第九話 クラーク軍曹

翌朝、空気はまだ冬の名残を含んでいた。


 湖面には薄い霧が立ち、官舎の窓硝子を曇らせている。白いものが世界を覆う朝だった。白い霧、白い壁、白いシーツ。祝宴の名残も、真珠の照りも、こういう朝の前ではひどく遠い。


 エイサは鏡台の前に座り、しばらく自分の首元を見ていた。


 昨夜のうちに外した真珠は、鏡の横に置かれている。小箱へ戻されもせず、ただ薄い光を抱いていた。美しいものは、そこにあるだけで秩序の顔をする。粒の大きさも、色も、照りも揃い、何ひとつ乱れていない。


 今日は、首に何も掛けずに行きたかった。


 けれど帝国軍病院の玄関を通るのは、アサ・イオトセ中尉ではない。


 産科の追加診察を受ける、フォン・ファーレンハイト大佐夫人だった。


 エイサは真珠を持ち上げた。


 冷たい粒が、指のあいだで微かに擦れ合う。自分で首へ回し、留め具へ指を伸ばす。だが爪先が金具へうまく掛からない。右手首にはまだ鈍い痛みがあり、細かな動作をすると力が抜けた。


 部屋の外で、控えめにノックがした。


 開けると、昨日の看護曹長が立っていた。


 いつもどおり隙のない姿勢で、いつもどおり感情をウールのワンピース型制服の内側へ畳み込んだ顔をしている。共和国では衛生と実用の名のもとに廃された古い看護婦制帽が、今朝はひどく頼もしく見えた。


