第八条~第十四条

#古武道夜話 #武蔵三十五箇条



一 心持之事 ⑧ (水:「兵法心持の事」)


原文)心の持様は,めらず,かゝらず,たくまず,おそれず,すぐに広くして,意のこゝろかろく,心のこゝろおもく,心を水にして,折にふれ,事に応ずる心也。水にへきたんの色あり,一滴もあり,滄海も在り。能々吟味あるべし。


大要)戦うときの心の持ち方は、「めらず」、慌てて相手を討とうとせず、あれこれ考えないで、恐れることなく、心を開いて、作為に凝り固まらず、集中して、水のような変幻自裁となり、相手の出方を見て対処するこころである。水には青さに変化があり、雫にもなり、大海にもなる。よく吟味せよ。


解釈)「めらず」という言葉が分からなかった。「めず」は好きになるということとすると、敵対する相手を感情の対象としてはいけない。あくまで敵である。ということだろうか。後に形容される数々の言葉で、平静さを保てというのが本質だろうと思う。

 新陰流に「西江水」(せいごうすい)という奥義があるが、西江(揚子江)の水をすべて飲むような気持ちを持てという臨済禅の公案から来ている。敵と対したときに全く動ぜず、稽古したことを平然とやりきる、という武士の心構えである。


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一 兵法上中下の位を知る事 ⑨ (***)


原文)兵法に身構有り,太刀にも色々構を見せ,強く見へ,早く見ゆる兵法,是下段と知るべし。又兵法こまかに見へ,術をてらひ,拍子能様に見へ,其品きら在て,見事に見ゆる兵法,是中段の位也。上段之位の兵法は,不強不弱,かどらしからず,はやからず,見事にもなく,悪敷も見へず,大に直にして,静に見ゆる兵法,是上段也。能々吟味有べし。


大要)兵法には構えが色々あるが、その太刀さばきにも色々ある。いかにも強く早く見えるが虚仮威しの兵法は「下段」である。

太刀さばきが細やかに見えて、権謀術策を弄し、その戦う拍子が良く、良いところも見え見事だなあと思う兵法はまだ「中段」の域である。

「上段」の位の兵法は、強く見えず弱く見えず、見え透いておらず、早くも見えず、見事というわけではなく、悪くも見えず、まっすぐに筋が通っていて静かに見えるものである。これが本当の上位の兵法である。よく吟味せよ。


解釈)武蔵が考える太刀の裁き、身体の働き、構えに「上中下」の順位を付けている。「下段」というのは構えの下段ではなく「格が下」ということだろう。敵に対した時にそう思うのか、門弟の試合を見ているときにそう思うのかは不明であるが、文中に「位(くらい)」という言葉が注目に値する。新陰流では「構え」という言葉はなく、その場で作る姿勢を「位」と呼ぶ。武蔵は他には「位」という言葉をあまり使っていないと思う。この条は技とは関係ないが「位」という概念があったので興味深かった。

 新陰流には「相手と自分が互角だ、と思ったら、相手の方が少し上手だと思え」という教訓がある。



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一 いとかねと云事 ⑩ (***)


原文)常に糸かねを心に持べし。相手毎に,いとを付て見れば,強き処,弱き処,直き所,ゆがむ所,はる所,たるむ所,我心をかねにして,すぐにして,いとを引あて見れば,人の心能しるゝ物也。其かねにて,円きにも,角なるにも,長きをも,短きをも,ゆがみたるをも,直なるをも,能知るべき也。工夫すべし。


大要)常に糸と矩尺(かねじゃく:直角のものさし)を心に持つこと。敵を見て、心の糸で、強い点、弱い点、優れた処、ねじれた点、虚勢、油断などを見て取れるようになれ。常にその様に観察すれば敵の心が推測出来るだろう。矩尺にては敵の完璧な点、危険な点、長所、短所、悪所、優れた点も分かるようになる。工夫せよ。


解釈)相手を観察するに当たり、武蔵は、大工が使う直線を計るための「糸」と直角を出す「かねじゃく」に「基準」を例えているようだ。まっすぐな糸にくらべ敵がどのような性格、技を持っているのか、かねじゃくにくらべ敵の完璧な点、完璧でない点をあぶり出せ、と教えている。技ではないが、相手をひたすら自分の経験に沿って観察することを教えていると思われる。

