シスターマーメイドの告解

藤龱37

それでも人間

 くゆる煙草と香ばしい珈琲の匂いが立ち込める店内。男達の視線を集める、二人の美人がいた。

 片方は真っ白でフリルがたっぷりとしたブラウスを着て、ブラックを啜っている。座高からもわかるほど小柄で、白く長い首をふわふわに巻かれた金髪が隠している。顔立ちは華やか。自睫毛が長くて羽根のように厚く、瞬きの度に風を起こしているような錯覚を覚えるほどだ。

 長い足を斜めに揃えてと同席している女は、すらりとした背筋の分を省いてもかなり背が高い。肩幅の狭さや豊満な胸と尻は色っぽく、しかしどこか淑やかな印象を受ける。顔立ちは精巧に整っている。目を大きく、鼻筋はすうっとしていて、唇は薄いが上唇と下唇の色合いがどちらも均等に薄紅色だ。

 一見して対象的な二人だったが、男達が耳をすませると、彼女達の密接な仲が窺えた。


「そうなのよ。許されざる恋だからって諦めちゃうのが、甘ったれてんじゃないわよって思って感情移入出来なくなっちゃったの。本気なら突き進むべきでしょう?」


 低い男の声で華やかな美人が話す。


「従者はまだやる気だね。お姫様だけ、なんか浮いてるっていうか……もちろんそっくりな人達の恋愛じゃ映えないのはわかるんだけど……これだから貴族って嫌」

「まあ、ファイナ、大胆ね。この国じゃなかったら殺されてたわよ?」

「あらパーシー、うっかりさんね。友達の性格を忘れるなんて。私はそんなに簡単に捕まえられる女じゃないのだけど」

「あーん、素敵!」


 二人は角の丸くなった本をテーブルの真ん中に置いて、適宜指をさしながら話している。威勢が良い割に繊細な方がパーシヴァルで、ちくちくと刺すような話し方をする方がファイナだ。どちらも、根っこにルサンチマンを抱いているという点でとても良く似ていることがわかる。

 全ての頁に指摘を入れるのではないかというほどに二人はずうっと語り合っていたが、手元のカップが空になった頃、突然パーシヴァルが立ち上がった。


「ごめん、煙草に酔ったみたい。ちょっと外出てるわ」

「大丈夫?」

「もちろん」


 言いながらも、パーシヴァルは今にも何かを吐き出すのではないかというほど口を強く押さえている。ファイナは一抹の不安を覚えたが、「わかったわ」と頷いて見送った。

 それから四半刻ほど経っただろうか。カップにはとっくに二杯目のブレンドがなみなみと注がれ、ファイナはぬるくなったそれに口を付けた。さすがに遅すぎる。カップを一気に傾けて飲み干すと、ファイナは席を立った。

 ドアベルを鳴らして外に出る。海風のように粘つく塩の匂い。そこで、ファイナは我が目を疑った。扉から軒先まで、鉱石をスプーンで削り出したような欠片が点々と散らばっている。そのひとつひとつは微妙に色が違っていて、共通するのは青や緑、黒といった、深い水底を彷彿とさせる光を放っていることだ。

 うろこ、だろうか。爪染めが剥がされたのだとするには妙に非人工的に艶めいていて、美しすぎる。でもどこか無惨だ。そう感じさせるのはきっと、湖のように反射光を揺らめかせている重なり合った鱗の中心に、パーシヴァルが倒れているためだった。それでも次から次へと新しい鱗が、パーシヴァルの肌から抜け落ちていった。


「パーシー……?」


 ファイナはふらふらとパーシヴァルに近づいたが、彼は「駄目よ!」と彼女を止める。口を動かしたことで、頬に浮かび上がった鱗がパキパキと音を立てて零れ落ちる。


「これは……鱗に触れたら、感染るの。聞いたことがあるわ……」


 ファイナもその病名を知っていたが、信じたくなかった。

 姫鱗病ひりんびょう。絶対に幸福になれない片思いを拗らせると突如発症する奇病で、愛し合う者との口付けがない限りは絶対に治らない。重篤化すると、肺の側にえらが刻まれ、鱗やひれを作るために血液が浪費されていき、最後には──溺死する。



