彼女みたいなシーシャの煙
カミオ コージ
彼女みたいなシーシャの煙
アオイに連れられて、シーシャを吸った。人生で初めての経験だった。
最近、ずっと疲れていた。仕事はそれなりにこなしていたし、特に大きな問題があるわけでもない。なのに、頭の奥に重いものが沈んでいる感覚が抜けなかった。考えたくないことまで考えてしまう。眠れない夜が続いていた。
その日の午前中、歯医者で小さな虫歯を治した。治療はすぐに終わったが、妙な痛みがずっと残っている。これほど陰湿な痛みはない。
☆
夜、ひと月ぶりにアオイと会った。
「お好み焼きにしよう。」
粉ものが好き——そう言っていたアオイの言葉を覚えていたからだ。
鉄板の上で生地がじゅっと音を立て、甘いソースの香りがふわりと漂う。
アオイは小さなヘラでお好み焼きを切り分け、熱そうに息を吹きかけながらひと口ずつ食べている。
「今日、ランチタイムめちゃくちゃ混んでさ、気づいたら14時半だったんだよね」
アオイはぽつりと言った。
「14時半?」
「うん。朝から立ちっぱなしで、休憩入れるタイミング完全に見失った」
「やばくない?」
「うん。でもさ、14時半まで頑張ったら、もう15時まで頑張れそうな気がしちゃって」
「それ、限界突破のやつじゃん」
「でしょ? だから、15時まで頑張ってみたの。でも、15時までやったら、なんか16時まではいけそうな気がしてきて」
「いや、休めよ」
「結局、16時半まで働いて、ようやく一息ついたんだけど……店長に”アオイさん、ちゃんと休憩取れました?“って言われて……え、誰のせい?」
アオイはそう言って、ビールをぐいっと飲んだ。
それから、柔らかく微笑む。
「でもね、まだ若いからわからないんだろうなって思うの。自分が店を動かしているって信じてるうちは、みんな一生懸命だから」
「……腹立たしくならないの?」
「ならないよ。だって、いつか気づくから」
アオイの声はどこまでも優しかった。
まるですべてを包み込むようだった。
鉄板の熱でわずかに頬を赤らめながら、お好み焼きをハフハフと頬張るアオイ。
文句を言いながらも、その口調には棘がない。
ただ、すべてを静かに受け入れているようだった。
食事を終え、もう一軒どこかへ行こうという話になった。
けれど、僕の頭に浮かぶのは、バーかスナックくらい。
「シーシャ、行こうか?」
アオイがそう言って、椅子からすっと立ち上がる。
ジーンズに白のパーカー。シンプルな服装なのに、どこか目を引いた。
無造作にまとめた髪の隙間から覗く横顔には、不思議な凛々しさがある。
それは、曖昧なものをすべて削ぎ落とした先に残る静かな強さのようなものだった。
僕が返事をする前に、彼女はもう歩き出していた。
☆
アオイとは以前、地域の集まりで何度か顔を合わせたことがあった。ざっくばらんに話はしていたが特別親しかったわけではない。でも、そんな関係も時間とともに薄れていき、気づけば10年が経っていた。
そして、10年ぶりに偶然、街で再会した。
六本木の交差点、ある会合があった帰りだった。二次会に誘われたが、その日はなぜか行く気になれなかった。いろいろな問題を抱えていて頭の中を整理する必要があった。
交差点に差しかかる直前、電話が鳴った。立て続けに3本も。仕方なく歩道の端に立ち、しばらく話し込む。整理どころではなかった。
ようやく電話を切り、交差点を渡ろうとした瞬間——彼女とすれ違った。
長い髪、濃い眉、黒い瞳。美しいのは昔と変わらない。
「カミちゃん!」
アオイが立ち止まり、僕の名を呼ぶ。
雑踏の中で、彼女はゆっくりと微笑んだ。
「時々、こうして夜のパトロールに出てるのよ」
「パトロール?」
「ただの気晴らしよ。どこの店に行くとか何かを探してるわけじゃないの。ただ、夜の空気を吸いたくなるの」
そう言って、彼女はふっと肩をすくめた。
少し言葉を交わし、「せっかくだし、近くのバーでも行こうか」という流れになった。
店に入り、静かなカウンター席に腰を下ろす。
僕たちは、この10年間に起きたことを語り合った。
仕事のこと。失敗したこと。何となく過ぎていった時間のこと。
僕がひと通り話し終えると、アオイはふっと息をつき、静かに言った。
「二年前に離婚したの」
アオイはグラスの中の氷を静かに揺らす。
「子どもたちは私が育ててるのよ。」
その声に、弱音はなかった。
「仕事は?」
