第4話 執着(夜中に鳴り出す音楽室のピアノ)

 音楽教師であるI野は困っていた。

 目の前で机に突っ伏して眠る少女。授業中も眠っていた彼女は、放課後になって他の生徒が居なくなってもまだそこで眠っていた。


「岩倉さん。岩倉京子さん」


 仕方なくI野は女子生徒の身体を揺すって起こす。

 むくりと起き上がったその子は、こちらを見ることもなく答える。


「すみません。起きました。授業続けてください」


 言い終わると同時に大きく口を開けて欠伸を一つ。


「もうとっくに終わって皆さん帰ってますよ」


 随分と苛つく態度だが、気の弱いI野はもともと生徒を叱るのが得意ではない。しかも、音楽は所詮必修科目ではないので、そういう意味でもいつも注意程度で済ませていた。

 一方、京子はようやく意識がハッキリとしてきたのか、きょろきょろと辺りを見回す。

 周囲にはI野の言ったとおり既にクラスメイトの姿はなかった。でも、最前列のピアノの所に誰かが居ることに気が付く。


「先生、あの人達は?」


 声を掛けられてI野は、ピアノの方を振り返ることなく答える。


「ピアノの調律師の方よ。この前あのピアノで事故があったでしょう? 音にも影響が出てしまったので、いつもお願いする調律師の方をお呼びしたのよ」


 そう、先日あのピアノで痛ましい事故があった。

 音楽室の掃除を任されていた生徒が、悪ふざけしていてピアノに激突。突上棒が外れて屋根に挟まれてしまったのだ。しかも、運の悪いことに生徒は命まで落としてしまった。


「もう一人は?」


「えっ?」


 I野はピアノの方に視線を戻す。

 調律師以外居る筈がないと思っていたが、少し離れた場所にもう一人、調律師とピアノを熱心に見ている女子生徒が一人立っていた。


「あぁ、あの子はS山さんよ。あなたとは別のクラスね。S山さんはピアノが凄く上手で、コンクールにも何度も入賞しているのよ。普段から練習したいって言って、放課後によくあのピアノを借りに来たりしてね。今日も練習ができるわけじゃないけど、調律の作業を見せて欲しいって」


 S山は、まさに見守っているという言葉がピッタリと当て嵌まるようにピアノを見つめていた。I野としても道具を大事に、特に楽器を大切にしてくれる生徒には自然と愛らしさを感じてしまう。少なくとも、寝てばかりの京子よりは教え甲斐のある生徒だった。

 その京子はというと、ふーんとばかりに気のない返事を返した後、さっさと帰り支度を始めていた。そして、整い次第何も言わずに出口へと向かって行く。本当に可愛げのない。


(とっとと帰りやがれ)