 ファイナは十六のときにこの聖国にやってきた。

 聖国は神に祈りを捧げることを最上の歓びとし、信徒達は厳しい教義に縛られはするものの、奴隷制度などの罪深い事柄はすべて唾棄される、表面上穏やかな国だ。だが信徒でなければリスクよりもリターンが大きい。生まれた瞬間の洗礼を受けていないファイナはカフェで水煙草を吸うことも、肌を見せるようなお洒落をすることもできる。

 ファイナは、そんな聖国でパーシヴァルと出逢った。そのときパーシヴァルはテラスでジンジャーエールを片手に本を読んでいた。ファイナはパーシヴァルの美貌より、彼の身につけている可憐な服に目がいった。思わず話しかけると、パーシヴァルは気を悪くした素振りもなく、それどころかファイナのお気に入りのバッグを褒めてくれたのだ。ファイナはいっそう彼に惹かれた。一目惚れと言っても良かった──後に、パーシヴァルもそのときファイナに一目惚れしたのだと教えてくれた──。

 二人は意気投合した。二人が同い年だったのもあって、小説の話やファッションの話など、話題は尽きない。話すのは趣味のことばかりで、お互い過去に触れなかったのもむしろ二人を強く結びつけた。そうして二人は二十歳になった。そして、パーシヴァルが倒れた。



「ねえ、誰のことが好きなの? 協力する。だから──」


 ファイナはベッドに力なく横たわるパーシヴァルの手を握り、頭を擦り寄せた。

 パーシヴァルは「駄目よ」と彼女のつむじの辺りを弱々しく撫でた。その腕にはひれじみたものが入れ墨のように走っている。


「大事なコなの。アタシのことで困らせたくないわ」


 パーシヴァルは告白すらするつもりがないようだった。それどころか、死を受け容れているようにすら見えた。

 ファイナは親友を死なせたくなかった。パーシヴァルの諦念に満ちた微笑みを見るたび、痩せ細っていく頬に触れるたび、その気持ちは強まっていく。いっそファイナがパーシヴァルの心を上書きして、彼に愛された人に成り代わって唇を奪えたなら。そう思う夜もあった。だが、お姫様は我儘だと相場は決まっている。例に漏れず姫鱗病も、思いの通じ合わない相手とのキスはなんの薬にもならない。むしろ毒だ。まるで天罰のように、死を齎してしまうと聞く。

 不可能。それを突きつけられたとき、ファイナはパーシヴァルのことがどれだけ大好きなのか思い知った。もうたぶん、これは恋だ。卑怯な自分の中に、こんな強い心が残っていたことに驚きながら、ファイナは覚悟を決めた。パーシヴァルを救うことは出来なくても、少しでも生きて、隣にいてもらえるよう手を尽くそう、と。

 翌日、ファイナは教会の扉を叩いた。教会は祈りを捧げるだけでなく、民の病を癒やす役割も備わっている。しかしそれは門前払いに終わる。ファイナとパーシヴァルは洗礼を受けていない。信徒でなければ、救いは与えられないのだ。ファイナは自分を叩き出した牧師を睨みつけ、その場を去った。洗礼を受けていなくたってファイナ達は教義に縛られていないわけではない。血の道の日は外に出てはいけないとか、双子は殺されなければならないとか、そういう嫌味な最低限の戒律を守らされて生きているのだ。まあ水煙草はやっているけれど……でも、理不尽だ!

