第二十三条~第三十五条(跋文まで)

二十三


一 枕のおさへと云事 23 (火:「枕をおさゆると云事」)


原文)

枕のおさへとは,敵太刀打ださんとする気ざしをうけ,うたんとおもふうの処のかしらを,空よりおさゆる也。おさへやう,心にてもおさへ,身にてもおさへ,太刀にてもおさゆる物也。此気ざしを知れば,敵を打に吉,入に吉,はづすに吉,先を懸るによし。いづれにも出やう心在り。鍛錬肝要也。


大要)

枕の押さえとは、敵がこちらを斬ろうという兆しを見て、その動作が始まった瞬間、その腕や体を押さえてしまうことである。心で察知し、体も瞬時に動き、刀でも押さえ、制圧することである。敵の兆しを知ることで、敵を打ってしまうも良し、懐に入り抑えるも良し、外しても良し、先を取って斬りかかるも良い。常に先を取る事を考えよ。鍛錬が肝要だ。


解釈)

 「鍛錬肝要」とこの条だけ言っているようで、実践者にはきつい条と思われる。


 武蔵が先に述べている「先」を取る場合の、最初の一つを述べていると思われる。3つの「先」を前に述べているのに、述べたりないと考えたのだろうか。いや、この「先」が全ての「先」に共通するからだろう。

 敵がこちらに斬りかかろうとする「兆し」を見取れということがこの条の全てと思われる。兆しが分かったら、あとはこちらの好きなように勝つということだろう。

 これは剣術だけの話ではなく、武道や格闘技共通のことだろう。武蔵が生涯負け無しだったのは、この「兆し」が見える敵だけを相手にしたのかもしれない。刀は落ちただけでも運が悪ければ首も斬れてしまう。動きが読めない相手はその太刀筋を予想できないだろう。一瞬でも刀が体に当たれば負けてしまう危険がある。武蔵でもである。

 多くの流派が他流試合を禁じているのは、他流の動きが未知なことと、特に素人の振る太刀筋は読めないことからである。却って素人には本気で掛からねばあぶない。だから武士は素人とは戦わない。


 文字通り「兆し」を察知する以外に戦うヒントは新陰流にある。敵に先に打ち出させる「活人剣」である。敵を先に動かすので「兆し」ではなく、「好きなところを打たせる」ことだ。前にも述べたが「棒心」と言ったり、「探り打ち」で相手を脅かし先に動かす。つまり「兆し」をこちらから作ってやるということである。武蔵も前章の「一 拍子の間を知ると云事」で同じことを述べている。「活人剣」も「兆しを見る」ことも、結局は「相手を観察し、その出方をこちらの都合の良いように制御する」、ということと思う。


 ヤクザ同士の喧嘩と違って、武士の戦いは「必ず勝つこと」を期す。そうでなければ武士の存在価値はないのである。



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二十四


一 景気を知ると云事 24 (火:「けいきを知と云事」)


原文)

景気を知ると云は,其場の景気,其敵の景気,浮沈,浅深,強弱の景気,能々見知べき者也。いとかねと云は常々の儀,景気は即座の事なり。時の景気に見請ては,前向てもかち,後向てもかつ。能々吟味有べし。


大要)

「景気」を知るということは、その場の状況、対峙する敵の状況、双方の気の浮き沈み、気持ちの浅きか深きか、双方の強み・弱点などよくよく見極めるのだ。前に述べた糸と矩尺(かねじゃく)の意識を常に持て。状況は瞬間に変わる。状況をよく把握すれば前後の敵にも勝てる。よく吟味せよ。


解釈)

 十番目の条「いとかねと云事」の常に敵となる相手の観察をせよ、の展開である。この条は、現場の状況や相手の士気(もちろん自分のも)、気持ちの事情なども把握せよ、と言っている。相手がやる気満々であるのか名誉上仕方なくやるのか、など敵方の情報も活用するということだろう。京都の吉岡剣法との決闘はこんな処々の事情も利用したのではないかと思われる。