 もちろん口に出す訳じゃないが、心の中でそんなふうに呟きながらI野は京子の後ろ姿を見送った。だから……。


「先生」


 突如京子が振り返った時には、まさか心の中を読まれたのかと思って酷く焦った。


「あの人、目が恐い。凄く嫌な感じがする」


 I野は耳を疑った。京子が一体何を言っているのか、まるで理解できなかったのだ。


「あ、ちょっと岩倉さん!」


 呼び止めようと大声を上げたが時既に遅く……。京子の姿は見えなくなっていた。

 I野はもう一度ピアノに目を向けて、調律師と女子生徒を眺めてみる。

 目が恐い? その感覚はI野には全然わからなかった。

 元々気にくわない生徒の残していった言葉だ。次の瞬間にはそんなことすっかり忘れて、調律が終わるのを近くの椅子に座って待つことにした。


 数日後。

 不幸な事故があったとはいえ、学校に日常が戻ってきた。

 I野も、音楽教師なりの忙しい日々を過ごしていた。

 そんな中、いつの頃からかおかしな噂を耳するようになる。

『深夜、音楽室のピアノが勝手に鳴り出すらしい』

 不幸な事故の後だ。不謹慎な話しだが、学校には付き物の怪談話だろうとI野は思っていた。

 実際、その噂はひと月もしないうちに下火になる。具合的なものが何もなかったからだろう。今時、子供たちの話題は日々変化して尽きるものがない。

 やはり子供の作り話しだったと結論付けた、さらに数日後のことだった。

 いつも通りの朝。

 いつも通り起床し、朝食を食べ、いつも通りに学校へと通勤する。

 I野は一番というわけではないが、教員の中ではかなり早くに学校に来る方だ。特に用事があるわけじゃない、習慣というやつだ。

 そして、職員室に荷物を置いた後はとりあえず音楽室に向かう。これも、何か特別にやることがあるわけじゃない。ただ、何となく自分の主たる仕事場を誰よりも早く見ておきたいからだった。

 この日も、そんな普段と変わらない朝を過ごそうとしていた。

 違ったのは、音楽室の空気だった。

 扉を開けた瞬間、粘り着くような空気と共に嫌な臭いが鼻をつく。

 何これ? そう思った時、真っ先に視線を向けたのは痛ましい事故の現場だった。そして、今回も……。

 ピアノの下にできた赤黒い水たまり。

 ピアノの上に横たわる人影。

 妙に違和感のある人影。

 こちらからは背中が見える。そこから繋がる腰や足も見えているが、肝心の首から上がここからだと見えない。

 あの位置で首が見えないとなると、余程異常な角度で曲がっているとしか思えない。

 思い出されるのはひと月以上前の痛ましい事故。

 まさか同じ事が?

 一瞬そう思うが、よく見ればちゃんと足下に首らしきものが置いてあることに気が付いた。

 目的のものが見つかって、ほっと息を漏らす。


 足下に、首が。

 足下に?

 首が。首が。首が。首が。首が。首が。首が。首が。首が。首が。首が。

 首、首、首、首、首、首、首、首、首、首、首、首、首、首、首、首、首、首、首、首……。


 必死に叫んだ――と思う。本当に声になっていたのかどうかは分からない。

 気が付けば、I野は保健室のベッドで横になっていた。

 I野が目を覚ましたことに気が付いた保険医の先生が、近付いて来て横にある椅子に腰掛ける。

 彼女は、I野の状態を確認したうえでぽつりぽつりと幾つかの事を話してくれた。


「第一発見者なので、おそらく後で警察に呼ばれてもっと詳しい話を聞けるし、聞かれると思うけど」


 そんな前置きの後で、殺人事件があったこと。

 犯人はまだ不明で、学校関係者なのか、それ以外なのかも分かっていないこと。

 被害者は二年の男子生徒で、ピアノの怪談話を調査しに数名で昨日の夜学校にやって来たこと。

 彼らは、深夜に鳴り響くピアノの音を確かに聞いたと証言していること。

 しかし、音楽室に近付いたところでピタリと音は止み、代わりに悲鳴のような引きつった笑い声を聞いて、全員で走って逃げ出したこと。

 学校を出たところで、被害者だけが居なくなっていたこと。

 多分先に帰ったのだろうと判断し、他の生徒も帰っていったこと。

 それらを、I野にショックを与えないよう配慮してゆっくりと話してくれた。

 I野はと言うと、そんな気遣いなど不要なくらいに現実味のない状態でそれらの話を聞いていた。

 まるで、映画やドラマを見ているような……。

 ちゃんと話を聞いているのだけど、現実ではない事として頭のどこかで認識している感じ。今回の場合は、現実であって欲しくないと言い聞かせているだけに過ぎないけれど。


「失礼します」


 その時、微かな声と共に一人の女子生徒が保健室へと入ってきた。


「あ、S山さん。どうしたの?」


 保険医がその女子生徒に声を掛ける。

 しかし、返事をすることなくS山は一直線にI野の所へやってくると、ベッドの脇に立って言った。


「先生。練習ができないんです」


 何をこんな大事の時にと、立ち上がろうとする保険医。しかし、それをI野が腕を伸ばして制する。

 確かに、状況からすれば保険医の判断の方が正しいだろう。でも、I野はその日常に縋り付きたかった。生首が置かれている光景よりも、一生懸命な生徒が練習できない事を訴えてくるのを認めたかった。


