3話 推しモドキとはいえ

 ここはに存在する『シビュラ』――時渡人わたしもりは、たしかにそう口にしたが。


「それじゃあ今の私って、どういう状態?」

『転生後の姿、と表すべきでしょうか。昨晩泥酔した其方は、車道に身を乗り出し――』

「ちょっと、私が死んだって言いたいの? 数人かずとと飲んだ後に?」


 つい声を上げて笑ってしまった。そんなの、信じられるはずがない。


『気持ちは分かります。が、ここは紛う事なき現実。不憫な其方のため、其方が愛したゲームに似た世界へ命を繋いだのです』


 信じられない、が――腑に落ちてしまった。セルフ平手の痛みがリアルだったのは、おそらくそのせいだと。


「そんな急に言われても、頭が追いつかないんだけど……でもあなたの言うことが本当なら、アレはどうなっちゃうの?」

『最期の瞬間、共に居た昔馴染みのことですか? 彼は――』

「そうじゃなくて! 3年間残業して貯めたお金、どうなっちゃうの?」


 ドラグ様に献金する以外、手をつけていなかった200万。アレがすべて無駄になるというのか。


『……其方は何よりも金銭が大切なようですね。この世界を治める神王プレジデントに必要な資質は、「ガメツさ」だとでもいうのでしょうか』


 顔のない花嫁はため息を吐くと、足元から透けるように消えはじめた。周囲に少しずつ光が差し込んでいる。


『匡花。ここは虚構の世界とは違い、取り返しがつきません。どうか悔いのなきよう』

「待って! あなたは――」

「……の……どの、奥方殿!」


 身体を軽く揺さぶられる感覚で、ふと我に帰った。いつにも増して青白い顔のアレスターが、こちらをのぞき込んでいる。


「おおっ、目覚めたか! しっかし、頬がパンパンに腫れておるのぉ」

「それより時渡人は……」


 いつの間にか元の廊下に戻り、顔のない女性はいなくなっていた。


「元の世界の私が消えて、シビュラゲームとよく似た世界にいるってこと?」

「おーい、大事ないか?」


 到底信じがたいが――頬に触れるアレスターの冷たい手が、夢の産物だとは思えなくなってきた。


「待って。そしたら『エメルレッテ』はどこの誰なの?」

「自分の打撃で記憶喪失にでもなったかの?」


 いよいよ本気で心配をはじめたアレスターに部屋へ戻され、ひとりになると。


「異世界、か……」


 遅れてやって来た実感が襲いかかり、目の奥がじんわりと熱くなった。

 もう誰も、私を『匡花』とは呼んでくれないのだろうか。親も友達も幼なじみも、本当の私を知る人は、ここには誰ひとりいない。


「お金も、ぜんぶ無駄になっちゃった……」


 ついに堪えきれず、涙がすっと頬を流れていった。声が出ない。熱い滴だけが流れていく。そしてその熱が、ここが現実であることを容赦なく伝えてくる。


「奥方殿」


 控えめなノックとともに声が響いた。嗚咽は引っ込んだが、声はまだ出ない。


「夜も更けてきたのじゃが、今夜はやめておくか?」


 扉越しに、アレスターの猫撫で声が響く。彼は私がドラグに嫁入りしたことを、今になって後悔していると思っているのだろうか。


「『もし考えを変えるのなら今のうちじゃ』、と事前に忠告したろうに……まったく」


 何の話か、と思ったが。おそらくエメルレッテとアレスターには、結婚前に何らかの繋がりがあったのだろう。

 その後も沈黙を貫いていると。アレスターは深いため息とともに、「あやつ」と呟いた。


「子どもの頃は、あんな気弱ではなかったのじゃ。人間と共に暮らせば、何か変わると思ったんじゃがのう」

