21『無血十字軍とフレさん──1228年』
1228年6月28日。
「破門十字軍、出港ー!!」
破門皇帝フレデリカが率いる、教皇の認めていない十字軍は何の問題もなくブリンディシの港から出発した。
既に去年破門を食らって9ヶ月が経過しているが、離反者も領地の反乱も起こらず、フレデリカが十字軍に集める物資を出し渋る者も出ず中東に行っていたベラルドも帰ってきて順調に再出発の準備を整えることができた。
勿論フレデリカの方からも、離反されないように諸侯に指示を出したり周辺国に手紙を送ったりと準備を行う期間でも合った。
その間一言もフレデリカは教皇に弁明の手紙も送っていない。最初に破門を食らった時に反論した以降、完全に見切りを付けたようだ。
曲がりなりにもイノケンティウス、ホノリウスには猫を被った態度で対応していたが、今度のグレゴリウスにはそれをする気も起きない。
「あの教皇ゲロ以下の臭いがプンプンするんだもん」
「確かイノケンティウスの甥だったな。叔父が欧州中に魅せつけた強権に取り憑かれて、何もかも自分の思い通りになると思っているのだろう」
「馬っ鹿じゃん。イノケンティウス教皇はあんなんでも情と理屈は通してた破門使いなんだよ。まあ、勝手に離婚したりしたら即破門な勢いはあったけど」
「異端者に死ぬほど厳しかったけどな。何故かフレさんには優しかったという」
「まーちょっと、イノケンティウスおじさんかホノリウス爺さんから破門食らったらゴメンネぐらいはしたかもしれないけど」
などと云いながら船で東へ進んでいく。
載せている兵力は騎士歩兵合わせて3000人程度だ。歩兵の中には、イスラムと戦うという名目の十字軍なのにイスラム教徒であるサラセン人部隊も混じっているのは妙である。
ちなみに彼女の祖父であるフリードリヒが十字軍用に集めた軍勢は騎士が3000人、その従者が数倍、歩兵が8万人と云う凄まじい動員数であるのに比較すれば少ない。ただフリードリヒの場合はドイツ諸侯から集めまくったのに対して、フレデリカは完全に自分の私兵とも云える手勢のみである。
連合軍は失敗すると云う歴史的に明らかなことに学んでいるのであった。
途中で中東側からやって来たチュートン騎士団の連絡船と合流した。
中東帰りと思えないほど平常で旅慣れしているのが判るヘルマンが報告をする。
「フレデリカたん! クレタ、ロードス、アッコンの港は兵員受け入れ体制完璧ですぞ~! 時間あったのでモンフォート城塞もフレデリカ色に染めて来たでござる~!」
「この優秀さ。よくやったねヘルマン! 君はいつでも期待に応える男だよ!」
「漲ってきた!」
「おい聖職者」
フレデリカから抱擁を受けて顔をトリップさせて叫ぶヘルマンである。
隊長が地図を確認しながら云う。
「ところでキプロス島はどうした?」
「入港には問題無いのでござるが……中でお家騒動が起きててちょっと我ら騎士団では手出しができないのでござる」
「ええええ~……もう、面倒だな。じゃあまずキプロスをどうにかしようか。我、一応エルサレム王だし十字軍国家に問題があると面倒なことになる」
ガレー船の上だと云うのに、隊長がボードを取り出して解説をする。
「ヨーロッパから出たことの無い人も居るから一応解説するが、キプロスとは東地中海にポツンとある大きめの島だ。前まで東ローマ帝国が支配していたんだが第三回十字軍で伝説は起きた」
「伝説て」
「獅子心王リチャードが十字軍に行ってる時に、嫁のベレンガリアが夫を追いかけて地中海を渡ってきたらキプロスの太守に捕まってしまったんだ。『ふはは、リチャード! 貴様の大事な姫は俺が頂いた!』『くっ……卑劣な!』って感じだな」
「あー隊長そういうの好きそう」
騎士道物語に憧れがある隊長の説明に熱が入っている理由が判るフレデリカであった。
