第4章後半 絶対に。


夜の本願寺は静まり返っていた。門徒たちはすでに休み、僧兵も交代で見張りについている。希介は気配を殺しながら、本堂へと足を運んだ。


体の節々が痛む。脇腹の傷から滲む血が衣に張り付き、動くたびに鈍い痛みが走る。だが、そんなことを気にしている場合ではなかった。


 ――まだ、敵がいる。


間者が残した巻物には「夜明けまでに動く」と記されていた。本願寺の内部にいる協力者が、何らかの手引きをする可能性が高い。


本堂の扉を静かに開くと、頼廉が机に向かって経典を広げていた。灯明に照らされたその顔は険しく、何か思案しているようだった。


「……遅かったな」


頼廉は視線を上げると、希介の顔を見るなり眉をひそめた。


「その血……またか」


「かすり傷です」


希介は努めて平静を装いながら、懐から巻物を取り出して机に置いた。頼廉はそれを開き、内容を目で追うと表情を険しくした。


「やはり、まだ潜んでいるか……」


「はい。この間者が最後ではありません。本願寺の者に、まだ信長側の者がいます」


頼廉は唇を噛みしめ、静かに巻物を握りしめた。


「敵の狙いは?」


「裏門の警備を減らせ、との指示がありました。つまり、夜明け前に何らかの動きがあるはずです」


頼廉はしばし沈黙し、深く息を吐いた。


「……では、その裏切り者を炙り出すしかあるまい」


希介は静かに頷いた。


「俺に策があります」


希介の低い声が、本堂に静かに響いた。頼廉は彼を見据え、ゆっくりと頷く。


「聞こう」


希介は懐から先ほどの巻物を取り出し、指先で示した。


「この指示を出した者が、内部にいます。ですが、今すぐ正体を暴くのは難しい。ならば、奴らにこちらの動きを悟られず、逆に泳がせるのが得策かと」


頼廉は巻物の内容を改めて読み返しながら、考え込んだ。


「つまり、この指示通りに裏門の警備を減らし、敵を誘い込むということか」


「ええ。ただし、実際には罠を張ります。警備を減らしたと見せかけて、僧兵を伏せさせる。そして、裏門に近づく者を監視するのです」


頼廉は顎に手を当て、静かに考え込んだ。


「……よし。ならば、すぐに準備を進める」


頼廉が立ち上がると、すぐに数名の僧兵を呼び、簡潔に指示を伝えた。彼らは厳しい表情で頷き、迅速に動き出した。


希介はその様子を見届けると、そっと脇腹を押さえた。


「お前は休め」


頼廉が鋭く言う。


「そんな状態で動けば、策どころかお前自身が倒れる」


希介は苦笑しつつも、首を横に振った。


「大丈夫です。策を実行するなら、私もその場にいた方がいい」


頼廉はしばらく希介を見つめていたが、やがて小さくため息をついた。


「……好きにしろ。ただし、無茶はするな」


希介は軽く頷き、再び闇へと紛れた。





闇が本願寺を包み込み、夜が深まる中、希介は慎重に裏門の近くへと忍び寄った。体の傷は痛むが、今はそれを気にしている場合ではない。


月明かりが薄く差し込む裏門前に、希介は隠れながら観察を続けた。兵士たちがわずかに動き、警備が緩んだように見えた瞬間、希介の心臓が速く鼓動した。


「来るか……」


静かな声で呟くと、周囲をさらに警戒しながら、目を凝らす。警備を減らしたという予想が的中することを祈りつつ、希介はじっと身を潜めた。


数分後、裏門の近くにひとりの影が現れる。それは、普段とは違う服装をしていた。おそらく、内通者であろう人物が身を潜めながら接近しているのだ。希介は、その人物に近づこうとした瞬間、ふいに背後から声がかかった。


「気をつけろ」



希助は猫のように警戒心を強め振り返ると、頼廉が静かに歩み寄ってきた。


希介は驚きつつも、すぐに冷静になった。


「頼廉様……」


「無茶はするなと言ったはずだ」


頼廉の表情には厳しさがあり、口調もいつもより冷徹だったが、その目には心配の色が隠れていた。希介は軽く笑みを浮かべて答える。


「無理はしません。ですが、この策を成し遂げるためには、今が好機です」


頼廉はしばらく黙って希介を見つめたが、やがて頷いた。


「分かった。我はお前を信用してるぞ」


頼廉はそういうと自室へと戻って行った。


やはり、頼廉様はとても優しい方だ。



希介は再び静かに身を隠し、裏門の人物へと近づく。


その人物がようやく裏門に到達した時、希介は一気に動き出した。


「待て」


声を上げ、相手を取り囲む形で数名の僧兵が出現した。裏切り者が慌てて振り返ると、希介が目の前に立っていた。


「貴様、誰だ?」


裏切り者が息を呑む。希介は無言で相手をじっと見据えた。


その人物がようやく顔を露わにした時、希介はその顔に見覚えがあった。それは、かつて頼廉とともに本願寺に仕官していた僧兵の一人だった。


 「お前か……!」


希介は呆然とその場に立ち尽くした。

裏切り者の正体を知った瞬間、言葉を失った。その男の顔が、かつて本願寺に仕官し、信長の侵攻に備えて共に訓練してきた僧兵の一人であったからだ。希介の胸には、裏切り者を発見したという冷徹な喜びよりも、裏切られたという深い失望の感情が渦巻いていた。