「してるといえば、してる。飲食店でアルバイト。実家の手伝いもあるし。息抜きはせいぜい夜のパトロールとシーシャバーくらいかなぁ」
そう言って彼女は微笑んだ。
シーシャバー。その名前は聞いたことがあったが、自分とは無縁のものだと感じていた。
「ふうん」
それ以上は何も言わず、グラスを傾ける。
その日から、僕たちは時々食事をするようになった。
アオイと話していると、心の奥に沈んでいたものがふわりとほどけていく。
彼女は決して押しつけがましくない。僕の言葉をすくい上げ、指先で転がすように返してくる。その柔らかなやりとりが、心地よかった。
☆
お好み焼き屋からタクシーに乗り、アオイのよく行くシーシャバーに向かう。気づけば僕たちは、紫がかった照明の下、煙が揺れるシーシャバーの扉を開けていた。客は誰もいなかった。
アオイは奥のソファに腰を下ろし、ゆっくりとメニューを開いた。
「サボテンとグレープフルーツ」
「サボテン?」
「うん、ちょっと青くて、さっぱりしてるやつ」
運ばれてきたシーシャは、まるで骨董品のような佇まいだった。
無駄に豪奢で、様式美すら感じる装飾。どうしてこんなに大きいのか、不思議になる。
透明なガラスの水パイプの中で、水がゆっくりと揺れる。
上部に置かれた炭が、小さな容器の中で静かに燃え、灯台の淡い光のようにゆらめいていた。
暗がりの中、その光は頼りなくも温かく、吸い込むたびにかすかに明滅する。
マウスピースをひとつずつ渡され、僕は青、彼女は赤を選んだ。
一本の長いホースを交互に吸いながら、僕たちは目を合わせる。
彼女が吸い込んだ煙が、僕へと流れてくるような気がした。
それは単なる煙ではなく、彼女の心の奥にあるもの――言葉にならない思いの断片。
僕はそれを静かに吸い込み、吐き出す。
吐き出した煙の向こうで、僕たちの心がそっと触れ合っているようだった。
ふと、あの歯の痛みが完全に消滅していることに気がついた。
アオイに会うまでの間、あの鈍い不快感がずっと残っていたのに、彼女と話しているうちに、いつの間にか消えていた。まるで、煙と一緒にどこかへ溶けてしまったみたいに。
「さっきまで歯が痛かったんだ。でも、今は全然感じない」
そう言うと、アオイはくすっと笑った。
「私も歯の痛みは大嫌い。あれは最悪」
ゆっくりと煙を吐きながら、彼女は続ける。
「歯の痛みにくらべれば、出産の痛みなんて――エクスタシーよ」
僕は眉を寄せる。
「そう。出産は確かに痛い。でも、極限まで痛みを感じると、その先に快楽があるのよ」
煙の向こうで、アオイの瞳が静かに揺れていた。
「でも、それは単なる快楽とは違う。命を生むための、極限の状態でしか感じられないもの」
痛みが、ただの苦しみではなくなる瞬間。
僕が感じているこの疲れや倦怠は、どこにも行き場のないもののように感じた。アオイのいう痛みのエクスタシーとは別次元のものだ。
ふと、午前中の歯の痛みを思い出す。
そして今、シーシャの煙がゆっくりと漂う、このたおやかな時間を妙に愛おしく感じる。
きっと、それはアオイが隣にいるからだ。
彼女の口からくゆらせる煙が、僕の心の痛みや疲れも、静かに包み込んでくれるようだった。
☆
シーシャバーを出ると、夜の空気はひんやりとしていた。
街の光がぼんやりと滲み、人々の話し声が遠くで溶け合っている。
通りを流れるタクシーを一台、手を上げて止めた。
「今日はありがとう。シーシャ先生!」
アオイは一瞬ためらったが、小さく笑ってタクシーに乗り込んだ。
「先生だなんて。またシーシャ巡りしましょう」
窓越しに手を振る彼女を見送る。
車が走り出し、赤いテールランプが夜の闇に消えていった。
僕はしばらくその光を見送っていた。
シーシャは16世紀のペルシャで生まれ、やがてオスマン帝国のカフェ文化として広まった。
人々は煙をくゆらせながら、静かに語らい、時には何も話さず、ただそこにいる時間を味わったという。
アオイと過ごす時間も、それに似ていた。そばにいると、心が落ち着く。でも、決して手の中にはとどまらない。
僕は歩き出した。
アオイのことが好きだ。
そう心が認めると、その想いは煙のようにかき消え、触れようとするほど遠ざかっていく。
胸の奥には、微かな温もりと痛みが混じり合い、それもまた、やがて煙のように消えていった。
彼女みたいなシーシャの煙 カミオ コージ @kozy_kam
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