「まあ無論、約束された勝利の王ことリチャードがキプロス太守を完膚なきまでにボコって賠償金と土地をゲットし、ベレンガリアも助けたと」
「それ以来キリスト教カトリックの領土なんでござるな。十字軍国家にとっては非常に重要な位置でもありますぞ」
ヘルマンが補足説明をする。
「この通りパレスチナ地方から程よい場所にある島なので、いざ十字軍国家がイスラム軍に攻め滅ぼされて逃げ込む先がこのキプロスになるわけでござる。イスラム軍は屈強だけど海軍だけは貧弱なのが、ヨーロッパの侵略度が低い理由の一つでござるな」
「スペインなんかはがっつり上陸されて拠点作られてるがな」
「というわけでキプロスが政情不安だと困るので対話で解決しよう。ああ、他所の国で別に敵でも無いとなると、軍事力ちらつかせる解決法が取れないのが面倒だなあ」
フレデリカ得意の威圧戦法では、その場ではどうにかなっても後々困るのである。それが自国内だったならば睨みも効かせられるが、こんな船で何週間も掛かる場所ではそうもいかない。
「エルサレム王はヨランダとの息子、コンラートが継ぐだろうからせめて彼が統治するのに楽にしとかないと」
「……そういえば拙者が中東行ってる間、ヨランダ皇后は出産して亡くなったんでしたな」
「うん……コンラートはパレルモに預けてある。一応これで、ハインリヒをドイツ王、コンラートをエルサレム王と分権できる。エンツォは庶子だけど……」
などと云っていると、船室から出てきた少年が自分の話だと気付いて、応えた。
「私は父に従い──付いていくのみです」
「うわっエンツォから美オーラがっ!」
フレデリカは麗しい声を出した息子を直視できずに手を目元に翳した。
ガレー船に乗り合わせた、12歳の少年エンツォは十字軍にも付いてきていた。わずか6歳の頃からフレデリカの行軍に付き合って、弱音一つ吐かずに行く先々の人を魅了している聖なる美少年である。
海風に長い金髪を靡かせて、空気に色を付けるような美形特有の空気を体から放出している錯覚すら覚える。
ヒソヒソとフレデリカは隊長らに云う。
「我が云うのも何だけどちょっと半端ない適応性と才能あるんだけどエンツォ。とても子供とは思えない。我が貸したアリストテレス全集もう読破してたし。政治の討論会に傍聴させたら凄い正確なレジュメ作ってくれた。馬に乗って走ってると絵画のモデルみたい。何この子凄いシチリア王にしていいかな」
「……フレさんもお家問題は人事じゃないんだから、ちゃんと解決してやるんだぞ」
一番近くで過ごさせているせいか、エンツォの成長っぷりは目を見張るものがありフレデリカをも驚かせるのであった。
「我の場合、何故かレズが寄ってきてやむを得なく妊娠させるというパターンがお家問題的に困る」
「改めて考えると死ぬほど意味のわからん悩みだよなそれ」
隊長の指摘に、フレデリカは興奮して地団駄を踏みながら叫んだ。
「本当にだよ! っていうか地味に我この時点で既にもう一人追加でマリアとか云う罰当たりな名前のレズから産まれた息子居るからね!? フェデリーコって名付けたよ! 仕方なく!」
「うわっ」
「うわー……」
「くそっなんて歴史だっ!」
頭を抱えたフレデリカが涙目でベラルドを指さす。
「ベラルドも他人事じゃないよ! お前の姪が明らかにレズな目線で我を見てたからね!」
「は、はあ!? 知りませんな! このベラルドの姪のマンナちゃんがレズなわけ無いでしょう!? 百歩譲ってフレデリカさんの方を向いていたとして、多分近くに居る隊長に惚れてるんですよ!」
「俺を巻き込むな、俺を。そして手遅れだベラルド。既にシチリアに残してきたマンナもフリードリヒ棒で妊娠したようだぞ」
「このベラルドが居ない間に姪が超絶異端技法の餌食にいいい!?」
「だから向こうがレズ姦淫してきたんだって!」
