その瞳でみる世界は
ルリア
プロローグ
動いているものが生きているのだとしたら、動きを止めたものは死んでいるのだろうか───
手に握った絵筆を無造作に動かしながらふとそんなことを考えた僕は、はっと顔をあげた。
そのままなんとなく、ランタンの灯りだけで必要最低限に照らされた薄暗い部屋のなかをぐるりと見渡す。動いているものは多くない。少ないどころかゼロに等しいくらいだ。
それもそう、ここは僕が生活するための場所であり、僕以外に僕と同じくらい動くものがこの部屋にあったら、僕はそれを疎ましく思うだろう。
部屋にある時計は飽きることなく時を刻んでいて、午前三時を示している。
時計は動いているから生きているのだろうか?
──いや、ちがう。
これは人間が生きていくために便宜上必要としたから発明された機械にすぎない。
時を刻む一定の正確さは必要とされるが、時計自身が意思を持って時間を早くしたり、遅くしたりすることはしない。
だれしも生きていれば体感こそちがえど、時間は等しくながれる不変の真理だ。
だから時計は動いているからという理由だけで生きていると定義することはまちがっている、と僕は考える。
いつだって時計が示す時刻は、僕が生まれてから今日まで過ごしてきた時間を機械的に、そして無機質に突きつけてくる。残された時間がどれほどあるかわからない僕をあざ笑うかのように。
僕が死ぬまで、そして死んでからも、ずっと、変わることなく。
僕ら人間がときどき軽率に永遠を信じたくなるのは、その残酷なまでに正確で不可逆で不変である時間という存在が、あまりにも身近すぎてみえなくなるせいだと思う。
ねむれない夜があたりまえの僕にとって、この時間の暗さと静けさは落ち着くと同時にとてつもない焦燥感にかられる時間でもある。
明るい陽の光を浴びながらいきいきと生活するひとびとと、昼行性の動物たちが明日の光に希望をいだきながら、この暗闇に身をゆだねて今夜も寝静まる。
その反対に、夜行性の動物たちがゆるりと活動をはじめるこの時間。
いきいきとした生活のなかでしか得るものができないもの、そしてそれは生きていくうえで絶対に欠かすことのできないもの──つまり先立つものを得るため、しかたなくその明るい時間を犠牲にしている僕が、やっとの思いでたどりついた、僕だけが世界に取り残されてしまったかのような静寂の時間。
だれもが目を閉じ、意識はゆめのなかで、身体は呼吸だけを繋いで明日──それは必ずやってくる──を待っているこのかぎられた時間のなかで、僕はいったいどれだけのものをかたちにできるだろう──その考えが、遠いむかしに不注意でこぼして落ちなくなってしまったインクの染みのように、ずっと頭の片すみにこびりついて離れない。
ぼんやりと椅子から立ち上がった僕のひざから絵の具がバラバラと音をたてて床に散らばる。その音を耳にした僕は「はぁ」と肩を落としながらため息をつく。
いつも立ち上がるまえにきちんと戻そうと思っているのに、今日も忘れて立ち上がってしまった。
僕自身の決意の甘さをうらみ、散らばった絵の具をみつめる。ひろい上げるのが面倒だと思いながら、目の前のカンバスにちらりと目をやる。
まだだ───
まだ僕は彼女までたどり着けない。
どんなに彼女に触れたいとねがっても、一向にそのときが訪れない。
描き続けなければ───生きていなければ───
それが僕にできるたったひとつの、彼女に会うための方法だから───
僕はこの手のひらに、彼女の指先の体温とその感触を思い出す。
彼女がなんでもないように差し出すその手はいつも、僕の体温よりすこし低く、がさがさと荒れ放題な僕の手とはまったくの真逆でさらりとしていた。
同時に、その手に触れることがなんでもなかった、あたりまえに存在していた時間だったことが胸の奥にぴりりとした痛みを残す。
カンバスから視線をそらし、僕は窓辺のとなりにおいてある本棚へと向かう。
さきほど落とした絵の具。
以前つかったまま放置してからからにかわいたパレット。
くしゃくしゃに丸めて投げた紙や布。
カンバスを持たないからっぽのイーゼル。
それらがひしめく床のその余白を見極めながら、僕は慎重に足を踏みだす。
この際、たとえすこしくらい足にものが当たってしまったとしても、踏みつけさえしなければいいだろう──そんないい加減な思考が僕の頭のなかにこだまする。
そんな僕に、知り合いの画商からなかば強引に押しつけられ、置き場に困ってしかたなしに壁に飾った絵画のなかの女──すみれ色の瞳をもち、おなじくすみれ色の装丁の本を手に、こちらへ顔を向けて木かげに座っている女──がやれやれとなかばあきれながら、それでも幼子を見守るかのような、なんともいえない視線を送っているのを背中にを感じる。
そんなに広くない部屋なのに、僕は本棚にたどりつくまでゆうに二分ほど時間を要した。
本棚のまえに着いた僕は、腰に巻きつけていたハンカチーフを取り外し、まだ乾いていない絵の具がついた手を丁寧にぬぐう。この手で本を汚してしまうことがないよう念入りに、注意深く、僕は何度も自分の手をぬぐい、確認する。
そうやって僕は僕自身の手に合格点を与え、ハンカチーフを腰に巻き直す。
彼女から手渡されたときは真っ白だったこのハンカチーフも、僕が絵を描く際にあつかった絵の具によってさまざまな色がついた。
あざやかな色が身近に存在しない場所にいた彼女は、僕がこのハンカチーフにつけてくる色──あくまでそれは僕が意図的につけた色ではなく、僕が絵を描くうえでついたもの──をめざとく見つけ、この世界に存在するじぶんの知らなかった色のあざやかさにその瞳をきらきらさせていた。
彼女に会えなくなってからも絵を描き続けていた僕の腰に巻きつけてあるハンカチーフは、以前よりもずっとその身にまとう色が増え、そしてほんのすこしだけくたびれてみえた。
そうやってようやく僕は本棚の扉を開き、丁重に保存してある明るい薄茶色の装丁の一冊の本を大事に大事に手にとって、表紙を眺める。
かわいた絵の具がこびりついた指先で優しく表紙を撫でる。
僕はこれまで、何度このざらついた感触を確かめてきただろうか。
まだきみは、僕を必要としてくれているだろうか───
僕に会いたいと、願ってくれているだろうか───
手に取った本をじっと見つめながら、返事の得られない問いばかりを繰り返す。
表紙をめくり、なかの紙の触り心地をきょうも確認する。ページをぱらぱらとすすめてみたけれど、それらのページはあいかわらず白紙のままだった。
動きを止めたものでも生きているものがある、と、僕は信じている。
これほどまで静かな夜に僕はきょうも、ただひとり、きみのことだけを想ってしまう。
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