「わかったわ。警察の人から許可が下り次第、また修理するわ」


「音もおかしいんです。また調律しないとダメなんです」


「わかっているわ。いつもの調律師の人にも連絡しておくから。申し訳ないけど、S山さんは少しの間だけ我慢してくれる?」


 S山はそれに無言でコクリと頷くと、そのまま踵を返して保健室を出て行った。


「ピアノの天才少女って噂だけど、何もこんな時にって思うけどね」


 少ししてから、保険医がそんな感想を漏らす。

 I野はそれに小さく頷く。


「仕方ないわよ、次のコンクールも目の前だし。それに、彼女は本当にあのピアノが好きだから、心配でどうしようもないのだと思う」


 むしろ、ピアノをあんなふうにした犯人をS山が恨んでいないかの方が、彼女は心配だった。

 その事をS山に伝えておこうと考えてベッドから上体を起こそうとするが、途端に目眩を覚えてI野は再び横たわってしまう。


「先生、無理は禁物ですよ。まだ少し休んでいた方がいいわ」


 保険医に言われ、I野は大人しくそれに従うことにした。


「あ、そうそう。私は用があるのでもう少ししたら帰っちゃうけど、最後になるようだったら戸締まりだけお願いできるかな?」


 I野の意識が遠退く中、保険医がそんな言葉を言ってくる。

 それに何か答えたつもりではあったけれど、保険医に届いたかはわからないまま、I野は再び眠りについた。


 次に目を覚ました時、周囲は完全に闇に包まれていた。

 時刻は午後十一時を回っている。

 少しのつもりで寝ていた筈なのに、かなりの時間が過ぎていた。

 しかし、そのおかげか気分は幾分回復している。

 I野は、ゆっくりと身体を起こすとベッドに腰かけた。

 空腹を感じる。それもそのはずだ。何せ朝食以来何も食べていない。


「お腹すいたな」


 作る気は起きそうにもないので、何か買って帰ろうか? そんな事を考えながら立ち上がった時だった。


「ピアノ?」


 思わず呟きを漏らした。

 保健室と音楽室は結構距離があるので微かにしか聞こえてこないが、確かにピアノの音だった。

 ふと気が付けば、何かに吸い寄せられるようにI野は音楽室を目指してその足を進めていた。

 近付くにつれて段々と音が鮮明に聞こえてくるようになる。

 間違いない、ピアノの音だ。


(随分と下手な奏者だな……)


 こんな時ながら、職業病なのかそんな感想が頭に浮かぶ。

 しかし、音楽室のあるフロアまで辿り着いたところで気が付いた。下手なのではない。随分とおかしなノイズが演奏の所々に混じっている。


(音が出きってない?)


 特定の音階だけ、何かで弦の振動が抑えられているようなイメージ。

 そのイメージは、そのまま朝の光景へとフラッシュバックする。

 ピアノの下に溜まった赤黒い水たまり。


 


 弦が血で固まって、正しく振動できなくなっているんだ。

 急激に沸き上がる酷い吐き気に、口元を抑えてその場にうずくまる。


(誰かが……誰かがあのままのピアノを演奏している)


 明らかに異常な行為だ。

 あんな事件の後だ。誰も近づけないように、警察が封鎖とかしているんじゃないのか? そう、そうだ警察!