「変わる……」


 そうだ。この世界シビュラがゲームではないとすれば、あのドラグと推しは別。彼には彼の人生がある。


「お主も、何かを変えたくてここへ来たのじゃろう?」


 それで婚姻を受けてくれたのではないか――アレスターの言葉で、ようやく気づいた。エメルレッテにも、彼女の人生があったのだ。

 私が『匡花』であることは、きっとこの先も変わらない。しかし今の自分は、この世界の者たちからすればエメルレッテに違いない。


「だったら今は、私がエメルレッテにならないと」


 彼女がドラグとの婚姻を受け入れた、本当の理由は分からないが――頬の滴を払い、部屋の扉を開いた。


「お待たせいたしました、ドラグ様のところへ参ります。まずはちょっとお話してみようかなと」

「……そうか。この家も問題だらけじゃが、よろしく頼むぞ」


 問題――アレスター以外見かけない使用人、ところどころ荒れたお屋敷、そして領主家とは思えない質素な食事。ここが私の夢ではないというのならば、現実リアルに困窮しているということだろうか。


「でも、どうして……?」

 

 それもドラグに会えば分かるだろう。固く微笑んだアレスターに案内され、人間サイズよりひと回り大きな扉を叩いた。


「ど、どうぞ」


 芯のない返事とともに、部屋の中へ通された瞬間。


「めっ、目がっ!」


 眩い光に圧倒され、思わず腕で視界を遮ってしまった。大ぶりの宝石がついた首飾りが、ガラスケース越しに青緑の光を放っている。


「結婚記念のプレゼント……送るのが当たり前だって聞いて」


 まさか田舎領の領主がここまで裕福だとは。見かけによらず、領地経営の手腕は推しのドラグ様に負けていないのだろうか。

 するとあの傷ついた大理石の床や、質素な食事は「推しモドキ」の趣味――そうだ、きっとそうに違いない。ただでさえ性格が反転しているというのに、経営手腕まで落ちているなんて、認められるものか。


「……気に入らなかった?」

「い、いえ。ありがたく頂戴いたします」


 今断るのは失礼だ。少し優越感に浸ったら、アレスター経由でこっそり返しておこう――そう思いつつ笑みを保っていると。ドラグの視線が、静かにこちらへ向いた。固そうな鱗に覆われた手が、おそるおそる伸びてくる。


「なっ……何ですか?」

「危なくないように爪は折ったんだけど。怖かったら言って」


 しまった。こちらはお話しするだけの気分で乗り込んでいったのだが、そんな事情あちらは知らない。


「ままま待ってください! 今夜はお話するだけのつもりで」

「でも、これからは人間きみと暮らすんだし……早いうちから力加減に慣れておかないと、傷つけてしまうかもしれない」

「え?」


 何やら話がすれ違っている気がする。

 ひとまず率直に、「何をなさるおつもりで?」と尋ねたところ、ドラグは出しかけていた手をひっこめた。


「式の後に話したんだけど、忘れちゃった……?」


 気まずそうに視線を逸らしながらも、彼はもう一度話してくれた。「人間に触れる時の力加減を練習させてほしい」と。


「練習って、触れたことがないのですか?」

「うん……人間はシオンに住んでなかったし」


 『シビュラ』ゲームに人間は登場しない。しかしこの世界には、エメルレッテ含め人間が普通に存在しているということか。

 それにしてもこの2人、結婚する仲だというのに、やはり打ち解けられている気がしない。アレスターの『ドラグは子どもの頃から気弱ではなかった』、という言葉からも察してはいたが、これはもしや――。


