がかったいびつな形の月が浮かんでいた。

 それはまるで、黒猫が闇の中でうずくまりながら、片目だけ見開いているかのような、そんな月だった。

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モスグリーンのセーター こふい @Cofui

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