 また把握した状況はすぐに変化することがあるとも言っている。処世術として理解されるのも頷ける。


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二十五


一 敵に成と云事 25 (火:「敵になると云事」)


原文)

我身敵にしておもふべし。或は一人取籠か,又は大敵か,其道達者なる者に会ふか,敵の心の難堪をおもひ取べし。敵の心の迷ふをば知らず,弱きをも強とおもひ,道不達者なる者も達者に見なし,小敵も大敵と見ゆる,敵は利なきに利を取付る事在り。敵に成て能く分別すべき事也。


大要)

 敵の身になって考えよ。一対一か、多数の敵か、達人であるか、なにか問題を感じているのか思い取れ。敵が迷っているのを知らず、弱いのに強者だと思い込み、達者でないものを達者であると思うと、勝てる敵も勝てなくなる。そうなると敵は利がないはずなのに有利になるだろう。敵の情報を良く分別せよ。


解釈)

 二十四条の「景気を知る」に似た条である。「敵の心を知る」は武道では一般的に言われる。大もとは孫子の兵法ではないだろうか。



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二十六


一 残心放心の事 26 (***)


原文)

残心放心は事により時にしたがふ物也。我太刀を取て,常は意のこゝろをはなち,心のこゝろをのこす物也。又敵を慥に打時は,心のこゝろをはなち,意のこゝろを残す。残心放心の見立,色々在物也。能々吟味すべし。


大要)

 残心放心は場合場合により敵の状況に従う。太刀を構えた時は意思の心はなく自然の成り行きに従う心を残す。また敵を斬る時は情の心を捨て、意思の心を残す。残心放心のやりかたはその場に応じて色々ある。良く良く吟味せよ。


解釈)

 「残心放心」の意味が不確かだが、「残心」は現在にいう「残心する」に似ているだろう。というのは新陰流で言う「残心」は打ち負かした相手でも再度容赦なく打てる体勢と心構え(位)を言う。そこで終わりではない。現代剣道では、打った後まだ打てるぞという構えを取る人もいれば、そのまま走り去ってしまう人もいる。

 「放心」は他の条で言っている「空」の心の状態であろうか。

 兵法は死闘への備えであるから「残心放心」は相手への情を捨て去った心であることは間違いないだろう。


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二十七



一 縁のあたりと云事 27 (水:「縁のあたりと云事」)



原文)

縁のあたりと云は,敵太刀切懸るあひ近き時は,我太刀にてはる事も在り,請る事も在り,あたる事も在り。請るもはるもあたるも,敵を打太刀の縁とおもふべし。乗るもはづすもつくも,皆うたんためなれば,我身も心も太刀も,常に打たる心也。能々吟味すべし。


大要)

 「縁(えん)のあたり」というのは、敵と近く斬り合う時は、敵の太刀を「張る」(同じような速度で打ち当てる)こともあり、「受ける」(敵の打ち込みを刃と刃で止める)こともあり、「あたる」(狙いを外した太刀を受ける)こともある。受けるも張るも当たるも敵の体と刀は一体だと思え。刀に乗るも斬風を避けるも突かれることも、全て敵が自分を倒すためであるから、我が身も心も愛刀も常に打たれる覚悟をするべきだ。よくよく吟味せよ。


解釈)

 「五輪書」で同じ題の条があるが、少しこれと趣が違う。「縁の打ち」という頭でも手でも足でも打つことを述べている。するとこの条は「縁の打ち」で打たれる方の心構えを言っているのだろうか。そう考えると納得が行くので、大要の様に訳した。


 この条は今までの武蔵の言葉と全く異なり、すこし弱気になったんではないだろうかなどと門外漢には思わせる。敵に「打たれる」のは相手が自分と同じ達人で「縁の打ち」を行うほどの腕という想定だろうか。相手に掛かられて苦戦することも武蔵にはあったのだろうか?


