番外譚

ep13.5 【番外譚】手を伸ばせば

※本編読了後推奨。ep数は時系列です。




 砂漠から吹く乾いた風に髪を撫でられ、ヴァンは目を覚ました。

 書斎の机でうたた寝をしていたらしい。


 外はまだ明るいが、陽が傾いていた。

 部屋には鮮やかな西陽が差し、遠くから城下町の喧騒が聞こえてくる。


 ぼんやりした頭で顔をあげると、卓上には書きかけの密書が不用心に拡がっていた。

 昨日から眠らず書類をまとめていたのが、とうとう眠気に負け意識が飛んでいたようだ。


 一瞬ひやりとするが、自分を飼っているあの男は今ここにはいない。

 寝ぼけて焦った自身に呆れながら、ヴァンは短く息を吐いた。




 ヴァンがサンドレア王国での密談からもどって間もなく。

 マルゴーン帝国皇宮には、第七皇子レリウスが自ら指揮をとり、シカーテ諸島北部遠征にて快勝した一報が届けられた。


 レリウスはこの侵略戦争のため1ヶ月ほど前から留守にしている。

 勝利を納めたものの周辺の反発勢力鎮圧のため、いまだ軍に留まり指揮をとっているはずだ。


 ヴァンはレリウスがもどるまでに、王国宰相との取引について数少ない味方の者たちに共有し、動き出す準備をしなくてはならない。


 ヴァンには少なからず帝国皇宮内に味方がいる。

 彼らもまた、レリウスの本性に気づき、時期皇帝の座を危惧し、今の帝国の在り方に苦言を呈す、ヴァンと同じ道を志す者達だ。


 ヴァンは書きかけの密書を机の奥深くにしまうと、立ち上がってバルコニーへと出た。




 バルコニーに出ると、階下で下女たちが邸宅の清掃をしていた。ヴァンの姿を見た途端、彼女たちは慌てた様子で立ち去っていく。

 この邸宅で従事する者達は、ヴァンとの交流を一切禁じられている。姿を見ることも憚るよう言われているのだから、滑稽な話だ。


 そして、彼らと同様にヴァンもまた、レリウスが不在時に人前に出ることを禁じられていた。


 これらはすべて、レリウスのヴァンへの執着によるものだ。独占欲や所有欲、およそ人に向けられるべきではない過剰な執着。


 それが故にヴァンが長期にわたりマルゴーン帝国を不在にしていたことを知る者はいない。



 ただ一人を除いて。



 唯一ヴァンの行動を知るのは、レリウスにヴァンの監視を命じられながら、レリウスを裏切っている配下の男だ。


 扱うのが容易い男だった。


 ヴァンの美貌を持って近づき、甘い言葉を囁き、身体に触れ、交渉を持ち掛けたら、意図も簡単にヴァンの言いなりになった。

 潔癖そうな容貌からは想像もつかないような悪趣味な性交を好む男だったが、それでもヴァンは彼の要望に応え、秘密裏に立ち回っていた。


 レリウスは知らないのだ。

 配下の男が抱くヴァンへの歪んだ欲望も。ヴァンの手段を選ばない狡猾さも。




 サンドレア王国からもどった数日後、この男は再び邸宅へとやって来た。

 皇宮を抜け出す前にも口止めの為に男の要求を飲んだのだが、今回は長期の不在だったためか、再度口止めの対価を要求された。

 ヴァンは再びこの男に触れられることを許した。


 正直、帰ってから誰にも触れてほしくなかった。


 『彼』との一夜を、他の男に塗り替えられたくない思う自分がいた。


 ヴァンはそんな考えが過った自分自身を笑ってしまう。

 こんなにも汚いくせに何を言っているのか、と。


 でも、あの日からヴァンが幾度となく思い出すのは、灰色の瞳だ。


 ヴァンはバルコニーで黄昏る空へとまっすぐに片手を伸ばした。

 その手を見上げながら、『彼』の言葉を思い出す。




 違う未来を手繰ろうとして、単身サンドレア王国へ赴いた。


 私に未来を変える力はあるだろうか、足掻いたところで無意味に終わらないだろうか、兄上に知られたらどんな仕打ちを受けるだろうか。


 不安に挫けそうになりながら、縋ったのは王国の宰相だった。

 宰相は末席の皇子である私の協力要請に応えてくれた。喰えない男ではあったが、実直で誠実な男だった。


 切り札をいくつも持っているようで、見せられたのは人智から外れるほどの特別な力を持った痩身の男。

 それだけでも十分にこの男の力を思い知った。私の望んだ未来に近づける確信が持てた。


 そして期待と不安を抱えた帰路の途中、鳥竜種の群れに襲われた。

 興奮したモルローから落下し、意識が遠のいていく中。


 『彼』が現れた。


 強い言葉が私の意識を射抜いた。



 「手を伸ばせ!!」



 その言葉のままに空へと手を伸ばすと、彼は私を力強く掴んでくれた。




 最初は下手な嘘で己を偽っていたが、それをやめた途端、飾らない言葉とまっすぐな感情、屈託のない表情に、目が離せなくなった。


 綺麗な男だと思った。


 きっと恵まれた環境で、愛し愛されてきたのだろう。

 周囲の者達の幸せのために生きる強さを持ち、築き上げてきた彼自身の努力や矜持から滲む、そんな美しさを持っていた。


 私が何ひとつ持ち合わせていないものを、彼は持っていた。


 そこに惹かれた。

 一夜でも欲しいと、貪欲な情動で触れてしまった。


 彼はそんな私に応えてくれた。


 何度も何度も。

 情熱的な言葉を、眼差しを、熱をくれた。


 あの時、灰色の瞳は私だけを愛おしそうに見つめていた。


 一番深く身体を重ねた時、溢れるほどの彼の愛情に触れ、嬉しくて恥ずかしくて切なくて、涙が出た。


 彼は少し驚いていたが「泣いてる顔もかわいい」と微笑んで、涙の理由も聞かず唇で目元を拭い、優しく口づけてくれた。




 静寂に包まれた針葉樹の森。

 仄かに照らす焚き火が爆ぜる音。

 灰色と琥珀の瞳を絡め合って。

 互いの体温の熱さに溶け合うように繋がった。


 あの日を思い出すたび、胸がひりつき鼓動が高鳴る。


 まっすぐに愛情を向けられたのは、はじめてだった。

 人に触れられて心地よいと感じたのは、はじめてだった。


 こんなの、忘れられるわけがない。

 恋焦がれずになど、いられない。




「こうして手を伸ばせば。

 また君は私の手をとってくれるか、グレイ」


 祈るように、願うように。


 ヴァンは掲げた手を見上げたまま、緩やかな風に言葉を乗せる。

 強く差す黄昏の光で、ヴァンの手は眩く輝いてみえた。

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