将棋×AI

ぽぽぽぽぽ

AI名人

「ったく、また外れか」


早稲田大学の最寄り駅近くの場外馬券場で、高田勇人は競馬新聞を丸めて投げ捨てた。三連単を外し、今月の借金はさらに膨らむことになる。

かつて将棋界きっての逸材と呼ばれた彼が、こんな場所で日々を潰すようになるとは誰が想像しただろう。高校二年の夏、全国高校将棋選手権での優勝は、彼の輝かしい将来を約束するはずだった。

大会優勝から一週間後、勇人は将棋会館で行われる研究会に向かっていた。その道すがら、スマートフォンの通知が次々と鳴り響いた。その日のニュースは、彼の心を大きく揺さぶった。


「現役名人、人工知能に敗れる―圧倒的な差で完敗」


スマートフォンの画面に踊る文字を、勇人は何度も読み返した。記事によれば、名人は終始優勢を築くことができず、中盤戦から一方的に押し切られたという。現代将棋界の最高峰である名人でさえ、もはやAIには歯が立たないことが証明されてしまった。


「これじゃあ、俺たちが指す意味なんて...」


勇人の脳裏に、先週の熱戦が蘇る。決勝戦で放った渾身の一手。相手の予想を裏切る妙手。観客の沸き上がる歓声。けれど今、それらはすべて虚しく感じられた。

人工知能は、最高峰の棋士ですら超えてしまった。今後さらに進化を続けるAIの前では、人間の将棋など、所詮は子供の遊びに過ぎないのではないか。そんな虚無感が、勇人の心を蝕んでいった。

結局、その日の研究会は欠席した。街をさまよう足は、自然と将棋会館から遠ざかっていった。

帰り道、街頭の電光掲示板でもそのニュースは流れていた。通行人たちが足を止め、驚きの声を上げている。しかし勇人にとって、それは将棋界の革新的進歩を告げるニュースではなく、人間の将棋に終焉を告げる暗い予言のように感じられた。

夏休みが終わり、学校が再開しても、その虚無感は消えることはなかった。担任からは東大合格を期待される優等生。将棋界からは次世代のホープと目される存在。その二つの期待が、今や重しとなって彼の肩にのしかかっていた。


「高田君なら、東大に行けるよ。実績も成績も十分だ」


進路相談で担任に言われても、どこか心ここにあらずといった様子だった。

将棋部の部活動も、なんとなく足が遠のいていった。顧問には体調不良を口実に休みがちになり、ついには引退時期を早めることにした。誰もが不思議がったが、勇人は理由を語ろうとはしなかった。

センター試験の結果は悪くなかった。しかし、二次試験の勉強に身が入らない日々が続いた。将来への漠然とした不安が、彼の集中力を削いでいった。

結果として東大受験は叶わず、第二志望の早稲田大学に進学。将棋部の勧誘も断り続け、気がつけば大学三年生になっていた。

場外馬券場は、勇人にとって居心地の良い場所だった。ここには将棋とは無縁の世界が広がっている。データと直感が織りなす独特の空気が、どこか心地よかった。

最初に老人の存在に気づいたのは、常連客たちの会話からだった。


「村松のじいさんも来てるぜ。あの人が来る時は大概当たるんだよな」

「ああ、元奨励会員の? 相当な腕前だったって話だよな」


その日を境に、勇人は老人の動向を何となく気にかけるようになっていた。老人は実に様々な角度から競馬を分析していた。血統、調教、騎手の特徴、馬場状態。そのどれもが、ただのデータ分析には留まらない深い洞察に満ちていた。


「その馬、惜しかったな」


ある日、勇人は思いがけず声をかけられた。七十がらみの、やけに鋭い眼光を持つ老人―村松だった。


「若いのに、随分と詳しそうだな」


老人は勇人の手元の馬券を覗き込んだ。


「ここの馬、確かに血統はいい。でも、調教師の育て方を見ていると、まだ本来の力は出せていない。今日の相手は格上すぎた」


老人は続けた。


「競馬というのは面白いもので、血統だけじゃ勝てない。調教も大事だし、騎手の技量も、馬場の状態も、すべてが絡み合って

結果が出る。データだけ見てても、見えてこない何かがある」


その言葉に、勇人は何か引っかかるものを感じた。

それから不思議な縁で、勇人は週に一度、老人と言葉を交わすようになった。最初は競馬の話だけだった。しかし、会話を重ねるうちに、老人の将棋の話を聞くことも増えていった。時には、場外馬券場の片隅で対局することもあった。