 ファイナは気の強い女だった。だから、こんなところで諦めるはずがない。


 翌日、ファイナは汽車に乗っていた。行き先は火国。元敵国によって既に植民されてしまった、ファイナの生まれ故郷だ。



 まだファイナの故郷があった頃。

 貴族の起こした戦争はたくさんの人を死なせた。国境の村々の老人、女子供、兵士となった男達。その中には、ファイナの父もいた。


「お母さん、どこいくの……?」


 父の訃報が届いた日、ファイナの母は消えた。知らない男の人の名前を口走りながらパンと水だけ持っていなくなった。ファイナの家族は弟だけになった。弟はファイナによく懐いていたが、夜のおねしょだけは直らなかった。母に捨てられたことに苦しんでいたのだ。

 そしてファイナが十五のとき、国は滅んだ。火国には新兵器があったのだという。

 敵国の兵は略奪を行なった。虫のようにうじゃうじゃいる兵士達はファイナの家もやってきて、床板を泥のついた靴で踏み荒らし、辛うじて残っていたパン屑に舌打ちした。


「ここにあるのは女だけか……」


 ファイナは弟を納屋の屋根裏の棚の中に押し込んで、隠した。だからこの家にはファイナしかいないことになっていた。


「連れて行け」


 「了解しました、ライナー公爵」と兵士は敬礼した。兵士はファイナの美しい顔と躰を舐めるように見て、にやついている。しかしファイナはそれよりもごてごてとした白銀の鎧を身に纏う男をじっと見上げていた。胃の腑が灼けるような吐き気がした。この男達が、ファイナの世界を壊した。ぐちゃぐちゃにした。そして今、ファイナのことも……

 ファイナは貴族が大嫌いになった。



 透明に澄んだガラスのシャンデリアが蝋燭の火を反射してきらきらと輝いている。辺りには著名な楽団の落ち着いた演奏が響き、くるりくるりと回る女達のドレスがあちこちで花のように広がった。ペールブルーのマーメイドラインで着飾ったファイナは、スタッフからシャンパンを受け取り、しゃなりしゃなりと歩く。その背筋はぴんと伸びていて、腰は妖艶に揺れ、さばさばとした足運びには真っ直ぐな意思が現れている。

 ファイナがこの夜の舞踏会に潜入するまでに、色々なことがあった。まず大きな商会を経営する男を捕まえてベッドに入り、下級貴族との繋ぎを作らせる。貴族は簡単には相手を信用しないから、そこからは女を使うことはなかった。数年前のファイナが密かにとある人の書斎に忍び込んで学んでいた様々な学術の見識を利用して──命懸けで吸収した知識は付け焼き刃なんて枠に収まらない──、頭のキレる利用価値の高い大人を装い、寝る間も惜しんで研究に勤しんだ。初めは懐疑的だった下級貴族も、ファイナにかかれば半年で首を縦に振る。ファイナはそういうことが得意だった。まあ、公爵や伯爵といった国のトップならこうはいかなかっただろうが。

 かくして社交界に紛れ込んだファイナだったが、ここからが本番だ。ふう、と胸元のサファイアの冷たい表面に触れながら意識を怜悧にする。パーシヴァルを延命させるだけの技術を持つ医者は、この国では上級貴族しか繋ぎを持たない。汽車に上質なガラス、宝石。この国の繁栄からもわかる通り、上級貴族は一筋縄ではいかない者ばかりだ。持ち前の愛想と美貌だけではどうにもならないだろう。この夜の花園からつまみ出されてもいい。どんなに小さな可能性でも、大きなリスクを背負ってでも、掴み取らなければ。

 ファイナが周囲に視線を巡らせ、カモとなる貴族を探していると──どんと後ろから誰かにぶつかられた。ぱりんと何かが割れる音が小さく響く。すぐさま振り返ると、小さな女の子がいた。そのAラインドレスは王宮御用達の品で、彼女の中に青い血が流れていることを表していた。