 警察への連絡を思い立ち、何とか吐き気をこらえて立ち上がる。

 しかし、気が付けばピアノの音は止まり、辺りは静寂が支配していた。

 気のせい? そんな筈はない。ここに来るまで確かに演奏は聞こえていたのだから。

 混乱する頭を抱え、これからどうするべきかと思案しようとした時。


「先生」


 後ろから突然声を掛けられた。

 ヒィっと小さな悲鳴をあげ、今にも意識を失いそうな恐怖を感じながらも、何とか振り返る。

 そこには、S山が立っていた。

 S山はI野のすぐ近くまで来ると、じっとこちらの顔を見上げてきた。


「先生、調律は頼んでいただけましたか?」


「えっ?」


 S山の言葉に、I野は耳を疑った。

 今ここで、それを気にするのか? さっきの今で、連絡できる筈ないだろう? こんな時間に何で学校に? あのピアノを弾いていたのは、あなたなの?

 様々な思いが頭の中を駆け巡る。しかし、I野は律儀に答えた。


「ごめんなさい、まだなの。明日には警察の方と話ができるだろうから、見通しが立てられると思うわ」


 その返答に、S山は大きく溜息を吐いてガックリと肩を落とす。そして、そのまま何も言わずにI野の脇を通り抜けて歩き出した。

 I野はこの状況に困惑していた。

 何もかもが異常だ。

 ピアノの音も。

 深夜という時間帯も。

 S山も。

 そして、何よりもS山が手にしているものが……


「S山さん、ちょっと聞いてもいいかしら?」


 その言葉にS山が足を止める。

 本当は聞くまでもないことなのに。


「その手に持っているものは何かしら?」


 聞いてどうする? 見ればわかることじゃないか。


「これですか?」


 自分の手にしている物に一度視線を落としてから、まるで何事でもない普通の事のように彼女は答える。

 あれは……


「大丈夫ですよ。これは先生には使いませんから」


 あれは、大型の鉈だ。


「そんな物、何に使うのかしら?」


 こんな事を聞いて私はどうしたいのだろう? I野はそう思いながらも、何故か聞かずにはいられなかった。


「もちろん、これで愛しいあの方を呼ぶ為の準備をするのです」


 準備? 愛しい人? 全然意味がわからない。


「何を、言っているの?」


「何って? 先生も今、明日には見通しが立つって言ったじゃないですか」


 深い闇のような目で、微笑むS山。

 その瞬間、I野の中で何かが繋がっていくような気がした。

 一方、S山は大袈裟な身振り手振りを交えながら自分の気持ちを言葉に変えていく。


「私。前の調律の時に、あの方に始めてお会いしてもの凄い衝撃だったんです」


 そうか、彼女は。


「こんな素敵な方がこの世にいるなんて」


 あの調律師が好きなんだ。


「でも、私はあの方の連絡先を知らない」


 彼に会いたいが為だけに。


「最初は先生に聞こうかとも思ったのです。でも、それって違うと思いませんか」


 自分の欲望を叶えたいが為だけに。


「私達はもっと運命的な出会いであるべきだと」


 自分勝手な解釈で、他の生徒を手にかけ。


「前にお会いした時。あの方は私を見出してはくださらなかった」


 ピアノを汚し。


「でも、次こそは必ず……」


 平然と。


「あんなに素晴らしく純粋な瞳」


 調律を懇願する。


「私と同じあの瞳の方が、私を見逃す筈がない!」


 狂っている。


「だからもう一度、あの方と私はごく自然な出会いをするべきだと」


 狂っている。


「最初は悩みました。どうすればもう一度ここに来てくださるのか」


 狂っている。


「そして、思いついたのです。もう一度あのピアノで人が死ねば、きっとあの方は来てくださると」


 狂っている。


「誰を殺すのかは特に悩みませんでした」


 狂っている。


「私のピアノに惹かれてくる人が居れば、きっとその人は私の味方」