 看護曹長は、エイサの手元を見た。


 何も言わず、背後へ回る。


 真珠を受け取り、うなじの留め具を閉じた。


 パチン、と小さな音がした。


 昨日は夫の手だった。


 今朝は、帝国の医療制度を知る女の手だった。


 同じ輪でも、使い道は違う。


 「こちらへ」


 夫人、ではなかった。


 中尉、でもない。


 呼称を省いたのは、今日の用件がどちらの身分にも収まりきらないと知っているからだろう。


 エイサは濃い色の外套を羽織った。


 腹の前へ手を置く癖が、いつの間にかついてしまっている。まだ誰の目にも分かるほどではない。けれど自分の身体はもう、自分ひとりの輪郭ではなかった。


 二人は、何も話さず官舎を出た。


     ▽


 軍医局の車は、七時四十分を少し回った頃、帝国軍中央病院の正面玄関へ横づけされた。


 車体の紋章を見て衛兵が姿勢を正す。看護曹長が産科の追加診察票を示す。受付の女は、書類を読むより先に、エイサの真珠と左手の指輪を見た。


 その視線だけで、身分照会の半分は終わったらしい。


 「フォン・ファーレンハイト大佐夫人ですね」


 「はい」


 その一語を言うために、昨日は真珠を外さなかった。


 今朝は自分から着けた。


 受け入れたわけではない。


 けれど、受け入れた女のように振る舞わなければ、開かない扉がある。


 受付を抜け、産科棟へ入る。問診室を一つ通り過ぎ、職員用の連絡廊下へ入ったところで、看護曹長が足を止めた。


 「ここからは、外してください」


 エイサは喉へ手を上げた。


 「必要だったのではないの」


 「ここまでは」


 感染管理区画へ宝飾品は持ち込めない。


 看護曹長は真珠の留め具を外し、用意していた白い布へ包んだ。布包みをエイサの外套の内ポケットへ入れる。


 皮膚へ残った真珠の冷たさが、少しずつ消えていった。


 ここから先、首には何も掛けなかった。


 認識票もない。


 真珠もない。


 階級章も、夫の名を示すものもない。


 それでも歩いた。


 帝国軍病院の廊下は、驚くほど静かだった。


 足音の吸われる床。均一に並ぶ白灯。薄い消毒薬の匂い。すべてが整いすぎていて、かえって現実感を失わせる。


 ――ここでは、死さえも整列させられるのだろうか。


 エイサはそんなことを思った。


 少し先で、若い看護助手が待っていた。まだ十七、八歳ほどに見える。淡い金髪を二本の三つ編みにし、緊張をそのまま肩へ載せたような立ち方をしている。


 彼女はエイサを見ると、息を止めたような顔になった。


 仕立てのよい外套を着て、髪や肌をよく手入れされた、毛色の違う美しい女。先ほどまで上等な真珠を掛け、軍用車で運ばれてきた大佐夫人。


 それがいま、何もない首で立っている。


 看護曹長が静かに告げた。


 「防護衣を」


 若い助手は慌てて、白い上着と薄い手袋を差し出した。


 エイサは黙って受け取る。袖を通し、紐を結ぶ。そういう手順だけは、軍隊にいた頃と変わらず身体が覚えていた。


 若い助手は、その様子を見ながら小さな声で言った。


 「本当に……」


 問いはエイサではなく、看護曹長へ向けられていた。


 「記録には残りません」


 看護曹長は短く答えた。


 それだけで十分だった。


 見なかったことにされる。


 だが、見なかったことにはしない。


 そういう女たちだけの曖昧な合図が、もうここにある。


     ▽


 病室は、白かった。


 壁も。寝具も。光も。


 死に近い人間を置くには、あまりに清潔すぎる空間だった。


 寝台の上に横たわる女は、ひどく痩せて見えた。頬は落ち、唇は乾き、閉じた瞼の下には濃い影がある。


 だが、その骨格には確かに面影が残っていた。


 射撃場で照準を覗き込む時の、真剣な横顔。


 命中のあと、得意そうに肩を竦める癖。


 背が高く、歩幅が大きく、ヘーゼルの目へ陽を映して笑った若い軍曹。


 クラークは署名欄へ、いつも《AVA》と大きすぎる字で名を書いた。Aの最初の一画が罫線からはみ出し、経理兵が《EVA》と打った書類を見つけるたび、太い鉛筆で線を引いた。