「敵を知れ」とは勝つための要件であるが、普段、我々はこんなことは忘れている。「安全な社会」の中で「守られている」という妄想を持っているからだ。昨今の人混みの中での襲撃事件はその虚を突いていると思える。友人や無害そうな人たちの中にいても、「糸とカネ」のことを思い出せと武蔵は警告しているのだろう。


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十一


一 太刀之道之事 ⑪ (水:「太刀の道と云事」)



原文)太刀の道を能知らざれば,太刀心の儘に振りがたし。其上つよからず。太刀のむねひらを不弁(わきまえず),或は太刀を小刀に仕ひなし,或はそくいべらなどの様に仕付れば,かんじんの敵を切る時の心に出合がたし。常に太刀之道を弁へて,重き太刀の様に,太刀を静にして,敵に能あたる様に,鍛錬有べし。


大要)太刀の「道」を知らないと太刀が心のままに振れない。強く振れないとか。刀の峯(みね)と腹(平たい部分)を使ったり、大刀をぶんぶんと振り回したり、あるいはそくいべら(続飯篦:米粒をつぶして練るへら)のように使う人は、肝心の敵を斬らねばならないときに気が入らないだろう。常に太刀の道をわきまえてその重さを知り、その重さを十分に利用して刃筋をまっすぐに敵に斬りつけるように鍛錬せよ。


解釈)武蔵が日本刀をどのように思っていたのかということが書かれていると思う。

 例えが「刀をへらの様に使う」などちょっと想像できないことが書かれているので私の意識との差がある。上の「大要」は正しい要約とはなっていないかも知れない。後半は実用的な面も考えているのであろうが、どの様に敵に勝てる様に斬りつけるかは他の条を見ないと分からない。

 「重き太刀の様に」は大刀は重いに決まっているので、他の意味があると思う。

 新陰流では振り上げた太刀は「重力」を利用して振り下ろせ(つまり腕の力でなく、自然落下する刀を、身体の動きで十二分に働かせる)、という教えがあり、太刀の道は「太刀筋」という言葉が使われる。

 「太刀を『静』にして」は武蔵の心の中では『正』かも知れない。こういう漢字の入れ替えは各流派の口伝書でも行われる。万一外部の人間が呼んでもわからないようにしてあるのだ。

 この太刀筋を正しく使うということは、実は、刀を持って戦う武道の本質に触れる部分なのだ。少し舌足らずの思いがする条であるが、多分武蔵は稽古中に「口伝」としてその提要を伝えたと思われる。


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十二


一 打とあたると云事 ⑫ (水:「打つとあたると云事」)


原文)打とあたると云事,何れの太刀にてもあれ,うち所を慥(たしか)に覚へ,ためし物など切る様に,おもふさま打事なり。又あたると云事は,慥なる打,見へざる時,いづれなりともあたる事有り。あたりにも,つよきはあれども,うつにはあらず。敵の身にあたりても,太刀にあたりても,あたりはづしても不苦。真のうちをせんとて,手足をおこしたつる心なり。能々工夫すべし。


大要)刀を敵に対し振る時に「打つ」と「当たる」ということがある。「打つ」とは打つ場所をしっかりと打ち、試し切りを切るときのように精確に、心に描いたように打つことである。「当たる」ということはそれ以外の話で、強く当たったといっても真の「打ち」ではない。敵の体に刀が当たっても刀に当たっても、はずしても何の意味もない。真の「打ち」をするためによく心がけをするべきだ。よく工夫せよ。


解釈)敵の体を斬ろうとしても正しい太刀筋で精確に斬らねば、戦いに勝つことは出来ないという教訓であろう。武蔵が各所で言うように相手を倒すという強い意志がなければ生き残れない。お互い助かろうとかの優しい性格では駄目だということで、武蔵はさらっと死闘という異常事態の心構えを言っていることを理解しなければならない。


何故竹刀や木刀の稽古の他に「抜刀」の稽古が必要かというと、丸い竹刀や厚みがある木刀では本当の「太刀筋」が確認できない。対象物に「刃が垂直に」当たらねばお互いに見苦しい戦いになる。太刀筋が出来てこそ、「武士らしい」戦いが出来るというものだ。


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十三


一 三ツの先と云事 ⑬ (火:「三つの先と云事」)


