吸血鬼の私はあなたの血を吸いたくて
白い彗星
第一章 吸血鬼と少女の約束
第1話 私を、愛して
……二人の少女が、ベッドの上に倒れている。
小綺麗に片付けられた、とある一室。白を基調とした壁紙に、勉強机や本棚、ベッドなど一通りの家具が置かれている。
その装いはシンプルでありながら、本棚には小さくかわいらしいぬいぐるみがいくつも飾られており、部屋の主の趣味を思わせる。
「……っ」
部屋に配置された一人用のベッド……そこには、二人の少女が倒れていた。正確には、重なるように倒れていた。
美しい黒髪を持つ一人がベッドの上に仰向けに沈み、
部屋の中は静かで、聞こえるのは時計の針がチクタクと動く音。そして、自分の心臓の音……
ドク……ドク……
黒髪の少女
そんな二人が、どうしてこんな状況になっているのか……考えるよりも先に、目の前の少女の姿に由利は、口の中に溜まっていたツバを飲み込んだ。
「……っ」
学校指定のセーラー服は着用したまま、しかしブレザーはベッドの上に脱ぎ捨てられている。乱れたシャツはぺろんと捲れ、白く柔らかそうなお腹が露わになっている。思わず頬ずりしてしまいたいほどに、魅力的なお腹。そしてかわいらしいおへそ。
倒れた衝撃からかスカートもまた捲れ、その奥にある純白の布地が嫌でも目線を誘う。
紅はじっと由利を見ていて、なんと儚げな雰囲気を漂わせていた。
紅はいわゆる童顔だ。普段は前髪で隠れているが、この状況では意味がない。背もあまり高くはない。子供っぽい体型……しかしその中で女性の部分は確かに主張をしていた。
ふくよかな胸を、綺麗な脚を、由利は目をキョロキョロ動かすことで確認する。
「……はぁ……」
……しかし、由利の視線を一番導いたのは、彼女の首筋だった。たまらず吐息が、由利の口から漏れた。
細く、美しい首。傷一つない。若干流れる冷や汗が、逆に扇情的だ。
そんな中、紅の小さな唇が動いた。
「お願い……私の全部、あげるから……私を、愛して」
目に涙を溜めた紅は、先ほどと同じ言葉を告げる。
その言葉に抗う術など、由利は持ち合わせていない。そもそも、この体勢になったのだって、その言葉がきっかけだ。
由利はゆっくりと、顔を近づけていく。
「ん……」
由利の視線の先は、紅の首筋。実に美味しそうだ。においだけでこれなのだ……そこに噛みついたら、そこに流れる血を吸ったら、いったいどれほどの甘美を味わうことができるか。
由利は、ぐっと口を開く。彼女のきれいに整えられた歯が……その鋭い"牙"が、露わになる。
人肌に噛みつき、血を吸う。それが、"吸血鬼"たる彼女の本質だ。目の前の少女は、彼女の餌に過ぎない。
血を吸うには、首筋に噛みつくのがベストだ。なぜだと言われれば回答に迷うが、ともかくそれがベスト。
その行為を行う前に、由利はちらと視線を動かしていく。少女がどんな表情を、そして瞳をしているかを確認するためだ。
「……」
恥ずかしさに悶え、目を閉じているだろうか。それとも、
なんでもいい。彼女の生む感情が、彼女の血をさらに美味しく仕立てるスパイスとなるのだから……
顔を近づけつつ、ゆっくりと視線だけを移動させて……
「……は?」
……由利はその動きを、止めた。紅の瞳を見て。
そして漏れ出た言葉は、困惑の色を孕んでいた。
「……どうし、たの?」
今まさに、自分の首筋から血を吸うために噛みつこうとしていた彼女。その動きが止まったのを感じ、紅は困惑の声を上げた。
首筋にかかる吐息が、わずかにくすぐったい。
無感情に見据える瞳が、わずかに揺れる。
「……吸わない」
「え?」
しばらくの沈黙のあと、身体を離れさせていく由利。その言葉に、紅は驚く。
なんで、なんでだ。この吸血鬼は、自分の血を吸いたいと言っていたではないか。私はそれを受け入れた。
だからこんなことに、なっているのに。
……約束、したではないか。
「なん、で……ねえ、なんで?」
紅は、身体を起こす。
「言ったじゃん、私を……! ……私の全部、あげるから。だから、私を愛してって! 血をあげたら、私を愛してくれるって!」
離れていく由利にすがりつくように、紅は問うた。その言葉は、この短時間で
由利……いや"吸血鬼"にとって、『約束』とは絶対だ。一度した約束は決して