「あなた、庶民ね? 見かけない顔だもの」


 小賢しそうな顔で意地悪く笑う。ファイナは頭を下げて口を噤んだ。


「……ふん。直答しない程度の頭はあるようね。どうぞ、お話してみなさい」


 彼女の口ぶりからは、まるで庶民を猿か何かだと思っていることが窺えた。


「お初にお目にかかります。ファイナと申します。この度は──」


 ファイナは少女のドレスの裾に付着したワインレッドの微かな汚れを見留め、跪いてハンカチーフを差し出す。


「──お美しいドレスに、大変なことを。申し訳ございません」

「庶民のハンカチなんて、そんな汚いものいらないわ。それより早く目の前から消えて。いいわね?」


 ファイナは眉を寄せる。思ったほど、彼女は貴族らしくない。不思議に思って眼球だけで視線を上げたとき、彼女に近づく大柄の男性に気がついた。


「何があった?」

「……お、お父様!」

「人前では父上、あるいは公爵と呼びなさい」


 「……はい」と項垂れる少女。そのとき公爵がこちらに目を向ける。二人の会話を聞きながら、ファイナはすんでのところで目線を下げた。

 数秒して、公爵はファイナに「立て」と告げた。ファイナは大人しく従う。パノプティコンのような視線を感じた。公爵はスタッフに少女を控え室へ連れて行くよう命じ、少女が去ってから、改めてファイナに「顔を上げて何か話せ」と命令した。

 ファイナはそうっと顔を上げた。艶のある革靴、のりの効いたスリーピース、厚い胸板に収まったブルーダイヤはファイナのものの数倍は大ぶりで、太い首に乗った雄々しくも美しい顔には見覚えがあった。ファイナは瞬時に損得勘定をする。そして淑やかな微笑みを唇にたたえ、眉を下げる。


「リューゲン公爵閣下、今晩は。お会いできて光栄でこざいます」

「そうか」

「わたくし、ファイナと申します。この度はお嬢様のドレスに粗相をしてしまい、申し訳ございません」

「ああ」


 ライナー公爵は表面を微動だにせず凍えるような声音で話す。ファイナは心の底で煮え滾る憎しみを無視し、媚び諂った。リューゲン公爵。彼は、火国一と噂される医者の伝手を唯一持ち、そして、あの日のファイナを捕らえて戦争奴隷に堕とした男だ。

 彼さえものにできれば、いや、ほんの少しでも興味を抱かせることができたなら、上々。相手の頭の片隅に置いた己の存在を大きくしていくことはファイナの十八番だ。この場は、とにかく爪痕を残す。いずれはあわよくばお手つきになれば少しくらいの情けを──


「なぜ奴隷がここにいる?」


 息を呑んだ。ぞっとするような白い感情が背骨から這い上がり、ファイナの頭を空っぽにした。リューゲン公爵の無機質な目線が心臓を強く締め付ける。

 覚えられていた? 気づかれた? どうして? 貴族にとって庶民は無限に湧く労働源に過ぎない。一人一人の顔を覚えているはずがない。なのに。…………また、捕まってしまう。

 ファイナは息もしないで踵を返そうとする。大きく振ったその腕を、リューゲン公爵は危なげなく掴んだ。喉がキッと狭まって、視界が眩む。


「待て。……お前を逃してやってもいい」


 ファイナは訝りながら振り返り、周囲がダンスに興じてこちらを見ようともしていないことを確認してから、「どういうこと?」と硬い声を出した。


「ひとつ提案がある。なに、難しいことじゃァない。もちろん返事はYesだろうな?」

「……はい、公爵」


 「よし」とリューゲン公爵は数回頷いて、ファイナの手を離した。ファイナは鳥肌の立った二の腕の辺りを摩りながらキッと男を睨んだ。リューゲン公爵はファイナを瞳に映しているが、ファイナという自立した意識のある存在として認めてはいない、そういう目をしている。


「提案というのはだな」


 リューゲン公爵は軽く手を払うような素振りを見せる。すると会場でダンスをしていた男女や給仕をしていた若い男などのまるで関連性のない有象無象が、二人の周りに壁になるよう自然に移動した。ファイナは冷水を浴びせられたような気がした。自分は、公爵きぞくの掌の上で踊っていたに過ぎない。