原文)三ツの先と云は,一ツは,我敵の方へかゝりての先也,二ツには,敵我方へかかる時の先,又三ツには,我も懸り,敵も懸る時の先,是三ツの先なり。我かゝる時の先は,身は懸る身にして,足と心を中に残し,たるまず,はらず,敵の心を動かす,是懸の先也。又敵懸り来る時の先は,我身に心なくして,程近き時,心をはなし,敵の動きに随ひ,其儘先に成べし。又互に懸り合時,我身をつよく,ろくにして,太刀にてなり共,身にて成共,足にて成共,心にて成共,先になるべし。先を取事,肝要也。


大要)先(せん)を取る、という言葉があるが、3つの先がある。一つは自分が敵に先に斬りかかる時の先、2つ目は敵が先に自分に切りかかってくる時の先、3つ目は双方が斬りかかる先である。自分が先にかかるときは体は掛かる姿勢にして足と心はそのままにして気迫を持って相手の心を動かす。これは懸(けん)の先という。敵が先に切り込んでくるときは落ち着いて間合を取って敵の撃ってくるところを判断してそのまま先を取るべし。互いに掛かり合う時は体を正しく保ち、太刀、身体、足、心で先を取る。先(せん)を取るという心構えが肝要だ。


解釈)この条は「先」を取る方法だが、武蔵の斬り合いの想定に矛盾がある。


 一番目のように自分から切り込むのは新陰流では「殺人刀(せつにんとう)」といって、「間合いに入ればためらわず打つ」ということになる。ところが武蔵の言うには、「足と心はそのままに」つまり間合の外に残し、「身は掛かる」すなわち撃て、ということになる。多分、素人がこの条のとおりにすると、前かがみになって打ち込むのではないだろうか?

 前かがみとかへっぴり腰は武蔵が「居付く」体勢として最も嫌うところである。この最初の先の教えはこのまま解釈すると矛盾が生じる。だが「敵の心を動かす」という最後の教えで柳生新陰流の「打つ気を見せて」相手を先に動かす、と通じるのである。


 二番めは新陰流の剣理そのものの場面だ。新陰流はこちらが相手に打たせたいところ(頭、拳、肩など)を「餌」として見せ、そこを打ってきた所を返して勝つという「活人剣(かつにんけん)」が基本的な剣理なのだ。しかし再び武蔵の書きぶりが矛盾を孕んでいる。相手が先に斬り込んでくる時の「先」とはなんだろう?武道では戦う前にすでに「先」を取っていなければならない。それでこそ、相手の動きに従って先を取ることができるだろう。相手より動きを早めれば良いと解せるが、相手のスピードをどう見極めるのであろう?ここで矛盾を避けて解釈すれば、「相手が先に撃ってきても既にそれを承知で勝ち(先)を取れ」と言っているように思える。どこを相手が斬ってくるのかを知らねば、常に勝つことは出来ない。新陰流では相手の心になり変わって相手の動きを予測する「捧心」という教えがある。「心をはなし」という言葉はこれに当てはまるような気がする。つまり自分の構えにスキを作り、そこを確実に打たせる策略なのである。武蔵の実戦哲学は読んだだけではわかるものではないが、武道とは「勝たねば」意味がないのである。


 三番目の互いに同時に斬りかかる場面は、相手のスピードよりも早く体を動かして「先を取れ」と言っているように聞こえる。当たり前じゃないかと思うだろう。だが、どちらも重い真剣を持って振り下ろす場合に、こんな危険なことは避けたいものである。相手のスピードが勝っていたらどうするのだ?こちらの動きが早く勝っても無傷にはすみそうにない。「体を正しく保ち、太刀、身体、足、心で先を取る」と武蔵は書いているが、相手も斬り込んでくる状況でこれをせよとはどういうことだろう。「体を正しく保ち」などは別に特別の話ではないことは、ここまで読んだ読者には明らかだ。

 この文の意味は、「白刃の下に身が晒されても、恐れもなくただ稽古どおりにやれ」という教えなのかもしれない。それならば柳生新陰流の心構えに通じるのである。


 こう解釈していくと、「先」の場合分けは単純な組み合わせてあり、この条の本質は、共通の「心構え」であると考えざるを得ない。

 この条の言葉通りの解釈は、武蔵が実演するときの「想定」を見てはじめて納得できることと思える。だが、この3つの場合は武道には共通のことであることも認識すべきである。


 柳生新陰流にも同じような3つの「先」の教えがあり、日々稽古する組太刀や試合勢法に含まれている。「先を取る」、「先先を取る」、「先先の先を取る」などと(正しい言い方ではないと思うが)稽古中に聞く。武道ではこの3つの「勝ち口」は日々稽古して当たり前でああり、武蔵もそう考えていたに違いない。


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 そもそも「先を取る」ということはどういうことなのか?