ちなみにこのベラルドの姪、マンナからまたしても男児リカルドが産まれる。
本人の意志とは別に中々子沢山になってきたフレデリカであった。フリードリヒ棒大活躍であるが、詳しい描写をすることは宗教的に危険なので伏す。
余談だが加速度的にレズが増えている問題に関してはフィクションなので実在の人物とは一切関係が無いから訴訟などを起こさないで欲しい。
隊長は教育に悪いとばかりに神聖じゃないレズ談義からエンツォを連れて離れた。
「そろそろ日も暮れる。エンツォ、航海中の星の見方を教えてやろう」
「はい。お願いします隊長。隊長は何でも知ってるんですね」
「騎士だからな」
「皇帝陛下が、隊長はもっとも自分にふさわしい騎士だって言ってました。私も騎士になれるでしょうか」
「フレさんにそのうち叙勲させてもらえ。どんな騎士になるかは、自分次第だ」
隊長はエンツォの美オーラを受けても、わずかに顔を顰めるだけで気にせずに彼の芸術品のような金髪をぽんぽんと叩いて、船の先へ連れて行くのであった。
*****
キプロス島での問題を解決するのに一月半かかった。
最終的にはエンツォのオーラで浄化してやった感じで強制解決しつつ、フレデリカの十字軍はようやくパレスチナ地方の港町、アッコンへ辿り着いたのは9月に入ってのことである。
フレデリカが入港するのをパレスチナ中から見物客や巡礼者、聖職者が訪れたが、チュートン騎士団が前の反省を活かして準備をしていたので出発時のような混乱、疫病の発生は起こらなかった。
だがそれでも港を埋め尽くすような大観衆がフレデリカを出迎える。
「おおお~すっげ、イエーイ! フレデリカちゃんでえええっす!」
手を振ると観衆は熱狂して、海に飛び込む者も居るぐらいだ。阪神が日本一になった時の大阪状態で盛り上がっていると想像して欲しい。
「すっごいなあ、大人気じゃん我」
「神聖ローマ皇帝だからな。キリスト教国の軍人では最高位にあるのがフレさんだ。そして、神聖ローマ皇帝がパレスチナに入ったのも歴史上初めてとなる」
「十字軍国家の皆からすれば、まさに自分達の王がやって来たと映るでしょうからなあ」
フレデリカの祖父もパレスチナ入りする前に死んだので、皇帝直々にやってくるのは彼女が初めてであり──以降、彼女以外存在しないのであった。
飾り付けた巨馬のバビエカにまたがり、一糸乱れぬ整列でアッコン入りする勇壮な少女のフレデリカはこの不安な土地に住み、そして巡礼に訪れた者にとって絶対的な守護者に見えた。
チュートン騎士団だけではなく、ホスピタル騎士団、テンプル騎士団も集まり行進を固める。雲霞の如き数で攻め入ったこれまでの十字軍の話こそ皆知っているが、目の前にする数千の精鋭部隊には確かな信頼を圧倒感と共に与えてくれる。
「とりあえずまずはアル・カーミルとの交渉を確認しないとね。すぐにエルサレム行っても台無しになりかねない」
「では暫くアッコンに軍を逗留させるでござる」
「じゃあベラルドはアル・カーミルのところまで走って来て」
「うん、きっとこのベラルド中東を一番走ったことのある大司教ですなあ多分」
護衛を付けて、ベラルドはアル・カーミルの居るナブルスへ向かう事になった。
それはさておき、アッコンに留まる為にまずはこの地の大司教に会わねばならない。
アッコンの大司教と云うよりも、ここに居るのはエルサレム総主教と云うキリスト教の四天王的な存在である。
「エルサレムに居ないのにエルサレム総主教なんだね」
「エルサレム持ってないエルサレム国王なんだからフレさんも」
「我はこれから貰うし……」
総主教は大歓迎の雰囲気でフレデリカを出迎えた。
まさにフレデリカが言った通り。エルサレムを奪還してそこで総主教をする事こそが彼の望みなのである。
大観衆が見守るアッコンの広場で二人は会合し、
「ようこそいらっしゃいました、皇帝陛下! 皆は貴女をお待ち……」
