靴の家

あまみけ

靴の家①

 今日はえらく寒い。

 東京の今日の最低気温は氷点下2℃。

 この冬初めての氷点下の日になった。

 明日は都内も大雪になる可能性があるとして、JRが早々に一部区間の電車の計画運休のアナウンスを出したことで、総務からは「可能であれば定時を待たずに早めに帰宅して下さい」とのメールが一斉送信されたが、私がマネージャーを勤める“開発第一チーム”はとても定時前に退社出来るような状況ではなかった。


 「お客さんの方も早く帰れって、言われてないんですかねぇ〜?」

 んーっと伸びをしながら、隣の島の下村が怠そうに言う。

 「渡辺さんが確認したら、仁科係長が明日中に追加予算申請の稟議書をまとめないといけないらしくて、予定通りに定例はやるそうですよ。」

 そう答えたのは、私の隣の席にいる入社3年目の高橋夏希で、渡辺というのは当社の営業マネージャーだ。

 夏希は、私のチームの唯一の女性メンバーで、本部内でも随一の美人なのだが、今年の元旦にプロポーズされて、春には「高」橋夏希から「髙」橋夏希に変わることになっており、夏希の婚約ニュースでガックリと肩を落とした若手男性社員は少なくない。


 「夏希は今日の定例は必須じゃないんだから、早く帰りなさいよ。」

 私が夏希に早めの帰宅を勧めると、夏希も自身の担務で仁科係長に確認したいことがあるらしく、私と下村と夏希、そして新入社員の野中の3人で大手町の客先定例に参加することになった。

 

 「江田さんたちはお昼どうします?私たちは大手町でもこっちでもどちらでも構いませんが?」

 いつものランチ時間である13:00には少し早い頃合いだったが、今日の定例のメンバーではない江田と曽谷にランチを一緒にするのかと確認すると、江田たちも一緒にランチに出るというので、チーム全員で事務所近所でランチにすることにした。


 「大手町でなくてよかったのですか?マネージャーたちの方こそ。」

 私に並んで江田が言う。

 江田は3年前にシニア採用になった部付きの担当課長だが、私の元上司であり、OJT指導員でもあったので、もうかれこれ20年近くの付き合いになる。

 今は担当課長の役職だが、元は私たちが所属するシステム開発第一部の部長で、今回の大型案件の切り札として、チームに参加してもらっているのだが、どうにも江田に“マネージャー”などと呼ばれるのはやりづらい。

 私もマネージャー職は2チーム目で、それなりの経験は積んでいるという自負はあるのだが、それでも江田に言わせると「まだまだ効率が悪い。」と、2人の時には今でもご指導いただくこともある。


 「もう、大手町の豪華なランチも飽きてしまいましたから、安くて落ち着くこっちの方がいいですよ。」

 と、江田に返すと、江田は今日は魚が食べたいそうで、近くのなじみの定食屋に向かうことにした。

 駅までは傘を使いたくなかったが、そうはいかないほどには雪はもう降り始めていた。


 山手線の内側ではあるものの、住宅街のこの一帯に今の事務所はある。

 私たちの本来の事務所は、港区のビジネス街にある本社なのだが、今回の案件は4年計画の大型案件のため、今後は関連会社のメンバーや協力会社も入ってくることもあって、プロジェクトルームを借りることになった。

 気付けば、昨年のちょうど今頃に移ってきたので、もう1年が経った。

 ここは元々は関連会社の本社社屋であったが、10年ほど前に関連会社の再編により、空き事務所になったため、プロジェクトルームとしてやテストルームとして使われている。

 ただ、住宅街の中にあるため、事務所の周りには飲食店が少なく、これから向かう定食屋とファミレスが1軒、ラーメン屋が1軒くらいしか毎日のランチとして使える店が無いのが難点だ。(ランチで最低1,500円以上するカフェがあるにはあるのだが…)


 「鈴乃屋」という定食屋の暖簾をくぐって、いつもの席を見ると空いている。

 女将もこちらのメンツを見て、いつも通りにそこの席へどうぞと店の奥の4名テーブル席2つを使わせてもらうことになった。

 江田は今日の魚定食が鯖の味噌煮だと言うので即決、魚好きの夏希も続いた。

 お肉の定食は唐揚げだというので、唐揚げ好きの下村と曽谷はお肉の定食で、野中と私はハンバーグ定食を注文する。

 ここの昼のメニューは全て850円均一で、ごはんの大盛りと海苔とふりかけがサービスなだけあって、近所のサラリーマンだけでなく、この辺りのお高いマンションやお屋敷の住人の客もちらほらと見かけるほどだ。


 私は食事をさっと済ませて、明日の交通機関が麻痺した場合はそれぞれリモート作業にすることと、客先定例に参加する私たちは会議後は帰宅してテレワークにするため、江田と曽谷も今日の最低限の業務が終わり次第、帰宅して欲しいと伝えて、下村たちと駅へと向かった。

 30分ほどの短い昼食時間だったが、歩道の脇には少しずつ雪が積もり始めていた。


 

 

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