新装版:ディシープ・ディスペアー
天崎 栞
プロローグ
私”の記憶のなかで、
覚えているのはたったひとつ、母の名前と朧気な存在だけだ。
___ ”トモカ“。
それ以外に、私の記憶にあるものはない。
否、嘘を付いた。
嘘か誠か、覚えている記憶がある。
忘れられない、闇夜の海に浮かぶ、“あの日”
それは私が、12歳の頃の時だったと思う。
私の記憶は酷く曖昧そのもので
まるでホッチキスで留めただけのような
継ぎ接ぎだらけの酷いものだ。それを崩せば
硝子の破片のようで、何の意味も成さないもの。
知っている。
人間という生き物は、
魂の器にしか過ぎないのだと。
そして記憶とは、不確かな証拠なのだと。
私が生まれたのは、とある小さな町だった。
記憶は皆無なのに、酷く焼き付いているのは
指先から紡がれるのは優美かつ優雅な、なだらかな旋律。
グランドピアノに腰掛けている女性___母だ。
母の視線と指先は、常に鍵盤にあって、
部屋には絶える事もなく、いつも穏やかな音色が響いていた。
軽やかな音色、そして優しい横顔は、
穏やかな微笑みを浮かべたままだ。
まるで、
桜を体現したその人の穏やかな横顔。
母とピアノ。
二人にしか絶対的に居させない世界。
まるでその世界には結界が張ってある様に見えた。
ただ結界といえば、
透明で繊細なものを思い浮かべがちだけれども
私の母の場合は違っていた。
その結界は、
まるで蔦が蜘蛛の巣を張ったように渦巻いている。
執着にも似た雨のような湿気という鎖。
何かの鎖に繋がれている様は、
その風景によっては美麗で、時に残酷に見えるものだと、
____今なら言える。
ピアノを弾いている優美な女性。
それは何処か夢物語で、絵画のようなものなのに
幼心に何処か異様に、思ってしまったのは、何故だろう。
母の眸(ひとみ)にはピアノの鍵盤だけが、映る。
きっとそれ以外、母はきっと何も要らない。
理想や現実も、____娘でさえも。
だから私はいつも待ちぼうけを食らっていた様な気がする。
窓の外から見える世界は何処か隔離された世界。
私には酷く非現実的で、目眩がしそうだった。
____”あの日“。
覚えているのは、何処か凍り付きそうな冷たさ。
それに反芻(はんすう)する、喉が焼け付く程の暑さが
ひっそりと近付き締縄の様に感じ、思わず、喉を当てた。
『____………』
私は、母(あなた)をなんと呼んでいたのか。
お母さん? ママ? それとも………。
急な目眩と頭痛とともに、
喉元を抑えて、膝から崩れ落ちた私。
その時、
初めてあの人は娘という存在に関心を寄せた。
何故か母のロングスカートの裾には
見覚えのない深紅の痣が広がっていた。
そして同じように白い床が同じように
鮮明に白を赤に染め上げられていくのが
夜闇の光りが無慈悲に照らしていく。
まるで
濃厚なボルドーのワインを零して、それらが広がるみたいに。
猛暑の蒸し暑さのような、
違和感は喉に酷く焼き付き止まず
ヒリヒリと熱帯夜の存在感が酷くなっていく。
私は、息苦しさとともに声が出す事もままならない程に。
朧気に座り込んだ私を、
彼女はそのまま、私を抱き締めてくれた。
けれど、悪寒が迸ってしまったのだ。
母の身体は雪の冷たく、
何処か、鉄錆のような香りがした。
薄れ行く記憶の海で浮かんだ、桜のような微笑み。
けれども私は息を呑んだのだ。
『______』
その微笑みは、いつもと違って、
桜が散る様な儚くも、切ない悲哀の微笑み。
そして母(あなた)は、呟いた。
けれどもどんな言葉を紡いだのかは、分からない。
そして、この思い込みなのか、
現実かこれは間違いかは分からないままだ。
私の記憶が
そう思い込もうとしているのかも知れない。
意識が朦朧としたいたからそう思い込んだだけかも知れない。