老人―村松の将棋は、独特の味わいがあった。腕前は確かに衰えていただろう。しかし、一手一手に確かな重みがあった。その指し手は、時として古めかしく見えた。けれど、その中に深い洞察が潜んでいることを、勇人は直感的に感じ取っていた。


「今日の馬みたいなもんだ」


ある日、老人はそうポツリと言った。


「データじゃ測れない何かを、君は持っている」


勇人が黙り込むのを見て、老人は穏やかな口調で続けた。


「まあ、将棋なんて所詮ゲームみたいなもんだ。やめたきゃやめればいい。でもな」


老人は、最後の一レースを見つめながら言った。


「この競馬場にいる連中を見てみろ。みんな勝負の世界で生きている。データも大事だが、それだけじゃ勝てない。人間にしか

分からない何かがある。将棋だって、同じことじゃないのか」


勇人は黙って老人の言葉を聞いていた。


「来週、全日本学生将棋選手権があるらしいな。出てみる気はないか? まあ、無理にとは言わんがね」


その夜、勇人は久しぶりに将棋盤を広げた。駒を手に取ると、懐かしい感触が指先に伝わってきた。

次の週末、勇人の姿は場外馬券場になかった。


予選会場に姿を現した勇人に、周囲からざわめきが起こった。


「マジかよ、高田勇人じゃないか」

「なんで早稲田の勇人が出てるんだよ。やめたんじゃなかったのか?」

「あいつ、最近は競馬にハマってるって噂だぜ」


耳に入る声を無視し、勇人は静かに駒を握った。懐かしい感触が、指先を通じて全身に広がる。

悪くない。


初戦の相手は、関東の某私大のエース。かつての将棋界の逸材を前に、緊張した面持ちだ。

久しぶりの駒の感触。

駒を進めるたび、体が覚えていた感覚が蘇っていく。第一局は、わずか30分での圧勝だった。

しかし、予選を勝ち進むにつれ、勇人は違和感を覚え始めていた。対局者たちの指し手が、かつての記憶とは明らかに異なっていたのだ。


「これは...」


序盤の組み立て方、駒の配置、それらがまるで別物だった。無論、二年という時間は将棋界に大きな変化をもたらすには十分だ。しかし、この変化は単なる進化とは違う何かを感じさせた。

勇人の脳裏に、あの日の記憶が蘇る。全国高校選手権での優勝。喜びに沸く表彰式。そして、スマートフォンに届いた一つのニュース。名人がAIに敗れたという報道。あの時感じた底知れぬ無力感が、再び胸の奥を掠める。

しかし今、目の前で起きている現実はさらに衝撃的だった。AIは単に人間を超えただけではない。その影響は、対局者たちの指し手という形で、確実に人間界に浸透していたのだ。

かつて勇人が知っていた将棋とは明らかに異質な手順の数々。それは、この二年の空白期間に、AIが人間の将棋に与えた決定的な影響を物語っていた。自分が知らない間に、将棋界は大きく変貌を遂げていたのだ。

準決勝までの道のりは、決して楽なものではなかった。一見、圧倒的な強さで勝ち進んでいるように見えた勇人だが、実際には何度も肉薄された。かつての感覚を取り戻しつつあるとはいえ、二年のブランクは確実に彼の将棋を鈍らせていた。

控室で独り考え込む。かつての自分なら、ここまで苦しむことはなかっただろう。AIの研究に没頭する若手たちの前で、自分の将棋はどこまで通用するのか。その不安が、静かに心を蝕んでいた。決勝。対戦相手は東京大学の松本だった。高校時代の後輩で、かつては勇人に及ばなかった実力者。しかし今や、その指し手は誰もが認める強豪のそれになっていた。


「高田先輩、お久しぶりです」


松本の挨拶には、かつての敬意は感じられなかった。その瞳には、どこか機械的な冷たさが宿っていた。

観戦している学生たちの間で、囁きが交わされる。


「松本って、あの松本だよな?」

「ああ、AIの申し子って呼ばれてる奴」

「徹底的にAIを研究して、完璧な序盤作戦を構築したらしいぜ」

「最近の大会じゃ、誰も崩せないんだとか」


対局開始。松本の初手は7六歩。オーソドックスな矢倉進行かと思いきや、早めに銀を繰り出してくる。いわゆるAI流の早繰り銀だ。


「なるほど」


勇人は思わず苦笑する。松本の研究量は想像以上だった。後で知ったことなのだが、この変化、最近のAIが好んで選択する手順の一つらしい。従来の定跡書には載っていない新手だが、驚くほどの好成績を収めている戦法だった。