 新陰流の試合勢方にこの状況を思わせる形がある。「中段十四勢法 第七・八 城郭勢 足を防ぐ(順)・手足を避ける(逆)」と名がついている。打太刀がこちらの拳を打ってきて使太刀はそれを防いだり躱したりするが、打太刀は素早く次の打ちを繰り出してくる。使太刀はことごとくそれを受けて防ぎ、最後に勝ちを取るという形である。

 初心の使太刀は打太刀が次にどう打ってくるかが決まっているので痛い思いをしないですむが、稽古を重ねて、予測なしに相手の動きで防御を判断できるようにならねば意味がない。


 試合形式では稽古は、喧嘩のようになる可能性もある。お互い我を忘れて相手を早く打つことばかりを考えては、しっかりした「技」を繰り出すことが出来るだろうか?他人が見ても「彼が完全に勝った!」と思うような勝ち方を追求するのが武道である。それで打太刀、使太刀という役割に分かれて、打太刀が攻め、使太刀がそれに勝つという形式・型稽古が行われる。使太刀は受けることにより「勝つ」のであり日々の稽古で、万が一、実戦を行わなければならない場合に、「勝つ」可能性を高めるのだ。


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二十八


一 しつかうのつきと云事 28 (水:「しつかうの身と云事」)


原文)

しつかうのつきとは,敵のみぎはへよりての事也。足腰顔迄も,透なく能つきて,漆膠にて,物を付るにたとへたり。身につかぬ所あれば,敵色々わざをする事在り。敵に付く拍子,枕のおさへにして静成る心なるべし。


大要)

 「漆膠(しっこう)の付き」とは敵の体にぴったりと付くことである。足腰顔までも近くに寄せて、漆や膠でくっつけたように付く例えである。敵との隙間があると、敵はそこで技を掛けてくる可能性がある。敵に付く拍子は「枕のおさえ」の条で述べたとおりであり、慌ててはいけない。


解釈)

 「漆膠の位」という教えが新陰流にはある。例えば、「雷刀抑敵位 八勢法 第一・二 雷刀下段を挫く(逆・順)」である。使太刀は打太刀の頭・腕を打って突進する。打太刀はそれを受けて刀を返そうとするが、使太刀は打太刀の刀を強く抑え込んでしまう。この時、使太刀は打太刀を突き倒すように肉薄し相手を制する。教えではこの時、武蔵の「渡を超す」と「漆膠のつき」を参照している。

 この条で相手の懐へ飛び込む時に「枕のおさえ」も武蔵は引用しているが、これは敵の攻めの兆しが見えた時のことで、新陰流の教えのように「渡を超す」のほうが使用頻度は高いのではないかと思う。


 新陰流の奥義、使太刀が小太刀を使った「小転」(こまろばし)でも相手の懐に飛び込んで「漆膠の身」を取れと教えられる。無刀となった時は当然である。

 ここには述べてないが、敵とくっついたら後は体術あるいは殴る蹴るの戦いとなるであろう。隙間を作らないのは相手に刀を使わせないためだ。大男の武蔵なら体力的に常に勝てるかも知れない。

 これはルールがある現代剣道でも利用できる教えである。打ち合ってお互い鍔迫り合いになった時、安易に離れようとすると追い面を食らう。昔の動画を見ると、選手が鍔迫り合いをしながら足を掛け合ったり、投げを打ったりしている。



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二十九


一 しうこうの身と云事 29 (水:「しうこうの身と云事」)


原文)

しうこうの身,敵に付時,左右の手なき心にして,敵の身に付べし。悪敷すれば,身はのき,手は出す物也。手を出せば,身はのく者也。若左の肩かひな迄は,役に立べし。手先に心あるべからず。敵に付拍子は,前におなじ。


大要)

