第八話 クラーク軍曹

 翌朝、空気はまだ冬の名残を含んでいた。


 湖面には薄い霧がたち、官舎の窓硝子を曇らせている。白いものが世界を覆う朝だった。白い霧、白い壁、白いシーツ。祝宴の名残りも、真珠の照りも、こういう朝の前ではひどく遠い。


 エイサは鏡台の前に座り、しばらく自分の首元を見ていた。


 昨夜のうちに外した真珠は、鏡の横に置かれている。小箱へ戻されもせず、ただ薄い光を抱いていた。美しいものは、そこにあるだけで秩序の顔をする。だが今の彼女には、その整い方が少しだけ恐ろしかった。


 今日は首に何もかけなかった。


 かわりに、濃い色の外套を羽織る。腹の前に手を置く癖が、いつの間にかついてしまっている。まだ誰の目にもはっきり分かるほどではない。けれど、自分の身体はもう、自分ひとりの輪郭ではなかった。


 部屋の外で、控えめにノックがした。


 開けると、あの年長の看護婦が立っていた。いつもどおり隙のない姿勢で、いつもどおり感情をウールのワンピース型の制服の内側へ畳み込んだ顔をしている。共和国が衛生面や利便性で服制の歴史に置いてきた看護婦制帽が、とても頼もしく見えた。


 「こちらへ」


 夫人、ではなかった。

 中尉、でもない。


 呼称を省いたのは、今日の用件がどちらの身分にも収まりきらないと知っているからだろう。


 エイサは小さく頷き、彼女のあとを歩き出した。



 帝国軍病院の廊下は、驚くほど静かだった。


 軍の病院なのに、野戦病院のような慌ただしさがない。足音の吸われる床。均一に並ぶ白灯。薄い消毒薬の匂い。すべてが整いすぎていて、かえって現実感を失わせる。


 ――ここでは、死さえも整列させられるのだろうか。


 エイサはそんなことを思った。


 少し先で、若い看護助手が待っていた。二十歳そこそこに見える。淡い金髪をきっちりと結び、緊張をそのまま肩に乗せたような立ち方をしている。


 彼女はエイサを見ると、息を止めたような顔になった。仕立てのいい外套を着た、髪や肌をよく手入れされた“毛色“の違う美しい女。


 年長の看護婦が、静かに告げた。


 「防護衣を」


 若い助手が慌てて、白い上着と薄い手袋を差し出してくる。エイサは黙って受け取った。袖を通し、紐を結ぶ。そういう手順だけは、軍隊にいたころと変わらず身体が覚えている。


 若い助手は、その様子を見ながら、小さな声で言った。


 「本当に……」


 問いはエイサではなく、年長の看護婦へ向けられていた。


 「記録には残りません」


 年長の看護婦は短く答える。


 それだけで、十分だった。


 見なかったことにされる。

 だが見なかったことにはしない。

 そういう女たちだけの曖昧な合図が、もうここにある。



 病室は、白かった。


 壁も。寝具も。光も。

 死に近い人間を置くには、あまりに清潔すぎる空間だった。


 ベッドの上に横たわるクラーク軍曹は、ひどく痩せて見えた。頬は落ち、唇は乾き、閉じた瞼の下には濃い影がある。だが、その骨格にはたしかに面影が残っていた。


 射撃場で、照準を覗き込むときの真剣な横顔。

 命中のあと、得意そうに肩を竦める癖。

 背が高く、歩幅が大きく、ヘーゼルの目に陽を映して笑った若い軍曹。


 私は少尉だった、軍曹より少尉の方が階級章では偉いのだが、幹部軍人はジェネラリストとして育てられるが、曹はちがう、現場のスペシャリストなのだ。彼女はよく言っていた「少尉さん、机ではなくて、人を見なさい。私たちは貴方の一言で生きるし、死ぬのよ」と。


 なにも命じていないのに、クラークはあまりにも静かに横たわっている。


 エイサはベッドの脇まで歩み寄った。


 カルテが、無造作に置かれていた。視線だけで追う。


 敗血症。

 多剤耐性菌感染。

 重度裂傷。

 予後不良。


 整いすぎた字だった。医師の筆跡は、いつも事実をきれいに並べる。そこに至る経緯の醜さには、ほとんど触れずに。


 「……クラーク軍曹」


 呼びかける。


 返事はなかった。


 だが胸は、まだかすかに上下している。

 それが残酷だった。生きているからこそ、どこまで壊されたのかが分かってしまう。


 年長の看護婦が、低い声で言った。


 「鎮静は保っています。高熱の波があり、時々、かなり強く錯乱します」


 若い助手が、その言葉を継ぐように、けれど途中で口をつぐんだ。


 「……眠っていない時は、何かを拒むように腕を振るんです。誰かに触れられるのを、怖がっているみたいに」


 それを聞いて、エイサは目を閉じなかった。


 目を閉じれば、自分の頭の中で、勝手に補われてしまうものがあるからだ。想像は時に事実より優しく、時に事実より残酷だ。いま必要なのは想像ではなく、この部屋にある現実だけだった。


