消えた記憶の重さ

天上天下全我独尊

第一章 記憶の隙間

 冷たい風が頬をかすめる。冬枯れの町は静まり返り、遠くで犬の鳴く声が響いていた。


 アンナは、厚い雲に覆われた薄暗い冬空の下で、取り壊される古い民家を眺めていた。大戦後に建てられた石造の家は、壁の一部が崩れ、庭のブナの木はすっかり葉を落としている。他にも朽ちた井戸があり、その周りには雑草が伸び放題だった。


「もうすぐ取り壊しが始まるんです」


 隣でヘルメットをかぶった解体業者の男が言った。


「長いこと誰も住んでなかったらしいですね。持ち主のハシェクさんって人が亡くなって、相続する人もいないとかで」


 アンナは小さく頷いた。


 彼女は地方紙の記者で、地域の歴史や文化に関する記事を書いている。最近では、古い建築物が次々と姿を消していく様子を追っていた。この家もその一つだった。


「この家に住んでいたのは、ハシェク家という旧家です。先祖代々、この土地で商売をしていたとか……」


 地元の解体業者がそう説明しながら、家の軒先を指さした。


「家の中、少し見せてもらってもいいですか?」


「ええ、構いませんよ。足元に気をつけてくださいね」


 業者の男が錆びた押し戸を開けると、じめっとした湿ったカビの匂いが漂った。アンナは業者の男の話に相槌を打ちつつ、家の中へ足を踏み入れた。


 室内は薄暗く、廊下の向こうに広間が広がっている。床には埃が積もり、壁には厚手のコートが残っていた。かつて家族が使っていたのだろうか。


「まるで時間が止まってるみたい……」


 呟いた声が、自分の耳にやけに響いた。


 広間へ進むと、そこには大きな木製のテーブルがあった。その上に、古びた写真立てが並んでいる。アンナは無意識に手を伸ばし、一枚の写真を手に取った。


そこには、正装した家族が並んで写っていた。アンナはその写真をまじまじと見つめた。父、母、娘、そして少年——四人家族のようだった。


 写真の裏をそっとめくる。達筆な字で、こう書かれていた。


「1946年 春 ルカーシュ・マリア・ミレナ・ヤクブ」


「ヤクブ……?」


 アンナの指が止まる。アンナはその名に覚えがなかったからだ。


 ——この家の持ち主は、ミレナ・ハシェコヴァという女性のはずだ。彼女には兄弟がいたのだろうか?


「この子は……?」


 アンナは業者の男に聞いてみた。しかし、彼は首を傾げた。


「さあ、俺も詳しくは……。でも、近所の人に聞けば何かわかるかもしれませんよ」


 その言葉に、アンナの中で小さな違和感が膨らんでいく。


なぜ、この家の記録には「ヤクブ」という名がないのだろう?


 アンナは写真をそっと元の場所に戻し、埃を払いながら、深く息をついた。


 ——何かがおかしい。


 その直感は、じわじわと胸の奥に染み込んでいった。


 数日後、彼女は市役所の戸籍課に足を運んだ。古い住民台帳をめくるが、「ヤクブ・ハシェク」という名前はどこにもなかった。


「変ですね。こんなに古い台帳にも載っていないとなると……もしかしたら、記録から抹消されたのかもしれません」


 係員がそう言った。アンナはその言葉に引っかかった。抹消? だとしたら、なぜ?


 その晩、実家に帰ったアンナは、母に何気なく尋ねてみた。


「ねえ、お母さん。ハシェク家にヤクブっていう人がいたって知ってる?」


 母は箸を止め、しばらく考える素振りを見せた。


「……ヤクブさん? そんな人いたかしら。でも、どこかで聞いたことがあるような……」


 そう言いながら、母は目を細め、遠い記憶を探るように天井を見上げた。しかし、次の瞬間、急に顔を曇らせると、「忘れたほうがいいわ」と小さく呟いた。


「え?」


「それ以上、知らないほうがいいのよ。あの家のことは、昔からそう言われてる」


 アンナはその言葉にゾクリとした。誰が、なぜ「知らないほうがいい」と言うのか?


 その夜、アンナは奇妙な夢を見た。


 薄暗い廊下。屋根裏の部屋。窓の外で風が鳴っている。


 そして、誰かが呟いた。


「ぼくは、ここにいたんだよ」


 アンナはハッとして目を覚ました。息が浅くなっているのを感じながら、夢の中の声が耳に残る。


 ——ぼくは、ここにいたんだよ。


 その言葉が、現実と夢の境界を揺らがせるようだった。

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