だからこそ、自分のすべてをあげれば、自分を愛してもらえると。そう思ったのに。
ベッドの上に座ったまま、二人の少女はお互いを見つめていた。
いやいやと首を振る紅に、しかし由利は彼女を引き剥がして……
「その目が気に入らない!!」
と、紅を睨みつけるようにして言ったのだ。
「……目?」
その指摘に、紅はパチパチとまぶたを動かした。
由利は構うことなく、言葉を続ける。
「そう! 恥ずかしがってるのでもなく、怖がってるのでもない! その目……"生きていても仕方ない"って全部諦めたような目! クソみたいな目! そんな目したやつの血なんか吸っても、全然美味しくない!」
叫ぶ。由利は叫ぶ。感じた気持ちを、吐き出すように。
先ほどまで、極上の馳走を前に理性が吹き飛びそうだった。だが、もはやそんな雰囲気は消え去っていた。
これは、苛立ちだろうか。わからない。けれど、目の前の餌に対して……こんな気持ちを抱いたのは、初めてだ。
「……変わるの? 味」
「変わるよ! 人間ってものは、感情がある。他の生き物にはない、人間だけのものだ。その感情で、血の味は変わると言ってもいい。喜んでても、怒ってても、哀しんでても、楽しんでても……なんか、感情が大きければそれだけ血の味も変わるんだよ!
でも、今のあんたから感じるのは……無だよ」
人と動物の違いの一つに、感情がある。とはいつかどこかで聞いた話だ。
人の血にも、普通に暮らしていてもやはり味の違いはある。年齢、性別、生活習慣……それらの要素でも、誰一人として同じ味はない。
いわば指紋のようなものだ。この広い世界の中で、同じ指紋をした人間は存在しないという。
個人の好みの問題もあるが、基本的に"吸血鬼"は異性の血を好む。だから由利が同性の人間に惹かれたときは、本人も驚いたものだ。
「……無……」
例えば規則正しい生活を続けている人間の血は美味だし、逆に生活がズボラな人間の血はそこそこ。
他にもいろいろとあるが……一番味に違いが出るのは、感情だ。
ぽつりと呟く紅に、由利はさらに言葉をぶつける。
「そう! せっかく極上の馳走があるのに、そのせいで最悪な出来栄えになっているの! 美味しいものがあると思って飲んだら、それはゲロマズ……想像してたものとかけ離れて大ショックなの! いや、ショックどころじゃない……もう二度と会えない血が汚されていくこの感覚! わかる!?」
「ご、ごめんわかんない……」
先ほど述べたように、いかなる人間でも感情……その時のテンションの差によって、味にも大きな変化がある。
普段生活がだらしない人間も、その人が幸せと感じる瞬間の血には味の鮮度が変わる。同じ人間の血が、さらに変化するのだ。いわゆるギャップというやつだ。
だから吸血鬼の中には、敢えてそのギャップを狙う者もいる。絶望を抱いている人間に希望を与えて、その瞬間の血を……とかだ。
由利が紅を狙ったのは、もちろんギャップ狙いではない。子供から大人へと変化していく、高校生になったばかりの年の頃が食べ頃なのはもちろんのこと。紅の発するにおいが、由利をいたく惹きつけた。
その結果が、これだ。
「ちっ……」
血に容姿はあまり関係ないが、一見儚げな少女に由利は、人間で言うところの一目惚れをした。
肩まで伸びた黒髪は日々の手入れの賜物か美しく、まるで吸い込まれそうなほどに大きな瞳。子供っぽい体型のようで女性らしい肉付きもある。
美人とは言えないものの、所々のパーツは整っている。それでも美人と言い切れないのは、少女の在り方のせいだろうか。たとえば、普段目元を隠すように伸ばした前髪もその一つだ。
儚げな美少女、と言ってしまえばそれまでだが……少女には、他の人間が持っているものが欠落しているように見えた。
「だから、他のやつとはなんか違うと思ったのになぁ」
由利は、頭をガシガシとかく。
その姿を、少女は不安そうな様子で見ていた。
このまま、自分は"また"捨てられてしまう……そんな大きな不安が、紅を飲み込もうとしているのだ。
そんな紅に、しかし由利は軽くため息を漏らして……
「決めた。……アタシが、あんたを幸せにしてあげる」
と。唐突に、言ったのだった。
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