 彼女は手袋越しに、クラークの手へ触れた。


 冷たい。けれどまだ、人の温度が消えきってはいない。


 「ここにいるわ」


 その言葉は、自分でも驚くほど穏やかだった。

 命令ではない。慰めでもない。

 ただ、同じ部隊にいた者の声。


 「…貴女様は誰なのですか?」


 若い助手が、思わずそう呟いた。

 彼女は、今やっと、この黒髪の女を“夫人”ではなく見始めたのだろう。


 エイサは答えなかった。答えるより先に、クラークの唇がほんのわずかに動いたからだ。


 乾いた唇が、かすかに震える。


 エイサは身をかがめた。耳を近づける。吐息のような、ほとんど音にならない空気。


 「……ちゅ……い……」


 中尉。


 そう聞こえた気がした。


 その一語だけで、時間が止まる。


 階級が、残っている。

 名前が、残っている。

 部隊の記憶が、まだこの女の中に残っている。


 エイサは、手袋の上から強く指を握り返した。


 「ここにいる。分かる? 私はここにいる」


 自分が、誰に向かって言っているのか分からなかった。クラークへなのか、自分へなのか、それとも、あの夜から消えずにいる無数の女たちへなのか。


 クラークの呼吸は、ひとつ浅くなった。


 次は、さらに弱く。


 そして、長く吐き出されたあと、戻ってこなかった。


 若い助手が、はっと口を押さえる。泣き声だけは飲み込んだ。帝国で働く女は、声を上げて泣く前に、その方法を失うのかもしれない。


 年長の看護婦は、短く時刻を記した。職務としての手つき。だが、その手元はほんのわずかに遅かった。


 エイサは涙が出なかった。


 泣くには、まだ怒りの方があまりに鮮明だった。

 悲しみは、胸の奥で凍っている。凍ったまま、別のかたちへ硬くなっていく。



 しばらく、誰も話さなかった。


 部屋の中には、止まった呼吸のあとの静けさだけが広がっている。死とは、絶叫ではなく、時々こういう静けさのかたちでやってくる。


 やがてエイサが口を開いた。


 「……この人を、名前のあるまま扱ってください」


 若い助手が、驚いたように顔を上げる。


 年長の看護婦は、すぐには答えなかった。

 できることと、していいこと、その境界を頭の中で測っている顔だった。


 「埋葬は、できません」


 やがて彼女は言った。


 「ここは帝国の軍病院です。敵兵の遺体を勝手に埋葬すれば、それだけで複数の規則違反になる」


 「分かっています」


 エイサは即答した。


 「では、番号で運ばないでください」


 その一言に、部屋の空気が少し変わる。


 「氏名と階級を記録に残して。処理番号ではなく。誰の遺体か分かるように」


 若い助手が小さく息を呑んだ。そんなことが可能なのか、というより、そんな発想をしたこと自体がなかったのだろう。


 年長の看護婦は、クラークの顔を見下ろした。


 「……それは」


 言いかけて、止まる。


 不可能とは言わなかった。

 その“止まり方”だけで、エイサには分かった。道はある。ただし、そこには印が要る。署名が要る。自分たちより上の、権限の重みが。


 「書式があるなら、できます」


 エイサは静かに続けた。


 「できないのではなく、“やらない”だけです」


 軍人の声だった。

 感情ではなく、手順を知る者の声。


 若い助手は、クラークのシーツを整えながら、ぽつりと零した。


 「どうして……女ばかり……」


 それは問いではなかった。吐き出してしまっただけの言葉だった。


 「どうして、戦争になると、女はこんなふうにされるんでしょう?」


 年長の看護婦が、彼女を咎めるように見た。だが咎めはしなかった。たぶん同じ問いを、ずっと胸の中で持ってきたのだ。


 若い助手は、怖がりながらも続けた。


 「下の病棟では、ずっと噂になっています。占領地の女たちが、どこかへ連れていかれているって。兵士の相手をさせられるとか、もっと……別の目的があるとか…

以前皇后陛下が仰ったそうです、女はパンドラでもマリアでもない、と」


 若い彼女は雄弁だった、看護助手として敵味方問わず惨劇を目の当たりにして本当に怒っているんだろう。


 「……噂は消えません」


 彼女はゆっくりと言う。そして皇后という女に、なぜか苛立った。若い助手に浮かされたのだろう、思わずなら止めてよ、と叫びそうになった。


 「口を塞いでも、場所を変えて続きます。女たちのあいだでは、特に」