「あのー、ドラグ様はなぜ私と結婚を?」


 言い淀む彼に、「建前ではなく本音をお願いします」、と先を促したところ。


「僕は腐っても本家の当主だから……『嫁がいないのでは箔がつかんじゃろ』って、アレスターが」


 あぁ、腑に落ちた。これはアレスターから勧められた縁談、政略結婚ということだ。


「でもせっかくご縁があったんだから、今度こそ仲良くできたらなって、思ったんだけど……昨日部屋に来なかったのは、ドラゴンのくせにぼくが嫌なせい……?」

「そんな!」


 いくらネガティブでも、そこまで言うことはない。推しとのギャップに息が詰まりそうになるが、ここはグッと堪えなければ。


「昨日は式で疲れていまして」


 ドレス姿で朝を迎えて驚いた、アレスターに確認すれば分かる、と弁解したところ。かすかに揺れる金色の瞳が、静かにこちらを捉えた。


「確かにドラグ様はシャイなお方のようですが、私に歩み寄ろうとしてくださっているではないですか」


 政略結婚だからといってエメルレッテを放置せず、異種族の嫁をわかろうとしている。


「素晴らしいことです」


 心からの言葉を口にした瞬間、ほの暗い金色の瞳に光が差した。推しと同じ名前の彼が、初めてこちらをハッキリと見てくれている。


「君は優しいんだな」

「……客観的な意見を述べただけですわ」


 優しいはずはない。彼を愛する気持ちもなければ、夫婦になろうという気もないのだから。

 このままエメルレッテのフリをして、推しモドキと生涯を共にしなければならないのか――しかし時渡人の言葉が本当なら、元の世界に帰る身体はない。


「あの、エメルレッテ……さん」


 初めて名前を呼ばれ、思わず口をぽかんと開けてしまった。慌てて「はい」と返事をすれば、ドラグはそっとこちらへ手を差し出した。漆黒の鱗が並んだ手の甲とは違い、白い手のひらは滑らかな質感だ。


「君から触ってもらえたら、怖くないかなって」

「あっ……そ、そうですね」


 まずい。推しモドキとはいえ、同姓同名かつ同じ漆黒の鱗をもつ彼に触れるなど、畏れ多くて気が狂いそうだ――しかしやはり、手の甲やひらに刻まれた細かい傷が目につく。


「その傷、どうされたのですか?」


 話題を変えよう、という意図が丸見えだっただろうか。ドラグはしばらく固まっていたが、やがて気まずそうに視線を逸らした。


「慣れない料理をしていたら……って違うんだ! やっぱり何でもない!」


 料理。最初の方は消え入りそうな声だったが、たしかにそう聞こえた。大きな身体と鋭い鱗の手で、厨房に立っている姿を想像すると、なんとも微笑ましいが――領主自ら料理をする機会など、あるのだろうか。

 やはり何か怪しい――。


「そっ、それで、さっきの話なんだけど……やっぱり僕は力加減が分からないし、君から触れてくれないかな……?」

「わ、私から……ですか」


 再び差し出された黒い手が、かすかに震えている。拒絶されることを恐れているかのようだ――しかし彼と本当の夫婦になるつもりのない私には、この手に触れる資格がない。


「エメルレッテさん、どうしたの? やっぱり嫌……かな」


 こちらの顔色をうかがう彼は、やはり勇猛果敢な推し『ドラグ様』とは似ても似つかない――が、彼が想像の及ばない力を隠していることは確かだ。それに臆病ながらもこちらを気遣う様子から、本当に優しい人であることが伝わってくる。


「決して嫌というわけでは。ただ……」


 差し出された手を見つめながら、言葉を選べないでいると。ふと頭の中に、声が浮かんできた――『竜の夫とともに、其方がこの地を救うのです』――時渡人が最初に放った、あの言葉。


「あれが、私がこのシビュラに来た理由……?」


『この地を救う』という部分が壮大で曖昧だが、ここが現実に存在する「シビュラ」だというのならば、何をすべきかはっきりしていることがある。


「ドラグ様」

「えっ、な、何かな?」


シビュラゲーム』で推しのドラグ様とともに、この地を統治したプレイヤーができることはひとつだけ――もしこの竜人と、夫婦ではなくビジネスライクな関係になれたのならば。

 唐突に放り込まれたこの世界でも、匡花わたしの居場所が見つかるかもしれない。


「え、ええと……何?」


 こちらまで緊張が伝わってくる顔を見上げ、深く息を吸い込んだ。


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