と、そこまで言った時に総主教に助祭が近づいて、緊急に届いた手紙を渡した。
「失礼」
言って、それを確認するなりフレデリカを指さして叫んだ。
「破門されてるじゃんアンタ!?」
大観衆が地鳴りのようにどよめいた。
渡された手紙はローマ教皇からの書状で、勅令が書かれていた。
『皇帝フレデリカは神に背き破門された身である。エルサレム総主教及びパレスチナの聖職者はこれに一切の手助けをせず、宗教騎士団も皇帝の旗の下、戦うのを禁止する』
グレゴリウスからベストタイミングで届いた嫌がらせである。
「うげー……あの悪党教皇、やってくれる」
「まあ、知られるのは時間の問題だったがな」
アッコンは皇帝が破門されていることに動揺して街全体で混乱が起きた。
宗教騎士団も直々に告げられている。フレデリカに忠誠を誓っているチュートン騎士団はともかく、ホスピタル、テンプル騎士団は初耳であったからだ。
混乱を連れてきた軍でなんとか抑えつつ、
「さっさとアル・カーミルと交渉しないとなあ」
と、先行きの不安さにぼやくフレデリカであった。
彼女の計画からしても、素早くエルサレムを開放して十字軍国家間の治安を固めてエルサレムまでの巡礼者を守り、一年以内にシチリアに戻りたいところであった。
「遠征の失敗原因として、長引くことで戦費が破綻する、病気や疲労で士気が下がる、遠くに行っている間に故郷がやばくなるってのがあるのよね」
「あの教皇がフレさんの居ない間に何をやらかすかわからんしな」
送ったべラルドの報告を待つのみであった。
さて、アッコンの街は大きく二つの勢力に、フレデリカと云う爆弾を抱えて別れた。
一つは総主教を中心とする、破門皇帝否定派。
「破門されたのは皇帝が異教徒と通じているからだ! サラセン人を軍に加えているのもその証拠! こんな罰当たりな女にエルサレムを開放させられるのはキリスト教の屈辱だ!」
などと主張。
もう片方はホスピタル騎士団、テンプル騎士団の宗教騎士団である。
「我ら騎士団は教皇の為に戦うのでも、皇帝の為に戦うのでもない。神の為に戦い、キリスト教徒を守るのが我らの使命だ」
「っていうか嫌だよなあ、ああいう口ばっかで具体的に何もしないの頭でっかちで現場知らないお偉い聖職者」
「皇帝の旗の下で戦うなって云われたじゃん? チュートン騎士団のヘルマンさんがトップってことにすればいいんじゃないかってフレデリカさんが」
「ビッグアイデア!」
と、教皇に対する言い訳を考えつつも日々苦労をしている騎士団はフレデリカについた。
ローマ教皇直轄の部下、という形である二つの騎士団だが、長年このパレスチナでキリスト教徒を守り続けて苦難を知っている。破門皇帝の為すエルサレム開放でも、多くのキリスト教徒が救われるのならば従うべきだと判断したのである。
そして巡礼に訪れていた者や一部の十字軍国家の者達もフレデリカ側についた。
「私どもはエルサレムに安全に巡礼できるようになれば、皇帝陛下の許しも神に祈ります」
こちらも生きるか死ぬかの問題なので、安全さえ齎せてくれればと云う考えの者も居たのである。
また、アッコンに降り立った神聖ローマ皇帝の迫力に、フレデリカファンクラブ入りした者もいる。というか、巡礼者が出発するのもフレデリカの国シチリアからなので、印象は初めから良いのだ。
双方の勢力が微妙な空気を出して、居心地の悪さを感じるフレデリカであった。
「なーんかダルい状態になってるなあ」
「主に総主教側の聖職者サイドから圧力かかってるな」
「あいつら何なの? 一瞬で皇帝を敵扱いとか、グレゴリウスに弱みでも握られてるの?」
「シチリアやドイツの聖職者はフレさんに慣れてるからな、これぐらいが破門に対して普通の反応なのかもしれん」