 若い助手が、目を見開く。


 「でも、誰も止められない」


 「今はね」


 エイサはクラークの手から、そっと自分の指を離した。


 「でも、叫びは、やがてシュプレヒコールになる」


 それは演説ではなかった。

 むしろ、自分へ言い聞かせるような小さな声だった。


 年長の看護婦が、その言葉を聞いて、ごくわずかに目を伏せた。

 彼女もまた、分かっているのだろう。白衣のままでは、戦争は止められない。だが白衣の中で見たものが、いずれどこかの秩序を腐らせることはある。



 病室を出る前に、エイサはもう一度だけ振り返った。


 クラーク軍曹は、ようやく静かな顔をしていた。

 それが救いかどうかは分からない。

 ただ、苦痛の形だけは、いまこの瞬間だけ、彼女の顔から薄れていた。


 「……軍曹」


 呼びかけても、もちろん返事はない。


 それでもエイサは、その名を心の中で繰り返した。

 エイヴァ・クラーク軍曹。

 共和国空軍の兵士。

 名前のある女。

 番号ではない。


 病室の扉が閉まる。


 白い廊下へ戻ると、現実はまた、呼吸しやすい顔をして待っていた。整った壁。整った灯り。整った足音。ここでは悲惨ささえ、すぐ外から見えなくなる。


 若い助手が、見送るように一歩だけ近づいた。


 「……本当に、記録を残せるんでしょうか」


 エイサは立ち止まった。


 今の自分にできることは、多くない。

 自分の名前さえ、もう共和国では消されつつある。

 そんな女が、他人の名を守ると言うのは滑稽かもしれない。


 それでも、言わなければならなかった。


 「残します」


 言い切ると、若い助手の目が揺れた。

 希望と、恐れと、信じたい気持ちが一度に浮かぶ目だ。


 「どうやって……?」


 その問いには、すぐには答えられなかった。


 答えは、もう見えている。

 この国の中で、名前を残すには、この国の印が要る。

 書式を動かし、規則を曲げずにねじ曲げるだけの、重い署名が要る。


 そして、その署名を持つ男の顔を、エイサは知っている。


 白い髪。

 薄い青の目。

 壊し、奪い、だがときどき残すこともできる男。


 「……方法は、あるわ」


 それだけ答えて、彼女は歩き出した。



 病院を出ると、冬の空気が肺の奥に痛かった。


 官舎へ戻る車の窓から、帝都の白い街が流れていく。運河の水は黒く、橋の欄干は冷たく光っていた。どこも変わらず整っている。たった今ひとつの命が消えたことなど、この街は少しも知らない顔で存在している。


 エイサは、外套の上から腹へ手を置いた。


 内側には、小さな鼓動がある。

 病室には、名前を残さなければならない死がある。

 そのあいだに、自分がいる。


 中尉としては、もうどこにも記録されない。

 夫人としては、まだ何も受け入れきれていない。

 母としても、未完成だ。


 それでも、今日の病室で、はっきりしたことが一つだけあった。


 自分は、このままただ囲われて終わるつもりはない。


 奪われた名が戻らなくてもいい。

 だが、せめて消される名をひとつずつ拾うことはできる。

 それがどれほど小さくても、それはたしかに仕事だ。


 官舎に着くと、湖は夕方の色へ沈みはじめていた。


 部屋へ戻る前に、エイサは一度だけ立ち止まり、水面を見た。

 さざなみは穏やかで、何事もなかったように光を散らしている。

 あの夜、自分はこの湖の光の中で、自分の名前を失った。

 けれど今日、別の女の名前だけは、まだ手放していない。


 その事実が、胸の中で細い刃のように立つ。


 痛い。

 だが、立っていられる痛みだった。


 部屋の扉を開ければ、また帝国の官舎の静けさが待っているだろう。

 あの男も、たぶん、何も聞かずにこちらを見るだろう。

 説明も慰めもないまま、それでも必要な場所へ自分を戻すように。


 その前に、エイサは喉元に手をやった。


 今日は何もかかっていない。

 首は軽い。

 だが軽いままではいられないことも、もう分かっている。


 彼女は静かに息を吸い、扉を開けた。


 明るくもなく、暗すぎもしない部屋の奥で、夜はまだ始まっていない。


 けれどエイサの中では、もう次の夜が始まっていた。


 ――名前を残すには、あの男の署名が要る。


 その現実だけが、ひどく冷たく、ひどく確かだった。

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