 完全に孤立したファイナはリューゲン公爵を冷静に見据える。リューゲン公爵は満を持して、その内容を口にした。


「お前の主人に花を手向けて欲しい」


 ファイナは未婚だ。主人という存在がいるとしたら、それは奴隷であった頃のご主人様に他ならない。


「それは、墓に行けという意味ですか?」

「いや、違う。線路だ。あの人が死んだ場所に花を手向けること。それがお前のすべき義務で、俺の命令だ。聞けるな?」


 ファイナは一も二もなく頷いた。飛びついたと言ってもいい。そんな簡単な命令で解放されるのなら、それに越したことはない。何より、ファイナは脅されているのだ。

 ファイナはリューゲン公爵に一礼し、すぐさま夜会会場を出て、下級貴族の屋敷でドレスを脱ぎ捨てた。そして乗合馬車に飛び乗る。行き先はもちろん、ファイナを買った老人の旅行先であるあの辺境の街だ。



「百でどうだ?」

「駄目ですぜ。こいつの価値は、千は下らない。他の奴を選んでくだせえ」

「わァったよ」


 そうして、ファイナの側で腹を大きく膨らませた男児が売られていった。

 牢獄は、四隅に蜘蛛の巣が張られ、じめじめとしていて寒い。重い首輪を握りながら冷たい石の床にぺたんと座り、毎日二回、獣の餌のように差し出される平皿のオートミールを食らう。戦争奴隷となったのは幼いファイナだけではない。何十何百という子供が同じ檻に押し込まれ、一人は売られずに命を落とし、一人は売られた先で殺された。識字や算術の技能のある者はそれなりのところに行ったけれど、幸福になったという話は聞かなかった。こうして、この檻に残されたのはファイナだけとなった。

 ファイナは売り渋られていた。母から簡単な計算は教わっていたし、弟の前でお姉さんぶりたくて聖国から出張ってきた協会の元で字も学んだ。そして何より美しかった。十五のときはまだ身長が伸びていなかったのもあって、ファイナの容姿は男好きする女そのものだった。奴隷商人の前で猫を被っていたことも大きいだろう。大人しく言うことを聞く、可愛い女の子。ファイナは商品として言うことなしだった。

 十六になって、ようやくファイナの買い手が見つかった。国一番の金持ちの老人だ。そこで一年ほど老人に愛玩された。娘のように大事にしておきながら、夜はやることをやって、使用人には笑いものにされる。そんな生活が続いた。


「君みたいに綺麗な子は他に知らないよ」


 老人はそう言って、他の奴隷を捨てた。ファイナは痛いほどに穴を抉られているのに、どこか清らかに見えるのだという。ファイナは女の才能があった。知らなくていい才能だった。

 昼間は自由だった。老人は妻と散歩に行ったり、昼食を摂ったりしている。ファイナはその間離れに軟禁されている。その時間だけがファイナの薄暗い希望だった。老人が死んだとき、ファイナはまた誰かの奴隷になる。そのときも良い扱いをしてもらえるようにたくさんの価値ねだんを手に入れなければならない。そして夜、ファイナは大きなベッドの上で、首輪を外して寝かされる。老人は男の象徴がほとんど勃たないから、欲望は満たされず、常に目をぎらつかせていた。老人は妻を愛している。だから、ファイナは愛の中から零れ落ちた薄汚れた感情のはけ口にされる。

 ある日、老人が妻と旅行に行くことになった。その頃にはファイナの首輪はほとんど常に外されていた。ファイナは離れで学術書の頁を捲った。傍らには恋愛小説があって、ファイナは苦しくなったときだけそれを読んだ。やがて日が落ちた。何度も空は明るくなって、暗くなった。ファイナはベッドで一人で眠った。久方ぶりの熟睡で隈も取れて、奴隷とは思えない健康体に戻っていく。