「伸之、何故だ……?」


希介の声は、呆れと怒りが入り混じったものだった。裏切り者は肩をすくめ、冷笑を浮かべた。


「知らないのか、希介。俺たちに未来はないんだよ。本願寺の運命も、顕如の運命も、信長に勝てるわけがないんだ。だから……俺は、強い者に仕えることにした」


その言葉に、希介は冷や汗をかいた。彼は自分の信じてきたものが、ただの幻想であったことを痛感した。しかし、そんなことを考えている暇はない。裏切り者はすでに敵の内通者であり、その情報が敵軍に渡れば、本願寺にとって取り返しのつかない事態になる。


「お前は許さない」


希介は一気に駆け寄り、刀を抜き放った。その瞬間、裏切り者は素早く後ろに飛び退き、手にした短刀で迎え撃った。二人の戦いが、静かな夜の中で繰り広げられた。


戦闘は短かった。希介は鋭い動きで相手の隙間を突き、裏切り者の手から短刀を奪った。しかし、決定的な一撃を加えようとしたその瞬間、裏切り者が激しく身体を反転させ、希介の腹部に鋭い一撃を放った。


希介はその衝撃で後ろに大きくよろけ、刀を落としてしまう。腹部から流れ出す血が、暗闇に赤く映る。希介は痛みをこらえ、ひとまずその場から退いた。裏切り者がすぐに追ってこないことを確認すると、腹に痛みを感じながらも、再び地面にしゃがみ込み、息を整える。


「くそ……」


傷口からは血が止まらない。だが、今はその痛みを感じている場合ではなかった。希介は痛みに耐えながらも、何とか裏切り者を捕まえなければならないと、心に誓った。


やがて、頼廉が姿を現した。


「お前、無茶を……!」


頼廉の顔には憤りと心配が交じった表情が浮かんでいたが、それでも手を差し出して、希介を支えようとした。希介はその手を払うことなく、ひとまず立ち上がった。


「頼廉様……すぐに、そいつを捕らえなければならない。そいつは……」


希介は裏切り者を指差し、その動きを見張った。頼廉は、すぐに命令を下し、近くにいた兵士たちが裏切り者を取り押さえた。


「大丈夫か?」


頼廉が再び希介の傷口に目を向け、心配そうに問いかけた。希介は無理にでも微笑んで答える。


「傷はすぐに治ります。ですがそいつを放っておくわけにはいかない」


裏切り者はすでに捕えられ、反抗することなく黙り込んでいた。希介はその男をじっと見つめ、声をかけた。


「お前がどういうつもりで裏切ったかは聞くまでもない。だが、覚えておけ。お前が裏切ったことで、どれだけ多くの人間が命を落とすことになるか、だ」


伸之は沈黙したままだったが、その目には恐怖が浮かんでいた。希介はそれを見逃さなかった。



伸之はその後、厳重に監禁され、取り調べが行われた。彼が何を知っていたのか、信長との関係はどのようなものだったのかを明かさせるために、慎重に尋問が進められた。しかし、その男は口を閉ざしたままで、希介が言った通り、反省の色を見せることはなかった。


一方、希介は本願寺内の隠れた一室で、自らの傷を処置していた。兵士たちが伝えた通り、傷は思ったよりも深く、長引く痛みに耐えながら、傷口を縫い合わせる必要があった。

糸は完全に切れている。1度全て抜糸しなければならない。

今の希介にとってその作業は、以前のように冷徹にこなせるものではなかった。腹部の傷は、その深さに驚くほどの痛みを伴い、手が震えるほどだった。それでも、顔をしかめながら針を使い続け、傷口を縫っていった。


「ふぅ……」


縫い終わると、希介は自分で包帯を巻き、傷を固定した。痛みがようやく少し和らいだが、まだ完全に治ったわけではない。だが、今はその痛みを抱えたまま、次に進まなければならなかった。信長の影が日々迫っている中、少しでも情報を集める必要がある。


何があっても、急がなければならない。

希介はその後、頼廉に報告をするために、彼の部屋に向かった。室内では頼廉が既に座って待っており、その表情はいつも以上に真剣だった。


「希介、何度も言ったはずだ。無茶をするなと」


「……すみません」


希介は、肝に銘じながらも続けてこういった。


「しかし、裏切り者の背後には、もっと大きな陰謀が隠れているはずです。奴が知っていることを、もっと突き止めなければなりません」


頼廉は黙って聞いていたが、その後、少し考え込みながら言った。


「お前が言う通りだ。信長が動き出す前に、我々は何としてでも動き出さなければならない」


その言葉に、希介は少しでも早くこの局面を打破しなければならないという決意を新たにした。しかし、伸之の言葉はまだ浮かんでいた。


「信長に勝てるわけがない」


希介はその言葉に反発する気持ちを強く感じながらも、今は冷静さを保つことが求められていることを自覚していた。信長との戦いが始まれば、無駄に命を落とすわけにはいかない。そのために、少しでも多くの情報を得なければならなかった。


「頼廉様、信長が動くのはそう遅くはありません。私は、信長について調べます。」


「…分かっているだろうな」


「はい、大丈夫です」


頼廉の言葉に、希介は短く頷き、部屋を後にした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る