第2話 栢本百合恵


 


 僕が初めて憧れという感情を抱いた人物は、一つ年上のいとこだった。


 世界で活躍するスポーツ選手とか教科書に載っている歴史上の偉人とか、そういう人たちに対するものよりずっと強い憧れを栢本かやもと百合恵ゆりえに抱いていた。


 百合恵さんは全国に名を馳せるような有名人とかではなくて、一般的な高校生に過ぎない。それでも子どもの頃から接してきた僕には百合恵さんほど完璧に近い存在はいないと思えた。


 全国的に有名でないだけで、地元で百合恵さんを知らない人なんていない。


 優しくて、賢くて、容姿も優れていて、運動神経だっていい。


 小さな頃からずっと、僕と駿矢しゅんやはその姿を目に焼き付けてきた。



 今年の一月一日、それぞれの家から一番近くにある小さな神社に僕たち三人は初詣に来ていた。


 昇ったばかりの太陽が百合恵さんを優しく照らす。そしてその周りを複数の大人が囲っていた。昔から彼女の成長を見守ってきた近所の人たちである。



「着物、とても似合ってるわ。いつの間にかこんな美人さんになっちゃって」

「勉強の方も凄いって聞いたよ。百合恵ちゃんは相変わらず優秀だね」

「大学はどこに行くんだ? 百合恵の頭ならどこでも受かるだろう」



 四方八方から浴びせられる賛美の声に百合恵さんは深くお辞儀をしてから、一つひとつの言葉に丁寧に対応し最後にはお礼を述べていた。


 一方で、ラフな私服を纏った僕と駿矢は、その様子を少し離れた日陰のあるところでじっと眺めていた。


 期待する要素のない僕たちの周りに、一人として群がる大人はいない。


 だけど百合恵さんはそんな僕たち二人にも、決して態度を変えることなく優しい声色で話しかける。



「ごめんね。思ったより話しこんじゃった。お参り済ませちゃったけど、次はどうしよっか」


「僕は帰って寝たいです」


「俺も」



 先に僕、続いて駿矢が一切の遠慮なく返答した。

 表情豊かな百合恵さんは眉毛をハの字にして、困惑した笑みを見せる。



「二人とも連れないなぁ。せめておみくじくらいやっていかない?」


「……ユリ姉がそう言うなら、やるよ」



 駿矢は昔から百合恵さんの意見を全肯定する奴だった。だから結局、多数決で彼女の案が採用されるのは決まりきっていた。


 朝に弱い僕と駿矢の手を引っ張り、百合恵さんはおみくじの売り場へと連れていく。


 こんな僕たちが全員同じ血筋という事実があまりに疑わしい。


 僕と駿矢と百合恵さんは小さい頃からの付き合いだった。みな一人っ子で姉弟ではないが、百合恵さんの父親、僕の母親、駿矢の母親が三兄妹で各々いとこの関係にあった。


 年齢に関しては僕と駿矢が同い年、百合恵さんは僕たちよりも一つ年上である。


 小学校、中学校までは三人とも同じ学校で、高校も全員地元の高校に通ってはいるものの、百合恵さんはここらで最も偏差値の高い北高、僕と駿矢は何もかもが普遍的な西高に通っている。


 百合恵さんは小学生のときから定期的に開かれる全校集会で、体育館の壇上へ上がっては何かしらの賞をもらい、中学では生徒会長を務めてその活躍を僕たちは目の当たりにしてきた。


 高校に入ってからも、親が言うには新聞とかで百合恵さんの名前があがったりしているらしいから、きっと今も変わらず優等生でいるのだろう。


 一方で、僕と駿矢は百合恵さんと比べるまでもなかった。大人たちが僕たちに期待の一声すらないのも十分理解できる。


 僕は平々凡々な学校の帰宅部だし、駿矢に至ってはそもそも学校に来ない。


 それでも物心ついた時から今に至るまで、百合恵さんは変わらない優しさで僕たちに接してくれている。


 今回の初詣も、百合恵さんが企画したことだった。



「私はね、おぉ、大吉だ。……えーっと、今年は大きく一歩を踏み出せる年らしいよ」


「俺は中吉。適当なことばっか書かれてる。人生観が変わるとか」


「僕は小吉です。なんか、本気を出す年らしいです」


「そっか、そっか。……でも、誰も凶とか引かなくてよかったよ。二人が幸せな一年を送れたら、私は嬉しいなぁ」



 そんな年明けの会話を鮮明に思い出せるのに、何故だかそれが、遥か昔のことのように感じる。


 本当に、遠い遠い過去に感じてしまう。


 やっぱり、百合恵さんが亡くなってしまったからだろうか。


 今思い返してみれば、馬鹿げたおみくじの内容だったと思う。


 何一つ、大吉なんかじゃない。

 屋上からの一歩なんて、踏み出さないで欲しかった。


 僕と駿矢が高校二年生になってすぐのこと。

 四月、僕たちはかけがえのない存在を失った。


 


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