第1部 第1章 ~新米教師~ 新米教師と指導係
「起立! 礼」
梅雨入り間近の五月のある日、高温多湿の空気を吹き飛ばすような、ソプラノ、アルトの調和した挨拶が高校校舎の外へと吹き抜ける。
「「「「「「さようなら」」」」」」
清涼感の余韻が残る教室を後にして、2年4組担任、新任教師の
(清掃は実施せず。みんな賑やかな割に、教室はとても綺麗に使うんだね)
他クラスが清掃をしているのを眺めつつ、学級日誌の先生記入欄にそう書き込む。
光莉も几帳面な方で終礼前に教室環境はチェックするのだが、改めて清掃する必要性を感じないほど清潔に保たれている。
(この教室には綺麗好きな妖精でも住んでいるのだろうか)
まだ彼女たちについて知らないことばかりだが、謎の一つである。
「ひーくん、担任三日目お疲れ!」
「おっとっとぉ!?」
思い耽っていると、快活な女子生徒に追い抜きざまに勢いよく肩を叩かれ、つんのめって日誌を落とした。
部活へ急ぐ彼女は振り向きもせず廊下を駆けていく。
(これはいかん。ここは教師としてちゃんと指導せねば)
「おい、
「なぁ~に?」
立ち止まって振り向く彼女を一喝する。
「お前、カルシウム摂り過ぎだぞ! アイテテテテッ、ほ~れ見ろ! 肩もげたっ!」
「ウケるっ! だいたい私、今日はウィダーインしか飲んでないよ」
「ぬわんだとぉ~!? それはいかん、いかんぞ! もっと牛乳ガブガブ飲め! 飲まないと
「ギャハハ、言えてないし舌噛んで涙目じゃん! 大丈夫?」
「フッ、案ずるな。伝えられない想いが涙となって溢れただけさ」
「イミフすぎる! って、早く行かないと! じゃね、ひーくん愛してるぅ!」
「うぉ~っ! 俺もだ、英ドリアーンー!」
「なにそれ!? よくわかんないけど、おーっ!」
天高く拳を上げて、廊下の中心で愛を叫び合う二人だった。
「は、狭間先生っ!」
そんな二人のやり取りを見かねた一人の若い女性教師が、怒りと羞恥で顔を赤くしながら、ゆるふわなショートボブと小柄な体を揺らして光莉へと駆け寄る。
「お? 水元先生お疲れー」
「お疲れー、じゃないですよ! 先生ちょっといいですか?」
彼女の名は
隣の2年3組の担任で年齢は光莉の一つ下だが、光莉の指導係も任されている。
以来、愛くるしいと評判のどんぐりまなこも吊り上げてばかり。
澄は彼の面目を保とうと周囲に聞こえない声で囁いた。
「今のはマズいですよ」
「やっぱり? だよなぁ、ごめんなさい」
「へ? わ、わかってもらえたなら以後気をつけて――」
「いやぁ、ネタが古かった! あれじゃあ令和のJKとは心通い合わないよなぁ」
「そういうことじゃぬわぁーーーーい!」
ぜえぜえと息を切らす澄。
しかし光莉は「うん?」と首を傾げている。
近くのホールに誰もいないのを確認し、澄は光莉の袖を摘まんでベンチに連れて行った。
「教師と生徒が気安く愛を語り合ったりしたらダメじゃないですか」
あぁ、そっちの話か。光莉は嘆息する。
「あんなの挨拶代わりだよ。お互いわかってやってるし」
「だとしても、二人を見た生徒たちが変な方向に騒ぎ立てる可能性があります」
「それなら大丈夫。誰とでも同じように接しているから。教育とは愛。そして、愛を平等に惜しみなく与えるのが教師である俺の天命。目指せ、教育と愛の無償化!」
「で、でも! その……先生を本気で好きになってしまったらどうするんですか?」
「フッ、男として光栄だな。勿論、生徒に手は出さない。けれど恋心をどう抱くかは、誰が何と言おうと本人の自由」
「そ……それはそうかもしれませんが」
「思春期に恋心を育むことも、淡い恋や失恋も、性に対する知識も、年相応に経験して免疫をつけた方がいい。女子校だと無垢のまま大人になることもあるけど、それは危険。彼女らが逞しく生きていけるよう、俺が純愛と現実の架け橋となってみせる!」
「はぁ~っ……」
澄はがっくしと項垂れる。
光莉の言うことは一理あるし、信念に基づいた行動は理解されている。
生徒たちからは「知的チャラ」と称され、セクハラと捉えかねない言動も彼ならではのコミュニケーションと受け入れられている。
ハラスメントに敏感なご時世に、しかも世間からお嬢様系と評されるこの女子校で不快に思う生徒が一人も現れない。
奇跡というべきか、彼にしか成せない業なのか。
しかし、学校の話題に関心を寄せるのは生徒だけではない。
最近は些細なことで無遠慮にクレームを入れてくる者も多い。
そういう事情を鑑みれば、模範的な行動を心がける方が時流に沿っているから諭そうとするが、なぜだかいつも言いくるめられてしまう。
指導係になってからというもの、澄は合理性と彼の持論とのジレンマに苛まれている。
「で……でも、そういうのを良く思わない人たちだっていますよ」
「関心を持ってくれるだけいいんじゃない? スポットライトは当てられてなんぼ。さあ、濁った色でも何色でも当ててくれ。全てピンクに変えてみせるさ!」
慎ましくさせるつもりだったのに、どうして彼は舞台俳優のように両手を広げて声を張り上げているの?
