003.涙ばかりですぐだめになる
「フィロメナ、今日はきみに素敵なゲストを紹介するよ。さあ、どうぞこちらへ」
「フィロメナ様、ごきげんよう」
久しぶりにベッサリオン家を訪れたイグナティオスは、喜びを隠せない声色でそう言った。イグナティオスに促されて言葉を発したその人物にどうも心当たりがなく、フィロメナは困惑する。そんなフィロメナの様子を見て、どうやら二人は含み笑いをしているようだった。
「そうですよね、フィロメナ様は目がお見えでないですから……私のこと、おわかりになりませんよね。宮廷舞踏会でお会いした、ルイーズ・ディディエです。今度こそ私のこと覚えてくださいませね」
「あ……大変失礼いたしました、ルイーズ様。ご無沙汰しております。それにしても、どうしてこちらに……?」
「僕がお誘いしたんだ。二人は仲良くしたいと言っていただろう?それに、フィロメナはいつも家に閉じこもっているせいで同年代の友人もいないことだし、ちょうどいいんじゃないかな」
近頃、イグナティオスの言葉はちくちくとフィロメナの心を苛む。今まで彼はとっても優しかったのに、社交界に出て、立身出世を望むようになってからやはり変わってしまったように思う。でも、こんなことでいちいち傷ついてはいられない。フィロメナは出来る限りにっこりとほほ笑んで、お気遣いいただきありがとうございます、とお礼を言った。
「さあ、あちらのガーデンテーブルでいつものようにお茶でもしよう。ルイーズ様、お手をどうぞ。フィロメナは少し待っていておくれ」
イグナティオスはルイーズを紳士的にエスコートして、勝手知ったるベッサリオン家の広い庭を行ってしまった。一人ぽつんと取り残されたフィロメナは、心のもやもやがどんどん大きくなってゆくのをひしひしと感じる。しかし、そんな考えを振り払うかのように何度か首を横に振って、二人は閉じこもりがちな自分を心配して、わざわざ来てくれたのだ……と自らに言い聞かせた。
それに、ゲストであり、伯爵令嬢であるルイーズのエスコートを優先するのは当然ではないか……。
「フィロメナ、お待たせ。さあ、行こうか」
その証拠に、すぐにイグナティオスは戻ってきてくれて、いつものようにフィロメナの手を取ってベンチから立ち上がらせ、自らの腕にフィロメナの腕を絡ませた。
いつもと変わらない、優しい彼だ。
やっぱり、自分の考えすぎだとフィロメナは気を取り直す。
薔薇の植え込みに面したガーデンテーブルについたフィロメナは、イグナティオスが引いてくれた椅子に腰かける。その様子を見ていたのであろうルイーズが、不思議そうにフィロメナに問いかけた。
「ねえ、フィロメナ様は全く目が見えないのかしら?」
「はい、全く見えないのです。けれど、病気になるまでは目が見えていたのでベッサリオン家の邸宅内や庭に関してはある程度白杖がなくても歩くことが出来ます」
「まあ、では後天的な
ルイーズは、媚を含んだような甘い声をしている。それが、わざと発しているものなのか、生まれながらのものなのかがフィロメナには判じえなかったが、なんとなくこの女性は苦手だな、とフィロメナは直感していた。
何かにつけてフィロメナに「可哀想」というレッテルを貼るルイーズは、きっととても恵まれて育ったのだろう。だが、自分の物差しだけで他者を評価するのは間違っているとフィロメナは思っていた。だからこそ、軽率に他者を値踏みするかのようなルイーズのような人物は苦手だったのだ。
しかし、フィロメナは自分だってルイーズに“意地悪な人”というレッテルを貼っていることに違いないということはわかっていた。わかっていても、心が辛く、逃げ場を探してしまって、ルイーズに対して露悪的な感情を抱いてしまうのだ。そんな自分がなんと情けないことか。
「そういえば、舞踏会でも転びそうになっていましたよね?目が見えないなんて本当に大変そうで……考えられないわ。けれど、アスヴァル様に助けていただいていましたわよね?フィロメナ様ったら、なんて怪我の功名かしら!」
「アスヴァル様……バルジミール様ですね。初対面の方にも関わらずご迷惑をかけてしまいました」
「アスヴァル様の美貌は貴族たちの中でも定評があります!澄んだ冬の夜空のような美しい瞳を縁どる、長くて豊かなまつ毛に、東洋的な艶やかな黒髪、怜悧ながらも蠱惑的な麗しい
「そんなに素敵な方なのですね……」
フィロメナは想像していた彼の姿と全く違う容貌であることに驚いた。アスヴァルはそんな美しい容貌を持つことを驕るそぶりは全く見せなかったし、辺境伯という重要な爵位に就いていることから、騎士のような頑強な男性を勝手にイメージしてしまっていたのだ。
「ですが、アスヴァル様と親しくされている王太子殿下も負けず劣らずの美貌をお持ちなの。アスヴァル様が月ならば、王太子殿下は太陽のよう。金糸のような
「王太子殿下もそんなに魅力的な方なのですね。ご令嬢たちが夢中になるのも頷けますわ」
アスヴァルと王太子殿下を褒めちぎるルイーズに、イグナティオスは苦笑いを浮かべながら「同じ男として、バルジミール様と殿下の麗しさには頭が下がるよ。でも、ディディエ伯爵がぼくを側近にと推してくださる第二王子も負けず劣らず美しい方だよ」と言った。それを聞いて、フィロメナはルイーズに礼を言いそびれていたことをようやく思い出す。
