第34話 あなたへ




 不思議な感覚だった。


 学校の屋上に、俺はいた。


 その柵に手を掛けて、世界を見渡した。

 屋上から見える景色は、淡くぼやけている。

 空の色も、怖いくらいに真っ白だ。


 不気味に思えたが、俺のすることは変わらない。


 さっさと、この柵を飛び越えて死のう。


 手に力を込めた瞬間、背中から声がかかった。



「駿矢くん」



 何度も聞いてきた優しい声色。

 その声を俺が間違えるはずがない。


 後ろを振り向いて、俺は目を見開いた。


 そこには、ユリ姉がいた。


 長く艷やかな黒髪も、包み込むような微笑みも、頭の先から爪先まで、生きていたときと変わらない姿でそこにいた。


 そうか、夢か。


 ここは現実じゃない。

 俺にとって都合のいい夢だと気付いた。


 だけど、夢でもいいよ。


 ユリ姉にもう一度会えた。


 これ以上に望んでいることなんてない。


 震える足で、一歩ずつユリ姉に近づく。



「ずっと、好きだったんだ」



 一番最初に、そう言った。


 他に何を言えばいいか、分からなかった。



「ごめん。気付けなくて、ごめんね」



 笑顔が見たかったのに、ユリ姉は悲しそうな顔をした。



「駿矢くんがこんなにも私のことを思ってくれてたことに、気付けなかったの」



 ユリ姉が、自虐するように言い足した。



「私は弱い人間で、自分のことしか見れなかったから……」



 そんな言葉を、俺は聞きたくなかった。


 それに、謝るべきなのは……。



「違う、ユリ姉。謝らなきゃいけないのは俺の方だ」



 ずっと、後悔していた。


 ユリ姉が橋から落ちそうになったあの夜、公園のベンチでかけた否定の言葉。



「ユリ姉の気持ちをわからずに、あんなこと言って、ごめん」



 俺の謝罪に、ユリ姉は首を横に振った。



「ううん、仕方ないよ」



 俺はすぐに反論する。



「仕方なくないだろ」


「……仕方ないよ。だって、私も一緒だから」



 ユリ姉の言いたいことが、よく分からなかった。

 理解できない俺に、ユリ姉が確かめるように問いかける。



「この質問、自意識過剰だと思うんだけど……。駿矢くんは、私が死んだから死のうとしてる?」


「そんなの『はい』って答えたら、ユリ姉のせいで死ぬって言ってるようなもんだろ」


「大丈夫。正直に答えて」



 なにが大丈夫なのか、分からなかった。


 それでもユリ姉の頼みを俺は断れない。



「……ユリ姉がいないなら、生きてても意味がないと思ったんだよ」



 こんなこと、言わせるなよ。


 俺の返答にユリ姉はゆっくりと頷いた。



「やっぱり駿矢くんは悪くないよ」


「悪いよ」


「じゃあ二人で一緒に悪になろう」



 いつも、そうだった。

 ユリ姉は、俺を独りにはしない。



「だって私もね、否定してたと思うから」



 ユリ姉の顔色には、まだ申し訳なさが残っていた。



「駿矢くんが死のうとしている理由を、もし他の人が聞いたら『生きなよ。この先もっと素敵な人に出会えるから』って言われると思う。少なくとも、私はそう。駿矢くんの気持ちを否定してたと思う」



 諦めるような表情に変わり、ユリ姉が続ける。



「そういうことなんだよ。結局、私たちって本当にわかりあえたりしない。学校をサボる理由も、何かを努力する理由も、人を嫌いになる理由も、人を好きになる理由も、死のうとする理由も。本人にとってはすごく大切な気持ちなのに、他の人からすれば些細でくだらないことだったりする」



 腑に、落ちないこともなかった。


 俺はあの夜、ユリ姉の悩みを『そんなこと』と言ってしまった。


 あまりに愚かだ。

 橋から落ちかけたところを見てなお、本心では、まさかそんなことで本当に死ぬわけがないと、俺は思っていた。


 同時に、他人からすれば俺もそうらしい。


 他人の思う『そんなこと』を理由に、俺は死のうとしている。


 確かに、その通りだった。

 ユリ姉の言うことを、素直に正しいと思った。


 そして、そんな理解されない感情が行き交う世の中で、共感されない意思を持って生き続けるのは、やっぱり苦しい。



「しかも気持ちへの寄り添い方は、人によって正解と不正解がバラバラ。話を聞いて欲しい人、そっとしておいて欲しい人、言葉を交わさずただ隣りにいて欲しい人、様々だから」


「……そうだな」


「もし肯定するにしても、使う言葉を慎重に選ばないと齟齬が生まれちゃう」


「……人間って面倒くさいな」


「面倒くさいね」



 人と一緒に生きることが、俺には向いていない。


 一人ひとりが持つ、一つひとつの感情に、いちいち考えを巡らせることができない。


 そういう奴だと開き直って、俺は生きてきた。



 明るい話題に切り替えようと、ユリ姉が「そういえば」と切り出す。



「春人くんにね、私の気持ちを理解できるか聞いてみたの。そしたら、すごく良いこと言ってた。『すべて理解はできないけど、理解できるように努力する』って答えてくれた」



 久しぶりに、ユリ姉の表情に明るさが戻った。



「私、今ね、救われてるの。駿矢くんと春人くんが、私の気持ちを理解しようと、そのためだけに行動してくれた。本当に嬉しくて、私は二人に救われたの。これは、ちゃんとした事実だから」


「……相手が死んだあとに努力したって、意味ないだろ」


「そんなことないよ。意味はある。空っぽだった私が、心から嬉しいって思えたんだから」



 いや、だから、そう思えたのも死んでからじゃ手遅れだろ。


 無茶苦茶に思えたけど、そういえば夢だった。


 夢なら、なんだって仕方ないか。


 俺はユリ姉の言うことに納得するしかない。



 ……そうか。悔しいけど、夢なのか。



 例えば、こんな困らせるような願望を伝えても、夢なら許されるのかもしれない。



「俺もさ、そっちに行きたいよ」


「……先に逝った私が言うのは身勝手だけど、それは、すごく悲しいなぁ」



 思った通り、困った顔をさせてしまった。



「できることなら、ユリ姉を悲しませたくはないよ。でも、俺はもう、何のために生きればいいのかわからない」



 一度死を決意した人間が、何を以てして生きればいいのだろう。



「どう生きていけばいいのか、分からない」


「大丈夫。駿矢くんなら大丈夫」


「何がだよ。言っておくけど『いつか良いことがある』なんて言うなよ。いつかじゃない。今を救ってくれる言葉だけしか、俺は受け取らない」



 ユリ姉の言う『大丈夫』に、俺は弱い。


 だから、つい無理なことを言ってしまった。


 今を救うなんて、ユリ姉には無理なのに。


 そんな意地の悪い俺の右手を、ユリ姉がそっと握る。



「少しだけ、話をさせて」



 ユリ姉は死んでいるはずなのに、握られた手には確かな温もりがあった。



「どうか、お願い。私の反省を、駿矢くんに活かしてほしい」



 まっすぐに、俺たちは見つめ合う。



「死ぬのはね、知ってからでも遅くないと思う」



 ……知るって、何を?



「私とか駿矢くんは、いや、もしかしたら春人くんも。人との接し方があまり得意じゃなかったから、自分に向けられるプラスの感情に鈍感だったんだと思う。……マイナスの感情には、割と気付けちゃうのにね」



 優しくて、温かい視線を向けられる。

 握られた手も、この視線も、俺には離すことができない。



「私が駿矢くんと春人くんの気持ちを見ることができなかったように、駿矢くんにもきっと見えていないものがあると思うの」


「……俺はずっと、ユリ姉を見てきたよ」


「うん。駿矢くんが私を見てくれていたことは嬉しいよ。でも、他の人はちゃんと見てきた?」



 首を、少し横に振る。


 見てきたはずがない。

 俺には、ユリ姉しかいなかったから。



「ちゃんといるはずだよ。1年365日、毎日駿矢くんのことを大切に思ってるとかじゃなくても、その一時いっとき一時いっときで駿矢くんの味方になってくれた人がいるから」


「……いたところで、別に」


「まずは、その人たちと向き合ってからでも、遅くはないと思うんだ」



 ユリ姉は俺の言葉を遮り、スルーした。


 最初、ユリ姉はこれでもまだ俺のことをわかってくれないのか、と残念に思った。


 俺にはユリ姉以外の人がどうでもいい。

 いい加減わかってくれ、という不満が募る。


 しかしユリ姉は、実のところ、それを理解していた。


 理解した上で、俺に伝えていた。



「駿矢くんのことをちゃんと見てくれる人、優しくしてくれる人、好きでいてくれる人。その人たちに、ちょっとでいいの。ちょっと関心を向けて、ちょっと会話を増やしてみて、ちょっと弱音を吐いたりしてみるの」


「……いるかも分からないし、そんなことしたって何にもならないだろ」


「ううん、なるよ。本音で話し合う内に、やがて相手を知ることができるから。自分とは違う考え方を持つ人ではあるけれど、それを立派なことだと思えるようになる」



 ユリ姉が、控え目に笑ってみせた。



「死んでしまう前に、駿矢くんには心から人と向き合ってほしいな」


「……それは、ユリ姉の後悔か?」


「うん、その通り。とっても大切なことなのに、私にはできなかったから」


「じゃあ俺にも無理だよ。ユリ姉にできなかったことが俺にできるわけない」



 そう完璧になんていきやしない。

 人と人はそう簡単に向き合えたりなんてしない。


 春人とだってそうだ。


 さっき殴りあったことで、初めて本当の意味で春人と向き合えたと感じた。


 同じ血筋の人間と向き合えるようになるまで、出会ってから十年以上もかかった。


 俺には、無理だ。



「駿矢くんなら大丈夫。できるよ」


「さっきからずるいんだよ、それ」



 やっぱり、俺は『大丈夫』に弱い。


 ユリ姉の『大丈夫』は、魔法の言葉だ。

 本当に大丈夫だと、心から思えてしまう。


 しかし、だからこそ困る。


 そんな簡単に魔法を使うのはずるいと思った。

 

 拗ねた俺に、ユリ姉は察したのだろう。


 無根拠な魔法のワードじゃなく、ちゃんとした言葉で伝えようとする。



「知ってほしい。私が知れなかったこと」



 ユリ姉の祈りが、心の真ん中に届いた気がした。



「私のやり方だったら、上辺だけの関係しか築けなくて、絆を育むことができなかった。私はみんなに弱さを見せなかったから、きっとみんなも本当の弱さを私に打ち明けることはしなかったんだと思う」



 …………。



「今の駿矢くんは、人との繋がりを失う悲しみを知ってる。互いの気持ちを理解しあえない苦しさも知ってる。そんな駿矢くんだからこそ、人一倍、人に寄り添って、人と向き合うことができるの」



 …………。



「そうして駿矢くんは、これから多くの人の支えになるんだよ。相手がどうしようもなく辛いときに、救いの言葉を掛けてあげることができるようになって、逆に駿矢くんが苦しいときには、その人は駿矢くんの力になってくれる。そういう心から信頼できる関係を、これから築いていくことができるの」



 もう一度、手を強く握られる。



「だから、そんな優しい駿矢くんが死んじゃうのが、私はすごく悲しい」



 ユリ姉は泣きそうに笑った。


 その顔を見て、俺はたまらない気持ちになった。


 胸の奥が苦しくて、温かくて、いたたまれない。



 ユリ姉は、ただシンプルに……



 俺に前を向いてほしかったのか。



 もう取り返しがつかない『ユリ姉のいた過去』ではなく、可能性に満ち溢れている『ユリ姉のいない未来』に目を向けてほしいと願ってる。

 

 そんなユリ姉の想いに、俺はどう応えればいいのだろう。



 まばゆい光が、ゆっくりと赤く灯りだす。


 ユリ姉が空を見上げる。


 

「それじゃあ、そろそろ時間かな」



 緩やかに、終焉が訪れようとしている。


 ユリ姉の体と空気の境い目が、滲むように曖昧になっていく。



「色々祈っていることはあるけど、やっぱり駿矢くんの生きる人生だから、駿矢くんの答えを大切にして欲しい」



 もう、この瞬間が最後になると悟り、俺は無意識に口を開いて懇願していた。



「あのさ、最後に一つ、聞いてほしいことがあるんだけど……」


「うん。いいよ」


「……やっぱりわかんなかったよ。ユリ姉の考えてたこと」


「うん」


「俺がわからなかったくせに、ユリ姉に『わかってくれ』なんて言うのは間違ってるんだろうけどさ」


「うん」


「お願いだから、ユリ姉が俺にとってどうしようもないほどに大切な存在だったってことを、わかってほしい」



 ユリ姉が俺を静かに抱き寄せる。



「うん、わかったよ。ありがとう」



 そこにある懐かしい匂いに、俺は自然と泣いていた。



「弱音、吐いてもいいんだよな」


「いいよ」



 口を開いたが、なかなか言葉は出なかった。


 感情が喉に詰まって、上手く喋れない。


 力ずくで絞り出した声は、情けないほどに震えていた。



「俺……辛かったよ」



 心の奥底に、長い間埋まっていた紛れもない本心。



「ユリ姉が死んで……ずっと」



 辛かった。

 そして悔しかった。


 本当は、ユリ姉の気持ちをわかる日なんて来るはずがないと知っていた。


 どれだけ理解しようという気持ちがあっても、わかりあうには足らない。


 だけど、どうでもよかった。


 そんなこと、心の底からどうでもよかったと、今更になってようやく気付いた。


 ユリ姉の気持ちがわからずとも、ユリ姉のようになれずとも、あなたが生きてさえいれば、ただそれだけでよかったのに……。


 悔しくて、悔しくてしかたなかった。



「ごめんね」



 すぐ近くで、ユリ姉の声がした。



「こんなにも、思ってくれて、見てくれてたのに、気付けなくてごめん」



 より力強く、抱き締められる。



「ごめんね」


「だから謝るなよ。謝るんじゃなくてさ」


「……うん。ありがとう。私を大切に思ってくれて、本当にありがとう」



 その一言で、十分だった。


 その一言を聞くためだけに、俺はずっと生きてきたのかもしれない。


 安心したせいか、涙が溢れて止まらなかった。



「…………あぁ、かっこ悪ぃな、俺」


「いいんだよ。素直な駿矢くんが一番だから」



 ユリ姉の抱きしめる力には、生命の生きる力が込められていた。


 感じる温かさが俺に大丈夫だと思わせてくれる。


 ほんの少しだけど、充分だ。

 俺は、生きる力をもらった気がした。



「ユリ姉、ありがとう」



 そして遂に、その瞬間が訪れる。


 屋上に降り散る光が、風に吹かれるロウソクの火のように粘りながらも、砂時計の最後の一粒が滑り落ちるようにゆっくりと、夜空に散りゆく花火のように儚く、ただ無情に消え去った。


 そうして深い闇に世界が包まれるまで、俺たちが互いを離すことはなかった。

























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