 ――エヴァじゃない。エイヴァ。三文字しかないのだから、間違えないで。


 当時、アサは少尉だった。


 階級章だけなら、軍曹より少尉の方が上だった。だが幹部軍人はジェネラリストとして育てられる。下士官は違う。現場の手順と、人間の限界を知る専門家だった。


 クラークはよく言っていた。


 ――少尉さん、机ではなく、人を見なさい。


 ――私たちは貴女の一言で生きるし、死ぬのよ。


 その女が、いまは何も命じられることなく横たわっている。


 エイヴァ・クラーク軍曹。


 エイサは寝台の脇まで歩み寄った。


 カルテが置かれていた。視線だけで追う。


 敗血症。


 多剤耐性菌感染。


 重度裂傷。


 予後不良。


 整いすぎた字だった。


 医師の筆跡は、いつも事実をきれいに並べる。そこへ至る経緯の醜さには、ほとんど触れずに。


 「……クラーク軍曹」


 呼びかける。


 返事はなかった。


 だが胸は、まだかすかに上下している。


 それが残酷だった。生きているからこそ、どこまで壊されたのかが分かってしまう。


 看護曹長が、低い声で言った。


 「鎮静は保っています。高熱の波があり、時々、かなり強く錯乱します」


 若い助手が、その言葉を継ぐように、けれど途中で口をつぐんだ。


 「……眠っていない時は、何かを拒むように腕を振るんです。誰かに触れられるのを、怖がっているみたいに」


 それを聞いて、エイサは目を閉じなかった。

 目を閉じれば、自分の身体が先に思い出してしまう。


 あの午後、男の力の差を知り、呼吸まで小さくして耐えた時のことを。


 だがクラークの身に何があったのかを、自分の記憶で埋めてはいけない。


 想像は時に事実より優しく、時に事実より残酷だった。


 いま必要なのは、想像ではない。

 この部屋にある現実だけだった。

 エイサは手袋越しに、クラークの手へ触れた。


 「ここにいるわ」


 その言葉は、自分でも驚くほど穏やかだった。

命令ではない。

 慰めでもない。


 ただ、同じ部隊にいた者の声だった。


 クラークの唇が、ほんの僅かに動いた。


 乾いた唇が震える。


 エイサは身を屈めた。耳を近づける。


 吐息のような、ほとんど音にならない空気。


 「……ちゅ……い……」


 中尉。


 そう聞こえた。


 その一語だけで、時間が止まった。

 階級が、残っている。

 名前が、残っている。

 エイサは、手袋の上から強く指を握り返した。


 「ここにいる。分かる? 私はここにいるわ、軍曹」


 自分が誰に向かって言っているのか、分からなかった。


 クラークへなのか。


 自分へなのか。


 それとも、あの夜から消えずにいる無数の人たちへなのか。


 クラークの呼吸は、一つ浅くなった。

 そして長く吐き出されたあと、戻ってこなかった。病院船で死んでいく捕虜はみんな驚いたような顔をしていたものだが、クラークの顔は静かだった。


 看護曹長が頸動脈へ指を置く。


 一分間、そのまま待った。


 呼吸を確かめ、瞳孔を見て、壁時計へ目を上げる。


 「〇八一八」


 若い助手が、震える指で時刻を記した。


 職務としての手つき。


 だが、数字を書き終えるまでに、二度も鉛筆を持ち直した。


 エイサは涙が出なかった。


 泣くには、まだ怒りの方があまりに鮮明だった。


 悲しみは胸の奥で凍っている。


 凍ったまま、別の形へ硬くなっていく。


     ▽


 しばらく、誰も話さなかった。


 部屋の中には、止まった呼吸のあとの静けさだけが広がっている。


 死とは、絶叫ではなく、時々こういう静けさの形でやってくる。


 やがてエイサが口を開いた。


 「……この人を、名前のあるまま扱ってください」


 若い助手が、驚いたように顔を上げる。


 看護曹長は、すぐには答えなかった。


 できることと、してよいこと。その境界を頭の中で測っている顔だった。


 「この方は、身元不明として救急収容されています」


 「衣服から姓と階級が出たのでしょう」


 「仮記載はできます。ですが敵国軍籍を確定すれば、記録は自動的に軍保安部へ回り、遺体も病院の管理を離れます」


 エイサはクラークの顔を見た。


 「記さなければ?」


 「感染性遺体の処理番号だけです」


 名を書けば、保安部へ奪われる。


 書かなければ、番号になる。


 帝国の手続きは、どちらを選んでも一人の女が消えるようにできていた。


 「では、氏名と階級を記して、ここへ留めてください。第三国監察官が確認するまで」


 看護曹長は、クラークの顔を見下ろした。


 「それには、軍保安部への移管を止める留保命令が要ります」


 不可能とは言わなかった。


 その答え方だけで、エイサには分かった。


 道はある。


 ただし、そこには印が要る。


 自分たちより上の、権限の重みが。


 「書式があるなら、できます」


 エイサは静かに言った。


 「できないのではなく、決裁できる者がここにいないだけです」


 軍人の声だった。


 感情ではなく、手順を見る者の声。


 若い助手はクラークのシーツを整えながら、ぽつりと零した。


 「どうして……戦争になると、女は、女であることまで使って壊されるのでしょう」


 問いではなかった。


 吐き出してしまっただけの言葉だった。


 看護曹長が、彼女を咎めるように見た。


 だが、咎めはしなかった。


 「同じ軍の兵が、従軍看護婦へ卑劣なことをしたという話も聞きました。占領地から運ばれてくる女の人たちにも……」


 声が震えた。


 「皇后陛下は、女はパンドラでもマリアでもないと仰ったのに。一人の臣民として、生き、働き、傷つき、責任を負う者だと」


 若い娘は、本気でその言葉を信じているのだろう。

 だから、目の前の矛盾にこれほど傷ついている。


 なら止めてよ。


 貴女の権力で。


 エイサの頭には、共和国のニュースで見た皇后の顔が浮かんだ。意志の強そうな濃い眉。戦時下の女たちを励ます言葉。だが公の肖像ではいつも皇帝の隣へ妻として立ち、帝国の母と呼ばれていた。


 パンドラでもマリアでもないと語る女まで、国家からマリアの位置へ戻される。


 帝国は女の能力を否定してはいない。ただ、看護、通信、記録、兵站――男の戦争を支える位置に限って用いていた。


 エイサは若い助手を見た。


 「なら、覚えていて」


 「……何をですか」


 「この人の名前と、ここで見たことを」


 エイサはクラークの冷え始めた手へ、もう一度視線を落とした。


 「叫びは、聞かなかったことにされます。けれど名前と時刻が紙に残れば、あとから証言になる」


 若い助手は、目を伏せた。


 それから、自分がいま書いた時刻を見た。


 〇八一八。


 その数字の横へ、ごく小さく、まだ仮名のままの姓を書き添える。


 「……書式を探します」


 看護曹長が言った。


 若い助手ではなく、エイサへ向けた言葉だった。



     ▽


 病室を出る前に、エイサはもう一度だけ振り返った。


 クラーク軍曹は、静かな顔をしていた。


 それが救いかどうかは分からない。


 ただ、苦痛の形だけは、いまこの瞬間、彼女の顔から薄れていた。


 「……軍曹」


 呼びかけても、もちろん返事はない。


 それでもエイサは、その名を心の中で繰り返した。


 エイヴァ・クラーク軍曹。


 共和国空軍の下士官。


 名前のある女。


 家族のいた女。


 番号ではない。


 戦利品でもない。


 病室の扉が閉まる。


 白い廊下へ戻ると、現実はまた、呼吸しやすい顔をして待っていた。整った壁。整った灯り。整った足音。ここでは悲惨ささえ、すぐに外から見えなくなる。


 若い助手が、見送るように一歩だけ近づいた。


 「……本当に、記録を残せるのでしょうか」


 エイサは立ち止まった。


 今の自分にできることは、多くない。


 自分の名前さえ、共和国では消されつつある。


 そんな女が他人の名を守ると言うのは、滑稽かもしれない。


 それでも、言わなければならなかった。


 「残します」


 言い切ると、若い助手の目が揺れた。


 「どうやって……?」


 答えは、もう見えていた。


 この国の中で名前を残すには、この国の書式が要る。規則を破るのではなく、規則の中へ異物を押し込むための、重い署名が要る。


 そして、その署名を持つ男の顔を、エイサは知っている。


 白い髪。


 薄い青の目。


 壊し、奪い、それでも時に、残すこともできる男。


 「……方法は、あるわ」


 それだけ答えて、彼女は歩き出した。


     ▽


 病室を出たあと、虚偽を虚偽のまま終わらせないため、エイサは本当に産科へ回された。


 つわりと眩暈に対する補液。


 腹の中の小さな心拍は正常で、母体は安静を要する、と診療録へ記された。


 帝国は虚偽の書類を嫌うのではない。


 書類が事実になるよう、人間の身体の方を動かす。


 朝、何もない首の女は共和国軍曹から中尉と呼ばれた。


 そのあと午後まで、大佐夫人として寝台へ横たえられ、帝国の母として身体を管理された。


 エイサは目を閉じなかった。


 点滴の滴が落ちるたび、壁時計を見た。


 〇八一八。


 エイヴァ・クラーク。


 軍曹。


 忘れないように、頭の中で何度も繰り返した。


 病院を出された時には、冬の日がもう低くなっていた。


 真珠は、外套の内ポケットへ入れたままだった。


 帰りの受付では、誰も彼女の首を確かめなかった。帝国の扉は、入る者には厳しく、出ていく者には関心が薄い。


 車の窓から、帝都の白い街が流れていく。運河の水は黒く、橋の欄干は冷たく光っていた。どこも変わらず整っている。今朝一つの命が消えたことなど、この街は少しも知らない顔で存在している。


 エイサは外套の上から腹へ手を置いた。


 内側には、小さな鼓動がある。


 病院には、名前を残さなければならない死がある。


 そのあいだに、自分がいる。


 中尉としては、もうどこにも記録されない。


 夫人としては、まだ何も受け入れきれていない。


 母としても、未完成だ。


 それでも、今日の病室で、はっきりしたことが一つだけあった。


 自分は、このままただ囲われて終わるつもりはない。


 奪われた名が戻らなくてもよい、とはまだ思えなかった。


 帰りたい。


 自分の名を取り戻したい。


 その願いまで捨ててしまえば、帝国の戸籍が本当になってしまう。


 けれど、それとは別に、いま消されようとしている名を一つずつ拾うことはできる。


 それがどれほど小さくても、確かに仕事だった。


 官舎へ着くと、湖は夕方の色へ沈み始めていた。


 エイサは扉の前で一度だけ立ち止まり、外套の内ポケットへ手を入れた。


 白い布へ包まれた真珠が、指へ触れる。


 クラーク軍曹の名を残すには、その真珠を与えた男の署名が要る。


 その現実だけが、ひどく冷たく、ひどく確かだった。

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