ああ、ダメだ。やっぱり手に負えない。
ああ言えばこう言ってくる。正論を突きつけても我流で返される。
そんな不可解なことに澄は頭を抱える。
苦労は今に始まったことではない。
指導係に任命された日にはこんな出来事があった。
「この学級目標はどういうことですか!?」
「え? 完璧でしょ?」
澄は光莉へ駆け寄り怒り心頭に発したが、当の本人は反省どころか自画自賛する始末。
「学級目標が『全員陽キャ!』って、ふざけてるんですか!?」
目を吊り上げるのも無理はない。
全教員が目にする学級目標一覧に一つだけ教育的ではない文字が書かれていて、職員室は今この話題で持ちきりだ。
「ふざけてなんかないさ。性格を明るくすることって超大事じゃん」
「そ、それはそうですけど。それならもっと別の言い方が」
「ダメだよそれじゃ。ちゃ~んと学年の空気を読んだのだから」
「学年の空気?」
「ほら。学級目標を1組から読んでみて」
「え~っと、1組は才色兼備、2組は真実の探求。私の3組は末永き愛を知る。4組は全員陽キャで5組が想像と創造。全部読み上げましたけど?」
「さ行のたすきリレー」
「……ハッ!? なるほど! 学年の全先生方の思いを繋ぐ見事なフュージョン! しかも女子校らしくお料理のさしすせそを彷彿とさせる――って、何を言わせるんだぁ!」
「今けっこうノリノリだったじゃん」
「……」
心の中には指導しなければと思う反面、一本取られたと納得する自分もいて怒るに怒れない。
しかし、その感情も光莉の余計な一言ですぐに変わる。
「つーか、3組の『末永き愛を知る』って何? 婚活? 感情移入?」
「な、何を言っているんですか! まるで披露宴で張り切ってブーケトスに向かったら、新郎新婦の友達がまさかみんな結婚していて、私一人ポツンとして祝福ムードが一瞬でお通夜みたいになったことがトラウマになっているとでも思っていませんか?」
「…………」
変に
澄は何かに取り憑かれたかのようにスイッチが入る。
「そういうことじゃないんです! 仕事とプライベートは別なんです! うん? でも、友達は職場結婚が多いのよね。てことは、割り切って考えない方がいいのかな? 二次会でも澄は生真面目なのが残念って。でも、そんなの今更変えられる? それを変えるのが恋愛よって、でもでも、全然できないから困ってるのに、うう~」
憑依したのはつい最近の自分だった。
「……な、なんかごめん」
「ハッ! と、とにかく、生徒が間違った方向へ進まないよう、教育下で純愛の尊さを計画的に説いていくんですって、ちょっと聞いてますかぁーっ!?」
いつの時代の教えだよ。光莉は問い詰めたくなったが、澄の機嫌を取ることを優先する。
「わからなくはないけど、もっと適切な目標があるでしょ? 澄先生ならではの」
「私ならでは? ……何ですか?」
「それは……ごにょごにょ」
光莉は澄に届きそうで届かない絶妙な加減の声量で説く。
「え? ちょっと聞こえないんですけど」
「だから……ごにょごにょ」
やはり光莉の声は澄に届かない。
「えっ? もう一回言ってもらえます?」
(あれ? 私、耳が遠くなったのかな? それとも仕事疲れによる突発性難聴?)
澄は不安を感じながら、光莉の方へぐいっと身を乗り出す。
その瞬間、光莉はタブレットで澄を撮影した。
「ほら、これが3組の新しい学級目標。しかも、ちゃんと『す』から始まるよ」
「???」
マロンブラウンの髪を耳にかけ、上目遣いで悩ましげな表情をした澄が激写されていた。
本人は無自覚だが、それがかえってナチュラルにセクシー。
U字のニットはⅤ字となって小柄なわりに豊かな胸の谷間がチラリ。
「厳選な審査の結果、3組は『澄ちゃんみたいにエロカワ~』に変更だー!」
「……~~っ!」
「さあ3組の生徒諸君。担任見倣って後に続けー! うむ。これぞ理想の女子教育」
「んなわけあるか~~っ!」
「ぐはっ!」
赤面&ぷんすか度MAXで光莉に拳をブンブンと叩きつける澄だった。
澄も気苦労が絶えない。
けれど彼は単に口達者なだけではない。
教師とは思えないほどにチャラいが、冷静さも持ち合わせており、独自のやり方でクラスを上手にまとめている。
実際の所、4組は問題児を多く集めている。
光莉の前の担任がベテランだったため、若い教師の負担を背負ったのだが、その教師は現在うつ病で休職状態にある。
そこで、新任ながら4組の教科担当の中で最も生徒の信頼を得ている光莉に白羽の矢が立った。
着任して間もなくという超異例の人事だが評判は上々だ。
澄は教職業の知識こそ教えるが、そんな彼の手腕をリスペクトもしている。思うようにいかないのは難儀だが。
スペックの高さは着任当初から感じていた。
机回りは塵一つないほど清潔に保たれているし、同世代とは思えないほど堂々とした佇まいで、言葉の端々から豊富な経験に裏付けられた、しかし常識に囚われない柔軟な発想力を感じる。
不思議なのは、新人ながら仕立てが良く、管理職より高級で遊び心のあるスーツを着こなしていること。
身のこなしも美しく、澄は自然と彼を目で追うようになった。
そして、彼女が最も惹き込まれるのは懐の深さ。
澄は職場の先輩として頼られる存在になるよう意気込んだものの、いつの間にか愚痴を聞いてもらっていたり、気分が沈んだ日には優しく励ましてくれたりもした。
彼と話せば気が楽になり、その度に母性本能がくすぐられた。
中高大と女子のみの学び舎にいたことで異性への免疫が乏しいのもあるが、それでも今まで出会ったどの男性にもない不思議な魅力が彼にはある。
恋心をよく知らない澄の光莉への気持ちの中には、リスペクト以外の感情も芽生えつつあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます