第26話 心に空いた穴
もうあんな失態を犯す訳にはいかない。
死のうとする人間を前にして、逃げてしまうような過ちを繰り返したくない。
そして『逃げない』だけではなく、相手に掛けるべき正しい言葉が必要だ。
死にたがっている人の気持ちを分からずとも、救いになるような言葉が欲しい。
でも、そんな魔法のような言葉、あるのか?
文化祭はいよいよ明日に迫っている。
クラスメイトたちの緊迫感とは対極的に、昨日も今日も僕は、ぼーっとしながらクラスの作業を手伝っていた。
「春人くん、またなんか上の空って感じだけど、大丈夫?」
やつれた顔をした
「いや、僕のことより自分を心配しろよ。そんな状態で明日明後日もつのか?」
「大丈夫。期待されてるからね」
「それが余計に心配なんだよ」
二日間にわたって開催される文化祭。
クラスのお化け屋敷はシフト制で分担されていて、自身が任された時間以外は自由に文化祭を満喫することができる。
文化祭実行委員を担う梓桜のシフトは他の人よりも少なくはあったが、文化祭全体の開会式を始めとした数々の仕事もこなさなければならない。
「息抜きする時間、あるか?」
「ないと思う。でも、きっと大丈夫だよ」
梓桜が浮かべた笑みは明らかに引きつっていて無理矢理に作られた笑顔だった。
「無理だと思ったら、すぐに呼んでほしい」
「うん。ありがと」
多分だけど、梓桜は僕を呼ばない。
梓桜の性格上、本当に無理なときこそ我慢をしそうな気がする。
今すぐ梓桜を救ってあげられるような魔法の言葉も欲しいな、と思った。
クラスのみんなほど熱心に準備を取り組んできた訳じゃない。
何の緊張もなく、いつも通り眠りについた。
目を閉じる瞬間、ただなんとなく、百合恵さんの夢を見るような気がした。
だから、実際に夢で百合恵さんと会っても動揺はしなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
窓から差し込む夕陽が眩しい。
二人きりの教室で僕と百合恵さんは向かい合うように座っていた。
「今日は、きっと最後だね」
「はい。だから今回こそ、教えてもらいます」
「ごめんね。はぐらかすつもりはなかったんだけど……。うん、分かったよ」
時間はあまりない。
話を聞く覚悟なら、もうできていた。
「じゃあ、言うね」
百合恵さんが照れくさそうに見つめてきた。
そうしていよいよ、僕は知る。
百合恵さんが一体どんな気持ちでいたのか。
「今となっては言い訳でしかないんだけどね。私は、ずっと」
結論からではなく、まず百合恵さんは自身がどういう人間であったかを語り始めた。
向かい合って話を聞く僕は、黙ってそれを聞いていた。
鼓膜が受け取る言葉の一つひとつを、心に刻んだ。
もちろんのことではあるが、これが僕にとって都合の良い夢で、真実かどうかは分からない。
だけど、僕は最後まで本気で話を聞いていた。
百合恵さんは終始、気恥ずかしさをスパイス程度に含んだ苦々しい表情で話をしていた。
なんとなくわかりそうな、わかるようでわからない、百合恵さんが抱えていた感情の話。
夢の世界にある時計の針が正確かは分からないが、百合恵さんが話を始めてから十分が経過した。
「以上、だよ。どうだろ、私の気持ちは理解してもらえそうかな」
「簡単に、わかるなんて言えないですよ」
すべてを一度には理解できない、それが率直な感想だった。
「百合恵さんが抱えてきた大事な感情ですから。僕の友達にちょっと似てるなと思ったりもしましたけど、やっぱりそれを一緒に括ることなんてできません」
「……うん」
「でも、わかったこともあります」
「わかったこと?」
「百合恵さんは何も悪くなかった。僕みたいな奴らが百合恵さんを完璧な人だと勝手に決めつけて、そういう状態にあった百合恵さんの、何の力にもなろうとしなかったのが悪いんです」
「春人くんは何も」
「すみませんでした」
頭を深く下げた。
百合恵さんは顔を上げるよう促したが、僕はそのまま頭の位置を固定させたまま言った。
「もう一つ、僕は百合恵さんにどうしても謝らないといけないことがあります」
百合恵さんが不思議そうに首を傾げる。
「百合恵さんが死んだとき、ぽっかりと心に穴が空いたんです。百合恵さんを思い出す度に、そこが痛み出して、最初はその穴を埋めたいと思っていました」
四月、五月。あの痛みが苦しくて仕方がなかった。
「しばらくして、その痛みと向き合おうと思うようになりました。そして、もし百合恵さんの気持ちを知ったら、もし百合恵さんの死因に納得がいったら、穴が塞がるんじゃないかと思ったんです」
一方で、その穴が塞がらない限り、僕はずっと百合恵さんのことを忘れないで済むんじゃないか、と安心している部分もあったのかもしれない。
しかし、そうはいかなかった。
「結局のところ、僕の心の穴は自然に塞がっていました。何かきっかけがあった訳じゃなく、ただ時間とともに治ってしまったんです」
今さっき、そうであることに気が付いた。
自覚して、僕は自分自身に失望する。
理由もなく人の死を受け入れるのは、冷酷なことだと思った。
「百合恵さんが死んだ直後は百合恵さんのことばかり考えていたのに、今では思い出す機会も少しずつ減ってきています。僕は本当に、自分勝手で薄情な人間だと思います」
こんな風に心の穴が塞がるのなら、いっそ空いた状態のままでよかった。
こんなことなら、ずっと悲しみたかった。
百合恵さんという大切な人の死を忘れずに生きていきたかった。
「勝手に傷付いて、そのくせ勝手に忘れてしまうような人間で、すみませんでした」
いつもいつも、謝ってばかりだ。
自身の過ちに気付くのが遅すぎるから、こうなってしまう。
心底、腹がたった。
自分のことに鈍い自分が恨めしい。
身を震わせる僕の肩に、そっと手が伸びる。
「春人くんは何一つ間違ってないよ。時間と一緒に、感情は風化するものだから」
僕の左肩に触れた百合恵さんの右手は、生きた心地のする温かさがあった。
間違っていないとか、そんな慰めを言われても、と思ったところで
「私はね、嬉しいよ」
と蓋をするように伝えられた。
もしかしたら百合恵さんは、僕以上に僕の感情に聡いのかもしれない。
「春人くんが私の死を悲しんでくれたことも、その悲しみが癒えて、また日常を過ごせるようになったことも、どちらもすごく嬉しいよ」
百合恵さんが僕に自責をやめてほしいのはわかった。
でも、だからって、ズルいだろ。
百合恵さんが喜んでくれたなら良かったと、僕はそう思ってしまうのだから。
百合恵さんが、僕の肩に触れていた手をそっと離す。
「それと、春人くんにお願いがあるの」
「……お願い、ですか?」
「うん。風化には個人差があるから………。まだ、いるんだ。私の死を悲しんでくれる人がいるの」
「……いや僕も、全く悲しくなくなった訳じゃないですよ」
「そっか。ふふっ、ありがとう」
百合恵さんが真正面に僕を見つめる。
「救ってあげてほしい、あの子を」
優しくて、感情のこもった瞳。
もしかしたら、僕の夢に出てくる百合恵さんは、ずっとこのことを頼みたくて出てきてくれたのかもしれない。
「どうしようもない我儘で、ごめんね」
「謝らないで下さい。できるかどうかはさておき、ちゃんと引き受けますから」
我儘だなんて思わない。
せっかく、百合恵さんから託されたのだから。
「百合恵さんの頼みなら僕は…………あれ?」
突然、視界の端が淡く滲み出す。
夢が覚めるまで、もう時間は残されていない。
言い残したことがあるとすれば、やっぱり感謝の言葉だと思った。
「時間がないので、短くなってしまうんですけど」
「……うん」
「百合恵さん、今までありがとうございました」
ずっと、だ。
物心がついたときから、ずっと。
「百合恵さんにずっと、憧れていました」
僕は今、どんな顔でこの言葉を伝えられているだろう。
百合恵さんが無邪気な笑みをにこりと返す。
「私の方こそ、ありがとう。春人くんからそんなことを言われるなんて、すごく救われるよ」
「……それなら、よかったです」
「どうかこれからも、春人くんが前を向いて生きていけますように」
…………おかしいな。
風化したはずなんだけどな。
百合恵さんの笑顔を見るのは、これがきっと最後だ。
そう思った直後、目頭に熱いものがこみ上げる。
こらえようとしたけど、僕は結局、泣いてしまった。
そんな僕の背中を、百合恵さんはただ優しくさすってくれる。
やがて、終わりが来た、と五感で理解した。
教室の窓へ差し込む光が、静かにゆっくりと燃え尽きた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆
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