ヘルマンが仕方なく走り回って総主教側を宥めている。彼はこのような、破門されても仕方ない精神性を持つフレデリカと聖職者側の仲を取り持つのが得意なのである。
「……しかしやられっ放しじゃ面白くないよね」
「何か仕返しの方法があるのか?」
隊長の問いにフレデリカは云う。
「アッコンを……潰す!」
「なんで……?」
いきなりの物騒な発言にさすがに隊長も聞き返した。
彼女は笑いながら、
「本当に潰すわけじゃないよ? ただこのアッコン、エルサレム王国の王宮なんて作っちゃって首都顔してるじゃん。でもさ、エルサレムに行くには微妙に遠くて不便なんだ」
「ふむ、確かに」
いつもの地図ボード:パレスチナ地方で場所を確認する。
アッコンからエルサレムまでは直線距離で100km以上離れているのである。
大雑把に地中海沿岸パレスチナ地方を図にすると、
○アンティオキア
○[キプロス島] ○ラタッキ
○トリポリ
○ベイルート
○シドン
○ティロス
○[アッコン]
○カエサリア ▲[ナブルス]
○アルスーフ
○[ヤッファ] ▲[エルサレム]
▲[ガザ]
括弧が付いているのが作中に出る街で、○が十字軍国家、▲が現在イスラム側だ。ブラウザによってはズレてるだろうと思うので予め謝っておくが。
「これじゃ巡礼者も行くのが大変だし、騎士団は守るのが大変だよね? だからこのヤッファにある港を発展させよう」
指を差して、エルサレムのやや北西方向にある港町ヤッファに印を付けた。
「ここからなら50kmぐらいでエルサレムに辿り着けるね? ヨーロッパから来た巡礼者の船はキプロスを経由して、このヤッファに全部着くようにしてやろう。そうするとヤッファは栄えるけどアッコンはなんでそんなところにあるの? 田舎?ってレベルに寂れるだろ」
「この嫌がらせと合理性を同時にやるのがフレさんらしいな」
「そう、しかも我ってシチリア持ってるからね、巡礼者は必ずフォッジアとブリンディシに寄るわけだから、ヤッファに誘導するのは超簡単。ざまあみろってんだくふふーん」
早速軍の一部を派遣して、ヤッファ振興に乗り出すフレデリカであった。更に船も手配させて一番早く海を動けるアンリに指示書を持たせてシチリアへ行かせ、巡礼者への誘導をさせた。やると言ったらやる女である。
これによってヤッファは皇帝直々の都市計画で、アッコンなど越えた素晴らしい設備の港町に変貌するのである。
しかしやり過ぎたと彼女がやや反省するのはこの数ヶ月後──嫌がらせの目論見通りアッコンを訪れる巡礼者が激減して、総主教どころか住民さえ、観光客が居なくなったことで街が寂れたと反フレデリカに回してしまったことに気付いてからであった。
「てへぺろ!」
「フレさん自重」
*****
かつて英雄サラディンが支配していた土地を弟のアル・アーディルが受け継いだ──というか、後継者争いに勝利して得た。
その領地を息子達に分け与えて、アル・カーミルとその兄弟はその土地に関わるイスラムの有力者からそれぞれ担ぎあげられて居た。
大雑把に分けると、
・アル・カーミル:エジプト地方───正当な後継者としての権力。
・アル・ムアザム:シリア地方───聖地の管理者としての権力。
・アル・アスラフ:メソポタミア地方───指導者カリフからの影響。
となる。
この少し前にアル・ムアザムは不審な点は何もないが急死してその勢力は全てアル・カーミルが吸収し、その支配勢力をイスラム圏最大で盤石とした。
そしてエルサレムをフレデリカに渡そうとしているのだが、そうとは今のところ知らされていないアル・アスラフは、死んだアル・ムアザムのシリア地方を全て兄に奪われたことが不満で殆ど内戦覚悟で彼に会談を挑んだのである。
フレデリカが到着する前に、アル・カーミルの[説得]は功を奏して平和裏にアル・アスラフはパレスチナから遠く、ユーフラテス川を渡りチグリス川の側にある都市モスールへ戻っていった。