中盤戦に入り、松本の指し手は更に鋭さを増す。歩を突き合うタイミング、駒の配置、すべてが計算機のような正確さで進められていく。特に、6筋の歩交換から始まる攻め合いの手順は、まるでAIの棋譜をなぞるようだった。


「やはり、研究の差か...」


勇人の額に冷や汗が浮かぶ。二年のブランクの間、将棋界はAIと共に大きく進化していた。松本の指す一手一手が、その現実を突きつけてくる。

形勢は徐々に傾いていく。松本の玉形は堅く、攻めどころが見当たらない。一方、勇人の玉周りには微妙な薄みが生まれつつあった。

観戦していた部員たちの間で、ささやきが聞こえ始める。


「さすがAI研究の松本だな」

「さすがの高田もきついんじゃないか」


その時だった。

盤面を見つめる勇人の目に、何かが映った。



「これは...」

玉を囲む松本の堅陣。確かに完璧に見える。しかし、その完璧さの中にこそ、人間的な隙があった。AIならば決して作らない形。人間が、AIの真似をしようとするからこそ生まれる微妙なズレ。


7五桂


会場がざわめいた。意表を突く一手だった。松本の眉が初めて動いた。この手は、AIの示す最善手ではない。評価値では悪手かもしれない。


しかし─


「これが、人間の将棋だ」


この一手で勇人は息を吹き返した。玉周りの堅陣に生まれた歪みに、勇人の読みが噛み合っていく。かつて感じていた駒の躍動感が、今、確かに手の中に蘇っていた。


「まさか、この形を...」


松本の動揺が見える。AIの棋譜では現れない手順。しかし、人間対人間だからこそ成立する攻め合い。勇人の駒は、松本の玉周りへと襲いかかっていく。

攻め合いは、まるで無限に続くかのように展開された。互いの持ち時間が刻一刻と減っていく中、二人は最後の一手まで全神経を注ぎ込んだ。

時計の針が静かに動き、窓の外では夕陽が沈みかけていた。会場に満ちていた緊張感が、少しずつ、けれど確実に和らいでいく。夏の終わりを思わせる風が、開け放たれた窓から差し込んでいた。

机を挟んで向かい合う二人の呼吸が、徐々に落ち着きを取り戻していく。駒の温もりが、まだ指先に残っていた。夕暮れの柔らかな光の中で、対局は静かに幕を閉じた。



勇人は駅に向かう途中、ふと足を止めた。かつて通い詰めた将棋会館が、夕闇に溶けていくような姿で佇んでいた。表彰式の日以来、この建物を避けるように生活してきた。しかし今、その輪郭は懐かしく、温かく感じられた。

ポケットの中の携帯電話が震える。競馬アプリからの通知だった。いつもなら即座に確認するその通知を、今日は無視した。

翌週、場外馬券場に足を運ぶと、いつもの席に老人の姿はなかった。その次の週も、その次の週も。結局、あの独特の眼光を持つ老人と言葉を交わすことは二度となかった。

しかし、老人の言葉は今も鮮明に蘇る。

データでは測れない何か。

それは将棋にも、人生にも通じる真理だった。


...


二年後。

早稲田大学大学院の研究室で、勇人は画面に向かっていた。


「高田さん、この棋譜解析の結果が出ました」


後輩が声をかける。


「ありがとう」


画面には、膨大な棋譜データが広がっていた。そこには過去の名手たちの対局記録が、AIによる解析結果と共に展開されている。

勇人の研究テーマは、「人間らしさの定量化」だった。AIと人間の指し手の差異を徹底的に分析し、そこから人間特有の創造性や直感を数値化する試み。一見、非合理に見える人間の判断の中に、新たな合理性を見出すことを目指していた。


「面白いデータが出ましたね」


後輩が画面を指さす。


「この場面、AIは後手に大きな優勢を示していますが、実際の対局では先手が勝利しています。しかも、同じようなパターンが複数の棋士に共通して...」


データだけじゃ測れない何かを、形にする


老人の言葉を思い出しながら、勇人はキーボードに向かった。将棋は、終わりなき探求の道だった。それは、人工知能と人間の狭間で、新たな可能性を追い求める道でもあった。

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