 狂っている。


「私の恋の成就の為に、自らの命を喜んで差し出してくれる人」


 この子は、完全に狂っている。


「警察に……行きましょう」


 まだまだ語り続けるS山の声を遮るように、I野が言葉を発する。

 S山の動きがピタリと止まった。彫刻の様に、人形の様に。

 そして、機械じみた動きで首だけを回してこちらを向く。

 先ほどまで笑みを浮かべていた口元は真一文字に引き絞られ。

 顔中の表情という表情がゴッソリと抜け落ち。

 その中で、目だけが異様にギラギラとI野を睨み付けている。


「何を言ってるんですか?」


 抑揚のない、まるで感情の無い声。

 ジワリ、ジワリと恐怖がI野の身体を染め上げていくような感覚。

 怖い。恐ろしい。けど、教師としてここで逃げるわけにはいかない。


「あなたがやっていることは犯罪よ。これ以上罪を重ねてはダメ」


 I野は震える身体に力を込めて、S山を真っ直ぐ見据える。

 しかし、こんな言葉が今の彼女に届くのか?

 彼女の言葉がI野に理解できないように、こちらの言葉を向こうは理解できないのではないのか?


「呼んでくれるんじゃないんですか?」


 返ってきた答えは理解以前の問題だった。まるで聞こえていない。


「呼んでくれるって言いましたよね!」


 絶叫。

 同時に、鉈の背を近くの壁に叩きつける音が廊下に響き渡る。

 その音が、一気にI野の身体を恐怖で満たした。


「ひ……っ!」


 I野はその場にへたり込む。

 身体が震える。歯の根が合わない。

 逃げようにも足が動かないどころか、耳を塞ごうにも手が動いてくれない。

 何か声を掛けてやらなければならないのに、口が開かない。

 しかも、込み上げてくるのは声ではなく強烈な吐き気だ。


「もういいです。あの方にお願いするのは他の先生に頼むことにします」


 I野に対して、S山が一歩踏み出す。


「先生はあの生徒と同じように、私とあの方の為に死んでください」


 また一歩。そして、もう一歩。


「いいですよね。先生も私のピアノに惹かれて来たのでしょう? 私を助けてくれるのでしょう?」


 何も言えず、逃げることもできぬまま、気が付けば目の前でS山が鉈を振り上げていた。


(殺される!)


 目を固く閉じ、その身を強張らせる。

 しかし、一向に鉈が振り下ろされる気配がない。

 代わりに、顔にかかる生暖かい液体。

 立ちこめる臭い。

 思い出す音楽室の光景。

 ゆっくりと目を開くと、目の前にはまだS山の姿があった。

 ただし、振り上げた手はだらりと垂れ下がり、目は虚空を見上げている。

 何よりも奇妙なのは、さっきまではなかった棒のようなものを首から生やしていること。そこから噴水のように血飛沫をあげ、時折ビクッビクッと痙攣していた。

 そして、そのままの場所に崩れ落ちると、ピクリとも動かなくなった。


「危ないところでしたね」


 何が起きたのかわからず唯々呆然とするI野に、S山の立っていた後ろから手が差し伸べられる。

 手に沿ってゆっくりと見上げていくと、そこには血で染まった調律師の笑顔があった。


「どうして……あなたがここに?」


 助けてもらったお礼よりも先に、I野はそんな疑問を口にした。


「ピアノでまた事件があったような噂を聞きましてね。でも、来て良かった。間に合って本当に良かったですよ」


 I野の問いかけにも特に気分を害した様子もなく、調律師は笑顔のままそう答えた。


「さて、それじゃあピアノの修理に向かいましょうか」


 差し伸べられた手を掴もうとしたI野の動きが止まる。

 今の言葉。ここに来た理由。数多くの不可解な点が、徐々に働き始めたI野の頭に浮かんでくる。

 何故依頼もしていないのに、この時間に調律をしに?

 何故こんな状況でも修理に拘る?

 何故躊躇なくS山さんの命を?