「秋猴(しゅうこう)の身」とは敵に付く時、左右の手が無いという心持ちで敵にくっつけ。下手をすると身が離れ、手を使ってしまう。手を使えば身が離れてしまう。左の肩と腕は刀を持つ右と比べ役に立つかも知れない。手先を使おうとしてはならない。敵に付く拍子は前の条と同じである。


解釈)

 秋猴とは手足の短い猿のことという。そんな猿になったつもりで敵に近づけと武蔵はいう。実戦ではどんな様になるかと想像すると、じわじわ近づくのは無論おかしいので、斬りあった時点で勝負がつかなければ、かつ間合いが近ければ飛び込んでしまえということであろう。「五輪書」でも「素早く」と言っている。

 左肩と腕は役立つだろう、ということは右に刀を持っているということだろう。左手で相手を抱き込んで右手の刀を突きこむという意味かも知れない。その状況の技は柳生制剛流抜刀術にある。


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三十


一 たけくらべと云事 30 (水:「たけくらべと云事」)


原文)

たけをくらぶると云事,敵のみぎはに付時,敵とたけをくらぶる様にして我身をのばして,敵のたけよりは,我たけ高く成る心。身ぎはへ付拍子は,何も同意也。能々吟味有るべし。


大要)

 「たけを比べる」という教えである。敵の体にくっつく時、敵と背丈を比べるように自分の背を伸ばして敵の体より上になる心持ちを持て。敵にくっつく拍子は前の条を見よ。よくよく吟味せよ。


解釈)

 これだけ読むと「敵よりも背を高く伸ばしてくっつけ」と言っているようだが、武蔵のような大男ならいざ知らず、身長の低い人には無用の教えなのだろうか?


 喧嘩慣れした人が喧嘩をする時、相手の目を上の方から見ようとする。自分が優勢であるという威勢をとるところから始める場合が多い。これは上から叩きつける、あるいは覆いかぶさる攻撃が有利であるとする、動物本来の闘争本能からくるものではないだろうか。

 「五輪書」「水之巻」で武蔵は戦うときの姿勢について、「背を伸ばし、おとがい(顎)を少し引く」と書いている。これは私が思うに「首を起こし、顎を少し引くことによって相手を見下ろすような姿勢になれ」ということだろう。背を高く見せようとしても顎も上げてしまっては、急所の喉を晒すだけで何もならないのだ。


 新陰流の教えにもこの条は引用されている。つまり背の高きも低きもこの心持ちは「武要」の一つで重要である。「位(くらい)」を取ると呼ぶ。

 自分をただ大きく見せようとしてもそうはならない。ただ、こちらを睥睨するようにスキ無い姿で、何の感情もなく見すえる敵に、おいそれとは掛れないのではないだろうか。


 新陰流はさらにこの考えを発展させている。それは「上太刀(うわだち)」という体勢だ。上太刀とは敵の太刀の上に自分の太刀と腕がくる形を言う。つまり、敵の太刀を上から押さえている状況だ。そうなることにより敵の反撃の前にこちらは動ける。大男の武蔵だったら、相手と揉み合えば常に上太刀になれただろう。この条で止まったのは彼の背の高さのせいかも知れない。ちなみに新陰流の宗家や達人に大男がいたとは聞いていない。


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三十一


一 扉のおしへと云事 31 (五輪書にはない)


原文)

とぼその身と云は,敵の身に付く時,我身のはゞを広くすぐにして,敵の太刀も,身もたちかくすやうに成て,敵と我身の間の透のなき様に付べし。又身をそばめる時は,いかにもうすく,すぐに成て,敵の胸へ,我肩をつよくあつべし。敵を突たをす身也。工夫有べし。


大要)

 扉(とぼそ)の身ということは、敵の懐に入る時、自分の身体の幅を広くするようにして敵の太刀も体も覆い隠すように、敵と我が身の間に隙間がないようにする。また身を寄せる時は素早く敵の胸に肩を強くぶつけるように入れ。敵を突き倒す勢いだ。工夫せよ。


解釈)