「ルイーズ様のお父様は、イグナティオス様に大変よくしてくださっているのですよね。婚約者として、私からもお礼を申し上げます」
「あら……ふふふ。別に、大したことではなくってよ。ねえ、イグナティオス様」
「ええ、ルイーズ様」
ルイーズはそう言ってから、またうふふと笑った。
「イグナティオス様はとても努力家で、優秀な方です。私もすごく良くしていただいていますわ。それに、とっても爽やかで目鼻立ちもはっきりした素敵な男性ですから」
ルイーズの言葉に、イグナティオスの面立ちを想像する。
イグナティオスは昔から、目鼻立ちがすっきりした少年だったから、そのまま成長したのだなと思いを馳せる。それにしても、先ほどからルイーズとイグナティオスが共通の話題で大いに盛り上がっているので、フィロメナは少々疎外感を感じていた。もちろん、目が見えないから仕方のないことだけれど、フィロメナにはわからないことが多すぎるのだ。
「あんな美しい方々のお顔を
それに──やはりルイーズはフィロメナの心に土足で踏み入る。どうしてこの方はこんなに私のことを決めつけたがるのだろう。フィロメナは表面では柔和な笑みを浮かべながらも、暗い気持ちのまま一刻も早くこの時間が過ぎ去ることを願っていた。
***
「フィロメナ、どうしたんだい?」
ルイーズの迎えの馬車を二人で見送ってから、ずっと黙りこくっていたフィロメナを訝しんで、イグナティオスがそう尋ねる。フィロメナはしばらく口をつぐんでいたが、沈痛な面持ちでイグナティオスの方を向き直る。
「私……こんなことを言うのは心苦しいのですが……今後ルイーズ様とお付き合いするのは考えさせていただきたくて」
「……どうして?」
「私、自分のことを可哀想だと思っていません。優しい両親も、侍女たちも、イグナティオス様もいます。けれど、ルイーズ様は何かにつけて私に可哀想、とおっしゃるんです。そのたびに、私は自分がみじめに思えてくるんです……ごめんなさい」
「フィロメナ……」
フィロメナは小さく俯いて、胸中をイグナティオスに告白した。きっと、イグナティオスはわかってくれる。その一念からであった。ぽん、とイグナティオスの手のひらがフィロメナの右肩に乗ったので、フィロメナはイグナティオスの優しい言葉を期待して顔を上げた。
「がっかりしたよ、フィロメナ……」
「え……」
しかし、返ってきた言葉はフィロメナにとって予想外のものだった。
「ルイーズ様はきみの交友関係のなさを心配して友達になってあげたい、と、そう言ってくださったんだよ?そんなルイーズ様の親切心をきみは無下にしたんだ。それに、父君であるディディエ伯爵がぼくを推してくれていることは話しただろう?そんな彼女の父君の気持ちも、僕の努力もきみは顧みないというのか?」
「そんな、違います」
フィロメナは慌てて否定するが、肩に置かれたイグナティオスの手がフィロメナの肩を強く掴む。あまりの力強さに、痛みでフィロメナは眉根を寄せたが、イグナティオスは全く力を弱めてくれない。
「イグナティオス様、痛い……」
「きみはぼくの心も、ルイーズ様の心も、彼女の父君の心も踏みにじったんだ。その心の傷はもっと痛いんだよ。わかるかい?」
強く責めるような口調に、フィロメナは混乱して思わず目尻に涙がにじんだ。そんなつもりじゃないのに。必死で弁解しようとするも、フィロメナの言葉を遮ってイグナティオスは強い語気で続ける。
「目の見えないきみに充分配慮してきたつもりだったけれど、甘やかしすぎたのかな?きみには心底がっかりだ」
「ごめ……ごめんなさい」
フィロメナは小さく震えながら必死で涙を拭うが、とめどなく涙があふれだして止まらない。信頼している──今後長い人生を共に生きることとなるであろう婚約者相手にこんなにも心が伝わらない。それがとてももどかしくて、辛かった。
「やれやれ、女性の涙には敵わないな。こちらが悪いような気になるから、早く泣き止んでおくれよ」
突き放すように肩から手が離れた。イグナティオスの言葉に、しゃくりあげながらフィロメナは何度も頷く。そんないじらしい様子にも苛立つのか、イグナティオスはこれ見よがしに大きなため息を吐いた。
「そうそう、また近々、宮廷舞踏会があるんだ。二日間あるけれど、どちらも必ず参加するように。当日、ぼくは忙しいからいちいちきみをエスコートすることは出来ないが、あいさつ回りには付き合ってもらうよ。そのときはエスコートしてあげる」
そう言い残すと、イグナティオスの足音は離れていった。フィロメナは涙声のまま、縋るように弱々しくイグナティオスの名前を呼んだが、イグナティオスの耳には届かなかったのか彼が戻ってくることはなかった。フィロメナは一体どうしたらよかったのか、わからなかった。フィロメナはそこに立ち尽くしたまま、もう一度泣いた。
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