 どれもがおかしい。そして、何よりも――


 


 何かに魅入られたようなあの目。

 誰かが恐いと言ったあの目。

 S山さんの目によく似た、あの狂った目だ。


「やめてください!」


 次の瞬間、I野は思わず叫んでいた。


「もう、もうあのピアノは修理しなくて結構です」


 あれを直してはいけないと、頭の中の何かが訴えていた。


「しかし、あれはかなり高価なものですし。あなたの一存で廃棄するのは……」


 落ち着いた声で食い下がる調律師。でも、I野の気持ちは変わらない。


「いいんです。必ず、必ず関係者を説得しますから、もう修理は行わないでください」


 I野の決心の固さを感じ取ったのか、調律師は随分と落胆した声で頷くと、ふとその場に屈み込んだ。


「あなたもですか……」


 その一言と共に立ち上がった彼の手には、S山の持っていた大型の鉈が鈍く光っていた。


「そんな事を言わなければ、あなたを殺す必要はなかったのですが」


 目の前で振りかざされる鉈。

 再び降りかかる恐怖に、今度こそ助からないと確信したI野は、悲鳴をあげる間もなくその場で気を失った。

 遠のく意識の中、微かにサイレンの音を聞いたよな気がしたが、彼女にはもうどうする事もできなかった。


 気が付くと、I野は病院のベッドで横になっていた。

 身体には特にケガもなく、いったいどうやってあの状態から助かったのかさっぱり分からないまま、病院での時間を過ごした。

 もしかすると、あの出来事はすべて自分の夢だったのではないか? そんなふうにさえ思い始めた頃、彼女の病室に保険医の先生が見舞いにやってきた。

 訪れた彼女の言葉によって、すべての出来事が現実であった事を思い知らされるI野。

 でも、ショックらしいショックは別になく。I野はその現実を静かに受け止めた。

 結局、最後は通報によって駆けつけた警察によって調律師は抑えられ、I野には被害が及ばなかったらしい。

 何でも、あの時間まで寝過ごした学生が一人いて、校内での出来事に気が付いて咄嗟に通報したらしい。

 誰だか分からないが、何とも間抜けなその学生にI野は深く感謝した。


 それからまた一ヶ月後、学校には日常が戻ってきていた。

 S山はいない。調律師もいない。事故で亡くなった生徒も、S山に殺された生徒もいないが、時間が経ってしまえばそれも些細な違いでしかない。

 岩倉京子もまた、いつも通り音楽室での授業中にウトウトと船を漕いでいた。

 まどろみの中、隣の席のクラスメイト達の話し声が聞こえてくる。


「あのピアノ、結局まだ使っているんだよね。キモくない?」


「キモイキモイ。アレで二人も死んでるんだもんね」


「何か廃棄の話はあったんだけど、音楽のI野先生が断固反対したらしいよ」


「ウソー。キモ過ぎ。あんなの弾くどころか触りたくもないよ」


 その辺りで深い眠りに落ちてしまった彼女は、それ以上の話を聞くことはなかった。


「岩倉さん。岩倉京子さん」


 突如身体を揺すられて目を覚ます京子。


「すみません。起きました。授業続けてください」


 咄嗟に一言。

 言った後で声のした方向に目を向けると、I野の姿があった。


「もう授業も終わってみんな帰ったわよ」


 優しく話しかけるI野。その顔をじっと見つめる京子。


「私も用事があって戻りますから、岩倉さんも早く帰るのよ」


 そう言って、I野は荷物を持って音楽室の出口へと向かう。


「先生」


 そんなI野を後ろから呼び止める京子。

 返事はないが、足を止めてゆっくりと振り返るI野。


「先生も、同じ目になってしまったんですね」


 京子はハッキリとそう告げる。しかし、I野は小さく首を傾げると、


「何の事か分からないけど、早く帰りなさい」


 もう一度そう告げて、音楽室を後にした。

 一人残された京子は、ピアノの方を向いて呟いた。


「全部、あなたのせいなの?」


 勿論答えは何も返ってこなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る