 「漆膠のつき」の条から複数の条に跨って敵の懐に入る場面を述べていると思われる。武蔵は敵の体にくっつくことをかなり重視していたのだろう。やはり大男だったのだと思う。

 体格に自信がなければ相手の懐に飛び込んで制圧することを重要視するだろうか。それよりも小太刀などで突くほうを選ぶだろう。

 扉を開くように相手より体の幅をおおきくして覆ってしまうようにくっつけ、と言っている。これも体格により出来る出来ないがありそうだが、次に述べられる「肩でぶつかれ」「敵を突き倒せ」ということで小兵も救われそうだ。


 新陰流でも相手を突進するようにして攻める技がある。その時「敵を突き倒す心持ち」が重要と教えられる。先輩の話では、肩でみぞおちを突くのは勿論、足を踏んで突き飛ばしたり、肘で敵の顎をアッパーカットしたり、刀で突く時は同じところを2回突けと教わったという。


 新陰流試合勢法に「雷刀抑敵位(らいとうてきをおさえるくらい)・八勢法」という形がある。その第一・第二に「雷刀下段ヲ摧ク(らいとうげだんをくじく)」という一組があるが、ここで、

『武蔵流ニ云う。戸を超す意【14】。漆膠之附【28】、漆膠之身(秋猴の身【29】の間違いか?)、身長方(みのたけくらべ)【30】、扉の身【31】。』

  【】は今まで解釈した条の番号。


という、長岡桃嶺の引用がある。この勢法は相手の懐に飛び込むように激しく打ち込む技であり、ここで武蔵の教えがまとめられているのは興味深い。この八勢法のここ以外にも随所にこの引用が出てくる。

 実戦剣法の所以である。


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三十二


一 将卒のおしへの事 32 (火:「しやうそつをしると云事」)


原文)

将卒と云は,兵法の利を身に請ては,敵を卒に見なし,我身将に成て,敵にすこしも自由をさせず,太刀をふらせんも,すくませんも,皆我心の下知につけて,敵の心にたくみをさせざる様にあるべし。此事肝要なり。


大要)

 「将卒の教え」とは、兵法の理論を応用して、敵を順卒とみなし、我は大将となり、敵に少しも自由を与えず、刀も振らぜず、竦ませ、自分の心の命ずるように敵の心に策略を練らせないようにすることである。このことは肝要だ。


解釈)

 「将卒の教え」という言葉は新陰流でも引用される。武蔵は一対一の戦いでも、大軍を率いるときでもこの理論は同じである、と「五輪書」の随所に述べている。

 軍と軍の戦いの場合も、敵の心をつかみ思い通りに戦わせないということであろうが、私は何を核にしてこれがなされるのかはわからない。情報戦だろうか?


 またこれと言葉じりとして、似た場合に引用される「英雄の心を知る*」がある。自分が部下の命運を握った場合に「英雄」となれ、との金言である。転じて、常に兵法を極めた頂点の心持ちを持て、ということだろう。これは「三略」の「上略」の冒頭に出てくる言葉である。「三略」は軍を指揮する「将」の心構えや行為を解いたものであり、現在読んでも倫理的に素晴らしいことが書いてある。だが、真意は武蔵のいう「将卒」の関係ではない。混同に注意すべきである。


*「三略」夫主將之法、務攬英雄之心(それ主将の法は努めて英雄の心を撹(と)る)


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三十三


一 うかうむかうと云事 33 (水:「有構無構のおしへの事」)


原文)

有構無構と云は,太刀を取身の間に有事,いづれもかまへなれども,かまゆるこゝろ有によりて,太刀も身も居付者なり。所によりことにしたがひ,いづれに太刀は有とも,かまゆると思心なく,敵に相応の太刀なれば,上段のうちにも三色あり,中段にも下段にも三ツの心有り。左右の脇までも同事なり。爰をもつてみれば,かまへはなき心也。能々吟味有べし。