いつだって、私は不確実な人間だ。
次の、私の最初の記憶は、白い世界だ。
白い服を着た人が、心配そうに見下ろしていた。
腕、胸、私の身体には沢山の管が付いている。
傍らには無機質で一定的な音が、絶え間ない音が続く。
頭には包帯が巻かれ、
あちこちにはガーゼの上にテープで止められていた。
それをめくると生々しい傷跡が、絶え間なく存在する。
これは何故だろうと思った。
冬には聞こえなかった蝉の鳴き声が、響く。
白い服を着た女性が尋ねた。
『あなたの、お名前は?』
『……………?』
『何歳か、分かる?』
『……………?』
『じゃあ、誕生日は分かるかな?』
『……………?』
私は質問される度に何度も首を傾げる。
質問が重なる度に、私が頭が首を傾げる度に
相手の顔色は眉を潜め、悪くなり、
不協和音の如く、気不味い雰囲気が流れる。
何処か、不気味だった。
名前も、誕生日も、何歳かも分からない。
それが、何を意味するなのかも私は知らなかったのだ。
ピアノと一緒に独特の世界観に入り込んでいた母は、
娘の私を見た事も一度もなかった。
そして何かを教えて貰った事もなかったものだから、
私は無知で、本当に空っぽの状態だった。
そして、私には関するものは、
全て焼き消えて、手掛かりなんて何処にもなかった。
そして___私の事を知っていた母は、
無情にも、もう帰らぬ人となっていたのだから。
唯一の手掛かりは、
「“サクラギ カスミ”」という言葉だけ。
親切な白い服を着た人から、
名前は、この世で生きていく上での記号の様なもの。
誕生日は、私がこの世に生まれ落ちた日。
年齢は誕生日と共に歩む、数字で毎年、数が重なる。
そう教えて貰った。
「___“澄んだ香り”」
そう呟いた事で
名前、漢字、誕生日、年齢を推定で決めて貰い
私の名前は『桜木 香澄』となった。
生年月日は、私の容姿、思考から考え
おおよそ12歳、誕生日は初夏だった。
そして私に
『記憶喪失』になったのだと教えてくれた。
そうするしかなかったのだ。
私は何も教えて貰っていなかった空白の娘。
全てを知っていた母親は物言わず、消えてしまったのだから。
それからというもの、
記憶喪失という盾に守られ、私は『桜木香澄』になった。
白い世界で暫く過ごす事になり、生きる知恵を呑み込み始めた。
此処は、病院という世界で、
私に質問をしたのはお医者様、
お世話をしてくれるのは看護師さん。
そんな生活を送っていると時折に、
黒尽くめの人がぞろぞろと、病室に訪れる時があった。
あの黒尽くめの知らない人達。どうして訪れるのだろう。
黒尽くめの人達が訪れる度に
私は別の恰幅の良い看護師さんに抱えられ、
病室から密かに抜け出し、大勢のお医者様と看護師さんが
行く手を阻む。
最初は違和感を抱いていた光景も
幾度と見ていれば慣れてしまった。
けれど、
その時のすれ違いざまに、不意に聴こえた声。
『目が覚めたのでしょう?
そして治療から暫く経過している。
あの子の言葉から、聞きたいんです、
もうあの子しか生ける証言者しかいないのですから。
事件性があるので』
『止めて下さい、あの子は記憶喪失になり
今、治療中なんです。混乱する様な事はお控え下さい』
その言葉の意味は分からなかった。
治療から暫く、
身寄りのない私は、離れたある修道院に預けられた。
規律正しく、祈りを捧げる場所で、桜木香澄としての
人生が始まり、人格形成が生まれ始めたのだ。
けれど。
この世界は、人を追い込みたがるらしい。
ある日、若い女の人が修道院にやってきた。
この人との出会いが、私を変えた事は
言うまでもないのかも知れない。
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