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 一番目の「先」は、相対してこちらが攻撃姿勢を見せて相手が動いてきた処を勝つが、この技は「試合勢法」という日々の稽古に組み込まれている。試合勢法の最初の「合撃(がっしうち)」という形があるが、お互い雷刀(高い上段)で互いに歩み寄り、打太刀が先に真っすぐ打ってきてその太刀の「上に乗る」ように遅れて使太刀は打ち出し、勝つという極意そのものの技であるが、現在は使太刀は打太刀が打つのを待っている。だが口伝書によると、使太刀は「打つ気」を先に見せるとある。これは武蔵が言っていることと全く同じで、足はそのまま、上半身を少し前に倒し、攻撃を仕掛ける様子を見せ打太刀を誘うのである。今はそうしなくなったのだが、その後にある「蝉翼刀(せんよくとう)」と呼ばれる形に似たような「先の先」を取る技がある。こちらは雷刀の腕と頭を間合の中に浅く入れてしまう。




新陰流は稽古するときに「打太刀」と「使太刀」に分かれて行う。使太刀は主に修行中の門人で熟練者の「打太刀」に斬り掛かって貰って返して勝つという「活人剣」を修練する。そのときに、頭や拳に隙を見せて打太刀にそこを打ち込ませるという意識が必要だ。


 逆に「打太刀」は主に先に斬りかかる方(殺人刀)を修練していることになる。お互い「達人」となった状況を想定して「活人剣」と「殺人刀」を演じているわけである。だが、熟練者同士になると「殺人刀」は本気の打ちになってくる。下手に受けると「使太刀」は痛く打たれてしまうのである。また、「使太刀」が間合に入ってもたもたしていると「打太刀」が先に打ち勝って「それじゃだめじゃないか!」と叱咤されることも頻繁にある。



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十四


一 渡をこすと云事 ⑭ (火:「とをこすと云事」)


原文)敵も我も互にあたる程の時,我太刀を打懸て,との内こされんとおもはゞ,身も足もつれて,みぎはへ付べき也。とをこして,気遣はなき物也。此類跡先の書付にて,能々分別有るべし。


大要)敵と自分が互いに刀を振れば当たる距離の時、相手を打った瞬間(もちろん、相手は受けて止めた場合)に相手の懐に入ろうと思えば、体も足も同時に相手の体に付けることが必要だ。間合を一気に詰めることを「渡をこす」と言って、相手のことなどを考える暇はない。これは後からも書くので、よく理解しておけ。


解釈)武道は間境(間合)という概念がある。一足踏み出して刀を振れば相手に当たり、自分にも相手の刀が当たる距離のことだ。しかし場合によっては微妙に間境は異なる。獲物の長短、歩幅、相手の跳躍力などでその場で判断しなければならない。現代剣道はすでに間境をお互いに超えた(相手と近くなる)ところから始める。蹲踞したときにすでに交刃境(こうじんきょう:刀の先端がすでに交わっている距離)に入っている。


 武道はそれとは異なり流派にもよるが大体10mほど離れたところから近寄って稽古する。そして間境に到達したところで勝負するのだ。


 「渡をこす」という言葉は新陰流の口伝でもよく引き合いに出る。新陰流は大刀を持って稽古を始め、最終的には「無刀」の位に到達するのが理想だ。相手が大刀を持って斬り掛かってくるのを、斬りかからせて(相手の刀を)「取る」、斬りかかる起こり(予兆)の先を取る、などの技を修練する。


 だが相手の刀を取るにはそれだけ相手の懐に飛び込まねばならない。それを「渡をこす」と呼んでいる。後に「漆膠(しっこう:うるしとにかわでくっつく)の事」など類似の教えがある。

 柳生新陰流で日々稽古する「試合勢法」にその教えを取り入れたと思われる技がある。「気遣はなき物也」を「相手のことは気にするな」と解した。新陰流の場合、相手の懐に入るときに、相手の足を踏む、肘で相手の顎を打ち上げる、肩で相手の胸をどつく、などの意識を持てと教えられる。


 もちろん、稽古であるからやってはいけない。


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