第五話 タバコの香り

「笑いたくなったらお前のところに行くよ」


 その言葉通り、裕斗ゆうとは頻繁に健人けんとに会いに来ては、楽しそうな笑顔を見せてくれるようになった。一緒にふざけ笑い合う日々に安心しきっていた健人は、裕斗の悲しげな横顔を見て、それは希望的観測なのだと気付いてしまった。


 あの日、裕斗は「泣きたくなったら俺のところに来いよ」という言葉に、「笑いたくなったらお前のところに行くよ」と答えた。その言葉の本当の意味を健人は考えようとしなかった。周りの人のことが自分よりも大切で、親友や家族の前ですら泣けない裕斗が「笑いたい」と思う。それは「泣きたい」と同義なのだ。


 辛くて、苦しくて、どうしようもなく泣きたくなった時、裕斗は笑顔になるために健人に会いに来ていた。そんな簡単なことに健人は今まで気付かずにいた。気付かないままでいようとしていた。タバコを吸う裕斗の横顔から目を背け、気付かないふりをしていた。


「さすがにこの時期のベランダは寒いな」


「もう冬だからな」


 ベッドに腰掛けた健人は、ベランダから入ってくる裕斗に顔が見えぬよう枕を抱きしめ、部屋の隅に置かれたテレビに視線を向ける。テレビには二人が大好きなお笑い芸人が映っていた。


「おっ、新ネタじゃん。面白い?」


 そう言いながら、裕斗は健人の横に腰掛けた。


「面白いよ」


「涙が出るほど?」


「うん。大笑いしすぎて涙が止まらん」


「そっか」


「そうだよ」


 少しの沈黙の後、裕斗はテレビを見つめながら話し出す。


「最近さ、母さんも妹もようやく元気になったんだよ。家の中もすっかり片付いて、普通の生活に戻った感じでさ。親父がいないのがもうこの家の『普通』なんだなって思ったりして」


「…」


「玄関もリビングもさ、家中なんか前より良い匂いとかするんだよ」


 不自然に明るい声で、笑い話にしようとしている気がした。それでも、自分の気持ちを出すことができない裕斗なりに向き合ってくれているのだと思う。不器用な裕斗なりに精一杯、自分の気持ちを伝えようとしてくれてくれている。そう思えば思うほど、健人の涙は止めどなくこぼれ落ち、きつく抱きしめた枕を濡らす。


「きっと二人にとってはその方がいいんだよ。いつまでも親父の面影が残ったままの家よりも、今の方が親父がいない寂しさを感じないんだと思う」


 そう言うと、裕斗はズボンのポケットからタバコを取りだした。若者が好むとは思えない昔ながらのデザインで、きついタバコだ。


「このタバコさ、親父が昔吸ってたんだよ。歳をとってからは『健康のために禁煙しなさい』って母さんに言われて吸わなくなってたんだけど、あの日たまたま見かけてさ。何だか懐かしくなったんだ」


「寂しいとかじゃないよ。ただこのタバコを吸うと親父のことを思い出して、親父をそばに感じられるんだ」


 裕斗の手が不意に健人の頭に触れ、肩へと引き寄せる。


「お前がそばにいてくれれば、俺は大丈夫だよ。お前といれば、ちゃんと笑顔になれるから。だから、もう泣かなくていい」


 そう言って優しく微笑む裕斗の首筋から、ほんのり苦い「タバコの香り」がした。

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