愛のための死なんてクソくらえ
藤之恵
立夏の知るイロハ
第1話 イロハの死亡
『今日朝8時ごろ、都内の民家で88歳と95歳の女性が一緒に死んでいるところが発見されました。死因は老衰と見られております』
テレビ画面の中でニュースキャスターが読み上げる記事を男はじっと聞いていた。
画面を見つめる口の端には小さな笑が浮かんでいる。
「やっとか」
そう呟くと男は誰に見られるわけでもなく、町の中に消えていった。
×××
『立夏さん、落ち着いて聞いてください。イロハさんが亡くなりました』
「え……?」
受話器から聞こえてくる言葉が、何一つ理解できないのは人生で初めての経験だった。
世界から現実感が遠ざかる。
私だけが色をなくした静寂の中に取り残されたように感じられ、壁にかけられた時計の針だけが規則正しく動いていく。
指先から冷えていく。握りしめたスマホを落とさないように必死に握った。
——イロハが亡くなった。
彼女はまだ若くて、死ぬような理由はない。 少なくとも私が知る限りは。
なんで。
その疑問だけが心の内側を埋め尽くしていく。
ただの雑音になったスマホの向こうの声が、辛うじて私を現実に引き留めてくれていた。
私——寅川立夏は、この日、恋人であり、ユニットの相方でもある竜山イロハを失った。
*
「立夏さん」
私の名を呼ぶ低い声にぼんやりとしていた意識が引き戻される。
着慣れない黒いワンピースの裾を直しながら振り返ると、事務所のマネージャーである砂川さんが心配そうにこちらを見つめていた。
「あ、砂川さん。おはようございます」
電話を貰って二日。今日はイロハを見送る日だ。
あの電話の後、砂川さんはすぐにマンションに来てくれて、これからの日程や用意すべき服装などすべて教えてくれた。
その指示がなかったら、私はいまだにこの部屋に立ち尽くしていたかもしれない。
カーテンの隙間から差し込む光が妙に白々しく見える。
イロハがこの世にいないだけで、朝がこんなにも味気ないなんて私は知らなかった。
「今から移動ですが、大丈夫ですか?」
イロハがいない現実を認められない私に、砂川さんが眉根を下げて慎重に尋ねてくる。
そんなにひどい顔をしているだろうか。ここしばらく鏡も見ていない気がした。
女優失格もいい所だ。
私は軽く息を吸い、力の入らない手を無理やり握りしめた。
「はい。イロハが死んだなんて、今でも信じられないですけど……見送らないわけにもいきませんから」
言葉にしながらも、自分に言い聞かせているようだなと思った。
イロハがいないことが信じられない。だからこそ、葬儀という言い逃れのできない場所に行かなければならない。
そう思っていても心のどこかで拒否する自分がいる。
砂川さんは少し顔をしかめて、こめかみ辺りを指で掻いた。
「お顔を見れない状態みたいです」
「そう、ですか……でも、行かないと」
目を閉じ深く息を吸う。
顔は見れない状態という言葉に、ニュースで流れてきた情報を思い出す。
電車事故。いや、自殺とニュースは散々垂れ流してきた。
勝手に詰め込まれる情報に私はここ数日ニュースサイトを開かなかったくらいだ。
砂川さんが静かに伝えて来る。
「挨拶も無理しないでください。イロハさんも、立夏さんに無理して欲しいとは思ってないですから」
イロハはいつも優しかった。心配する顔がすぐに浮かぶ。
立夏、と私の名前を呼んでキスしてくれたのは、自殺した日の朝だったのに。
今だって目を閉じれば、はっきりとイロハの顔を思い出せるのに。
もう彼女はいない。
「私がしたいんです。たった一人の相方のために挨拶もできないなんて、嫌なんです」
強い口調で言い切る。それが私にできる唯一のことだ。
イロハは無理しないでと言うだろうけど、私は無理してでもイロハに関わっていたかった。
彼女の最後に私がいないなんて、私には耐えられない。
砂川さんは私の言葉に、少しだけ口元を緩める。
「イロハさんも立夏さん大好きだったから、立夏さんに見送られないとこっちに残りそうですよね」
砂川さんは私を元気づけるためにそう言ったのだと思う。
だけど、その言葉は私の本心をこれ以上ないほど突いていた。
先に進む彼の背中にぼそりと呟く。
「残ってくれてもいいんですけどね」
幽霊でも何でもイロハがいると思えた方が嬉しい。
そんなバカげた思いはずっと私の中にあった。
「何か言いました?」
「いえ、行きましょう」
振り返った砂川さんに私は小さく首を振る。
現実感を失くした世界をひとり歩き始めた。
砂川さんが運転する車に乗れば、いつもと変わらず動き出す。
窓の外の景色が流れていく。いつもと同じ景色。
だけど、いつも隣にいたイロハがいないだけで、車内がこんなにも広く寂しく感じるなんて思わなかった。
「変なの」
現実感がない世界は、そのまま違和感になった。
たった一人の人がいないだけで現実が非現実になる。
吐息で曇った窓を指でこする。
「何か言いましたか?」
「ううん、何でもないです」
運転席の砂川さんが聞き返してきたが、私はただ首を横に振るだけで答えた。
*
葬儀場は様々な人たちが詰めかけていた。
どこから聞いたのかカメラを持った人たちも並んでいる。その隣をすり抜けながら駐車場に入っていく。
葬儀場の中は外とは違う静けさが満ちていた。黒い服を着た人々がぽつんぽつんと集団になって佇んでいる。
どこもかしこも、イロハの名前を口にする人、涙を拭う人、呆然と立ち尽くす人が溢れていた。誰もがイロハを惜しんでいるのがわかる。
私は周りを見回すと、何度か会ったことのあるイロハのお母さんに近寄った。
「この度は……」
深く頭を下げる。
その後の言葉なんて、何も出てこなかった。
イロハの死を一番悲しんでいるのは私だという、なんとも傲慢な考えが頭の中を満たしていた。
イロハのお母さんは私を見て静かに微笑んでくれた。
「立夏ちゃん、ありがとうね。あとでちょっと時間もらえるかしら」
「はい、大丈夫です」
微笑みの下に深い悲しみが見て取れた。
最愛の娘を亡くしたのだ。私なんかより悲しいに違いない。
私は素直に頷き、小さなざわめきに満ちた葬儀場を歩く。いろんな囁きが私の耳に届いてきた。
「あれがイロハちゃんとユニットを組んでたっていう子?」
「主演映画の公開の日にイロハちゃんは亡くなったって」
「まぁ、差がついちゃったのね」
「だから……」
誰ともわからない人の声。
私の主演映画の公開の日だったなんて、よく知っているものだ。
イロハはとても喜んでくれた。それで死ぬなんてありえない。
そう否定したくても、噂話に油を注ぐだけだろう。
私は何も言わず、輝くような笑顔の遺影の前でお焼香をあげ、手を合わせる。
閉じた瞼の裏に私だけが知る笑顔のイロハが浮かぶ。
泣きたくなくて、唇を噛みしめた。
「これより火葬場へ移動いたします。しばらく、お待ち下さい」
つつがなく葬儀が終わり、次の儀式に移る。
アナウンスに少しだけ空気が緩んだが、私の気分はさらに重くなるだけ。
悲しみの波が一層深く広がっていくのを感じた。
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