大要)

 「有構無構」という教えは、太刀を取る体に関わることで、構えということがあるが、構えるという気持ちによって太刀も体も「居付く」ことがある。どんな状況でも太刀は構えがあるが、「構え」という概念は捨てよ。敵に対する構えはあるが、上段をとっても3つの心構えがあり、中段にも下段にも3つの心がある。左右の構えも同じである。こうしてみれば構えとはないことを悟れ。よくよく吟味せよ。


解釈)

 敵に対峙したときに敵の攻撃に備えて刀を持つのだが、それを「構え」と呼んでいる。しかし「構えている」ということに執着していると、太刀も体も居付いてしまうだろう。こう構えているから敵がああ責めてきても大丈夫、と安心しているところに予想外の攻撃が来たらどうするんだい?という武蔵の問であろう。


 これは新陰流の考え方と全く同じで、新陰流は「構え」という言葉を廃し、「位(くらい)」という言葉を使う。確かに敵に応じて太刀や体の身構えの形はあるが、それは変転するものだと教えられる。「転(まろばし)」という言葉にはそういう意味もある。

 また何度も書いているが「手の内」はどんな「構え」を、もとい、「位」を取っても変えてはならない。相手と切り結んでも手の内は最初から最後まで変えてなならないのだ。これも「五輪書」に述べられている。


 武蔵が上中下・左右の構えに「三色あるが結局は構えはないと思え」と言っているのは、特徴的な形が大体3つあり、場合によってはその間の無数のポイントを取ることによって無限の可能性を持っているということを言っているのだろう。レトリックとして「無限」を「ない」と置き換えている。


 新陰流も組太刀によって種々の「位」(いわゆる構え)があるが、それを応用・変化(へんげ)した形を「砕き」と呼んでいる。


 武蔵の「3つの構え」の意味について少し言及するが、新陰流を例えとすると、雷刀(大上段)にあげた時、頭の上中央に拳が位置するのが基本とすると、その左右に拳の位置を変えるにしても、太刀筋は3つとも平行に打つ素振りの方法がある。まっすぐ太刀を持つなら「砕き」はどちらかの肩の上から太刀の切っ先を垂直に落とすことになる。斜めの袈裟斬りも拳中央と左右の振り上げから三筋の斜め平行面で斬るという塩梅である。

 特に右肩上に振り上げた太刀をその垂直面に振り下ろすのは表太刀である「三学円之太刀」の二本目、「斬釘截鉄(ざんていせってつ)」で打太刀が遣う斬り方であり、卜伝流の「一之太刀(ひとつのたち)」の打ち方であると伝わっている。


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三十四


一 いわをの身と云事 34 (火:「いわをのみと云事」)


原文)

岩尾の身と云は,うごく事なくして,つよく大なる心なり。身におのづから万里を得て,つきせぬ処なれば,生有者は,皆よくる心有る也。無心の草木迄も根ざしがたし。ふる雨,吹風もおなじこゝろなれば,此身能々吟味あるべし。


大要)

 「巌(いわお)の身」ということは、動じること無く、強く大なる心を持つことである。おのずから広大な気が出てそれが尽きない。死にたくないものは皆避けるであろう。心がない草木も根が張れないほどだ。天から振る雨や吹く風も巌の身と同じ様に永遠だ。この身のことよくよく吟味せよ。


解釈)

 大要から岩の様に強く、雨や風の様に天地と一体である境地になれ、というニュアンスを受けるが、武蔵は身体的にもこう考えていたのだろうかと質問したくなる。


 少し例えが分かりづらい条である。

 新陰流には、私の考えではあるが、同じ境地を表現する言葉に「西江水(せいごうすい)」という言葉がある。禅語で、西江(中国語で「江」は長江をさすので多分、長江)の水を全て飲み干したら悟るための答えを与えようと言われた禅僧が、その言葉を聞いた瞬間、その場で悟りを得たという公案から取っている。

