博士の自由帳

加賀倉 創作【FÅ¢(¡<i)TΛ§】

物語は自分で紡ぐもの。線路は自分で敷くもの。

 【読破の目安:刹那】




 ある時、我の書斎の扉を叩く音があった。


 扉は我の許可無しに開く。


 すぐに、ちっぽけな、かろうじて二足歩行の、顔が覗くだろう。


 覗いた。


 人間の神学者だった。


 神学者、だとわかるのは、擬似的に、ではあるものの、何度も会っているからだ。


 神学者は、いつも〈∞〉のような輪郭をしたものを、首からぶら下げてやってくる。目元を覆って、守るためのものらしい。それに氷の雲の上には、決まって翼の生えた鉄屑がとまっている。


 神学者の蒼白した顔は、血にまみれている。


 先は長くないだろう。


 神学者は、汚い身なりで我に擦り寄り、こんなことを懇願した。


「ああ! 歴史の神ネッゾよ、どうか……どうかその力で、私たち人間を救いたまえ! この……この人間の歴史は、私たちには、残酷すぎるのです!!!」


 神学者は、両目と鼻孔から、水のようなものを流している。


 その水のようなものが垂ると、我の真白な衣を汚すだろう。


 神学者は、懐から、文字一つない紙の冊子を取り出し、我に押し付けるようにして、渡した。


「その手で、正しき、穏やかなる歴史を──」


 神学者は、我の足元で小さく力尽きる。




 いつもこうだ。

 我はいつもそうなることを知っている。いつも、などというが、何度も経験しているようで、何度も経験はしていない。もっとも、我々神々に、過去・現在・未来といったものは存在しない。人間が〈時〉と総称するそれらを、全て、同時に、俯瞰している。そして我はこの手にいつも、鳥という動物の一部──羽──でできた筆記具を持っていた。人間は、鳥を自由の象徴としている。我は、時たま外へ出て、雲の上にやってきた鳥を捕まえてはその羽をもぐ、つまりは自由の象徴から自由を奪うという遊びに興じていた。立派な羽の、もと鳥の体との繋ぎ目だった部分からは、無尽蔵の血のインクが滲み出る。よって、我は、いくらでも書くことができるだろう。書くことができる、というのは、能力として、だけではなく、我の意思をもって、でもある。それはなぜか。我は、我が幾重にも改めてきた歴史を、何の不満もなく、受け入れてくれる人間という存在が、


 好きだったのだ


 歴史の神である我を、作り手とするならば

 歴史を被験する人間は、語り手であり聞き手であり読み手


 すなわち、神学者のいう、〈正しき、穏やかなる歴史〉を作ることは、我にとって造作もないことだった。




 我は、すぐに〈歴史の改竄〉に取りかかった。


 無限の思考の中で、歴史という名の朧げな広がり──点──を創造する。


 それを、人間用に、〈線〉、〈面〉、〈体〉と組み替えていき、認知可能にしてやる。


 いつも、ここまではいい。


 問題は、ここから。


 まだ、足りないものがある。


 〈時間〉だ。


 冊子には、頁が、二千。


 どうせならその二千の中に、可能な限りを詰め、退屈のないよう、豊かにしてやりたい。


 しかしながら、人間はやはり、歴史の流れ──時──に囚われた生き物である。


 結局は、頁を、どのような順序であれ、何らかの順番で、少しずつ経験してゆくしかない。


 よって、出来事に対し年月日──時系列──を与えなければ、人間はそれを歴史として認知できない。


 人間に、我々神々の同時的認識様式を強いることは叶わない。


 愚直に、過去・現在・未来の記録を作るしかない。


 今回は、〈正しき、穏やかなる歴史〉か。


 神学者の、歴史に対する要求には、いつも僅かに差異がある。

 

 前回は、〈正統なる平穏の歴史〉だった。


 それはだめだった。


 それだと人が滅ぶ未来が確定している。


 平穏など、一時的なそれを除いては、ありえない。


 必ず平穏を乱す何かが起きる。


 だから、穏やかなる、と、譲歩したのだろう。


 しかしそれもだめだろう。


 ではどうすれば……


 どうすれば……




 我は神学者の蒼白の顔を思い出す。

 それはいつもこの手にもつ羽の筆記具の先の鮮紅と同じ色でまみれている。

 我はその顔を拭ってやろうと考えたことがあったか。

 なかった。

 ならば、拭ってやろうではないか。




 我は、気づけば扉の前の神学者の亡骸の元に駆けていた。


 ドクター・ゲオルギウス・ルキウス。


 神学者の胸元に入っていた札のようなものが、そう自己紹介している。


 顔が、血で黒い。


 我は、その黒を、さっきまで羽の筆記具を持っていた手で、拭う。


 血の気のない、もはや真白な顔が顕になる。


 当然だ。

 この小さな体の中にあった血を、たった今拭い捨てたのだから、顔は白くて当然だ。


 薄橙の肌から血の赤を抜けば白になる。

 我々神々が、そうであると決めた規範の一つに過ぎない、のだが。




 待て。

 そうか。

 そうだ!

 白だ!





 我は、気づけば扉の前に、偉大なる神学者ルキウス博士を安置していた。


 文字一つない紙の冊子を、取りに戻るのだ。


 そしてそれには、もう、飾りは必要ない。


 少なくとも、我々神々による飾りは、必要ない。


 白紙の冊子は、人間自らの手で、歴史書に変わるのだ。

 

 神が、手を加えてはならない。


 あれは、〈〈自由帳〉〉だ。


 我はやっと、そのことに気づいた。




习 彼らの自由意志に任せよう 习




 我は、無数の本が収められた書架に、わずかばかりの間隙を見つけ、そこに、これっぽっちの汚れもない、真白な、〈〈自由帳〉〉を差し込んだ。


 我は再び扉へ向かい、小さなルキウス博士を抱えると、書斎を出て、氷の雲から飛び降りた。


 するとたちまち、我の背から翼が生えた。


 抱えていたルキウス博士は、消えていた。


 我の両翼となったのだ。


 空気の流れに身を任せ、滑空した。


 羽ばたきは、いらない。


 我は、人間が、我の作った歴史の奴隷であると考えていた。


 しかしそれは違った。


 我こそが歴史改竄と無限の時の狭間の奴隷なのであり、我こそが、その途方もなく空虚な作業から、偉大なる神学者のもたらしたたった一つの白紙の冊子によって、解放されたのだ。


 空から地上を見ると、人間が、各人の画布を、自分色に染め上げていくのがわかる。


 子供らにも、一人一冊の白紙の〈〈自由帳〉〉が与えられ、その中の無数の白紙の頁は、彼らの描きたいもので、次々といっぱいになっていく。


 当然、自由を得た大人によって、白紙は供給され続け、その速さが子供の描画の速さを下回れば、子供は大地に記し始める。


 紙の上の黒鉛の字は字消しで消してもいい。


 地面の落書きは雨が白紙に戻してくれる。


 毎日が、白紙の始まりでいい。


 ここにくるまでに、ずいぶんと多くの試行を重ねた。


 ドクター・ゲオルギウス・ルキウスよ、我はそなたを何度も殺してしまった。


 あの偉大なる神学者が何度も我に届けた白紙の冊子。


 我は、それが我によって手を加えられて当然のものであると、錯覚していた。

 

 なんと愚か者で、自惚れ者であろうか。

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博士の自由帳 加賀倉 創作【FÅ¢(¡<i)TΛ§】 @sousakukagakura

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