「ちぇっ。まあ、今は兄貴も忙しいところだろうからな。邪魔したな」
別れ際に彼はそうアル・カーミルに告げる。
「十字軍なんて経験済みの兄貴からしたら楽勝だろ。しかも相手はもうぼろぼろだ。精々頑張れよ」
そう言って、兄の勝利を疑わずに去っていくのである。
離れた地に居を構えるアル・アスラフどころか、バグダッドに居るイスラム教のカリフさえ既に十字軍が到着していることは把握していた。
だが、エジプトとシリアを治めたアル・カーミルならば問題なく撃退出来ることも理解していたのである。
なにせフレデリカが連れてきた兵士は3000。現地で集めても5000程度にしかならないだろう。
だがこの広大なイスラム圏の最大君主となったアル・カーミルは、10万は兵士を集めることが可能だ。勝負にもならない。
「ふう、アル・アスラフが帰ってくれてよかった。彼の軍勢にだってフレデリカは勝てないからね」
ほっと胸を撫で下ろす。
無論、カリフによりイスラム原理主義的な思考を持つ弟に、聖地を渡すことは話していない。確実に反対されるからだ。説得はするが、時間がかかるだろう。
ナブルスの地で待っていた彼の元に、ファクルディーンとベラルドがやって来た。
「アル・カーミル殿。フレデリカさんが早速交渉を進めたいとのことです」
「ああ、いらっしゃいベラルド。お疲れ様。次からメッセンジャーはファクルディーンに交代していいよ」
「それは助かりますなあ。このベラルド、そろそろ五十路で」
「僕もだね。ファクルディーンみたいに若い者は羨ましいな」
和やかに談笑する二人である。
ファクルディーンが挙手してベラルドに尋ねた。
「そういえば女性に直接聞くのもどうかと思ったのですが、フレデリカ皇帝ってお幾つで? 自分の娘と同じぐらいに見えるのですが」
「ファクルディーン殿は何歳でしたかな?」
「33です」
「ああ、彼女と同年代ですなあ。親近感湧きません? フレデリカさんに」
「湧かないんですけど!?」
思わず叫ぶファクルディーンである。なにせ、フレデリカは見た目がまるっきり十代の少女なのだ。
話を戻し、アル・カーミルは告げる。
「では交渉なんだけど、僕とフレデリカは直接会わない方がいい」
「と申されますと?」
「ただでさえグルを疑われてるだろう? 下手に接触を持つとお互いの宗教指導者からより睨まれるよ。名残惜しいけどね。書簡のやりとりと、ファクルディーンをメッセンジャーに使って交渉を進めよう」
「なるほど、まあ既にフレデリカさんは限りなく黒に近い黒扱いですが」
「僕はまだ灰色なんでね、ちょっとこっちの都合で悪いんだけど」
アル・カーミルは薄く笑いながら肩を竦めた。
「フレデリカとしても、早く交渉を終わらせて帰りたいところだろうけどね。教皇から破門を受けてるんだから北部イタリアの都市が唆されて反乱でも起こしたら大変だろう?」
「……っ!」
ベラルドの笑顔は凍りついた。
フレデリカの十字軍は、短期決着を目指しているがそうしなければまさにその理由でシチリアに帰らざるを得ないのである。
相手を威圧して、少しでも戦うリスクを見せつけ交渉を有利にするために連れてきた軍勢であるが、背中に抱えた爆弾はいつ起爆するかわからない。
いや、むしろ。
ベラルドはどこかフレデリカと似た思考を持つアル・カーミルを見ながら最悪な結末を想像した。
(彼がのらりくらりと、フレデリカさんの様に交渉を引き伸ばし内乱が起こるまで待ち続ければ、何の功績も得ないまま帰る羽目になりますなあ……!)
言外に脅しを仕掛けられているようで、ベラルドは息を飲んだ。
アル・カーミルはやはり、笑みを浮かべたままで云う。
「さあ──交渉を始めようか」
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