 つまり、自分の無限性を悟り、広大な心を持つ、というのが一つの説である。


 武蔵はそれを「巌」と言ったのだろう。


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三十五


一 期をしる事 35 (***,水:「直通のくらいと云事」参照)


原文)

期をしると云事は,早き期を知り,遅き期を知り,のがるゝ期を知り,のがれざる期を知る。一流に直通と云極意の太刀あり。此事品々口伝なり。


大要)

 「期を知る」とは、何事かをなすときに早すぎることを知り、また遅すぎたことを知り、敵から逃れる時を知り、逃れられない時を知ることだ。当流に「直通」という極意の形がある。このことは口伝であり外に漏らすな。


解釈)

 聖書に「どんなことにも時期がある」という言葉があるが、これは武蔵の哲学というものだろうか。諦観を表したものとも取れるが、これを表した時は息盛んなときであるから、「逃げられない時は逃げないで戦う」ということにする。「直通」という秘太刀があると言っている。刀法なのか心構えなのか武蔵に聞いてみたいものだ。


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三十六


一 万里一空の事 36 (空の巻)


原文)

万里一空の所,書あらはしがたく候へば,おのづから御工夫なさるべきものなり。


大要) 万里一空ということ、書き表すことは出来ない。自らご工夫せられよ。


解釈)

 三十五箇条なのだが、この最後の条は三十六番目である。締めくくりとして置いたようなので一条には数えないのかも知れない。「万里一空」は「五輪書」の「空の巻」に通じるのだろうか?経文とも禅の公案とも取れる章である。

 仏教で「色即是空」という言葉があるが、この世の無常を言い表したものと言われる。武道もこの世のものなれば、多くの達人、天才剣士がたどり着くのはやはり「空」の境地なのだろうか。


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(跋)


原文)

右三十五箇条は,兵法之見立心持に至るまで,大概書記申候。若端々申残す処も,皆前に似たる事どもなり。又一流に一身仕得候太刀筋のしなゞゝ口伝等は,書付におよばず。猶御不審之処は,口上にて申あぐべき也。

寛永十八年二月吉日

新 免 武 蔵 玄 信


大要)この三十五箇条に私の兵法のあり方、心持ちに至るまで大体書きました。書けなかったこともありますが、これらの条のどれかに似通っているでしょう。また私が一心に会得したいろいろな当流の太刀筋、口伝などは書いておりません。もしご不審の点があれば直接お答えいたします。

寛永十八年二月吉日

新 免 武 蔵 玄 信


解釈)

 やはり各条の細かな点は「口伝」であり、読んだだけではわからない太刀筋や剣理があることが分かる。しかし、簡単と言えども、三十五もの武道のヒントを示してくれたことは誠にありがたいことである。やや詳しいことは「五輪書」でも分かる。歴史に残ることである。

 柳生新陰流も、代々の宗家と門人たちがいろいろな書付を残してくれている。それが実戦的武道として現代まで残る要因になっている。最近まで柳生新陰流宗家は柳生石舟斎からの直系であった。現宗家は先々代宗家の甥に当たるので血はつながっている。


 なぜ、四百年も直系の継承が可能だったかと言うと、ある人いわく、宗家を尾張徳川家藩主と交互に継いだからだと言われる。つまり徳川家の宗家が柳生家の代変わりに存在したので、古い門弟が離れなかったということだろう。古い門弟が若い宗家についていかないということはままあることである。また長岡家という柳生家を補佐する特命を受けた家も存在したことも大きい。


 これで宮本武蔵が弟子に書き置いた「武蔵三十五箇条」の原文と、現代に伝わっている尾張柳生新陰流の技を参考にした大要訳と解釈を終える。

 武蔵の残した書物から推測される原理は柳生新陰流の稽古にも生かされ、継承されている。


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古武道夜話 武蔵三十五箇条之解釈 泊瀬光延(はつせ こうえん) @hatsusekouen

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