「聞いた? 汽車の事故で……」


 使用人の世間話を耳にしてすぐ、ファイナは屋敷を抜け出した。老人は死んだ。ファイナの首輪は無くなった。なら、ファイナはもう人間に戻れる。



 百九十近い美しい女が馬車から降り、御者に銅貨を手渡す。ぱしんと縄を打たれて馬が歩き出す。馬車がいなくなってようやく、ファイナは白い帽子を脱いだ。


「──おねえちゃん?」


 そこで、ファイナは弟と再会した。


 ファイナは近くのカフェに入った。水煙草を借りようと思ったが、弟の手前、やめておいた。弟はアイスカフェオレを二つ頼み、席に座る。


「会えて嬉しいよ。僕のこと覚えてるよね?」

「うん、もちろん。私の最愛のエリオット。ああ、無事でよかった……!」

「えへへ」


 エリオットは水滴の浮いたグラスを揺らし、氷をからからと鳴らした。それから喉を鳴らしてカフェオレを半分ほど飲む。大きな喉仏が浮いて、ファイナは時の流れを感じた。

 「僕、この近くで郵便を届けてるんだ」と嬉しそうに話す弟の目元には茶色い隈が色濃く刻まれ、真っ白だった鼻にそばかすが浮いて、痩けた頬にもいくつかしみがあった。


「ちゃんとご飯食べられてる?」

「まあまあだね。でも元気だよ、おねえちゃんに会えたから!」


 エリオットはとびきりの笑顔を浮かべた。それはファイナがお姉さんぶって文字を教えてあげたとき、「おねえちゃんはすごいや!」と笑ったときの顔とおんなじだった。

 あれから大変な人生だっただろう。植民されるあの村から抜け出して、火国の民に紛れ込み、生きていく。もしかすると最低限の食事を与えられる奴隷よりも死にやすい環境だったかもしれない。老け込むのも当然だ。それでも、エリオットはいま笑っている。ファイナはそれが嬉しくて、顔を綻ばせた。

 それからファイナ達はこれまでの時間を埋めるようにたくさん話をした。あれから変わったこと、変わっていないこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、大変だったこと、意外と頑張れたこと──。カンカン照りだった外はいつの間にか日暮れになって、カフェの戸を開けると、光の薄い青空が出迎えた。


「じゃあ、おねえちゃんは用事があるから、ここでバイバイだね」

「用事ってどこに?」

「え? 北の、線路の方だけど……」

「僕もそっちに用があるんだ。一緒に行こう?」


 エリオットはファイナの手を握り、歩き出す。ファイナは釈然としなかったが、彼女にはまだ誰かの命令に従う癖が残っていた。黙ってついていく。

 しばらくの間、二人で線路沿いを歩いた。風が気持ちよかった。草木が揺れる音が耳を癒やし、互いの体温が心を温めた。

 地面がざらついた砂からしっとりとした雑草に変わる。ファイナは立ち止まり、ポケットから地図を取り出して、バツ印を指で追いかけた。この先に木々の生い茂る森がある。そこで、あの老人は脱線事故で亡くなった。


「もうそこだから、エリーは帰っていいよ」


 ファイナはエリオットの手を離し、くすりと笑う。


「本当は用なんてないんでしょ? 相変わらずおねえちゃんを驚かせるのが好きだね。もう、甘えん坊さんなんだから」


 しばらく何の音もしなかった。エリオットは俯いている。ファイナが口を開こうとしたとき、弟が顔を上げた。


「どうして逃げるの? 今度こそ一緒にいられるのに」


 ファイナの笑顔が凍りつく。「え……?」と思わず呟いてから、ファイナは表情を取り繕って弁明した。


「逃げるとかじゃないよ。さっきも話したでしょう? おねえちゃんは奴隷なのに逃げ出してしまって……あのね、実はある人にそれがバレちゃったの。だからエリーがおねえちゃんの弟だって知られたらエリーまで捕まっちゃうかもしれない。それは嫌でしょう? だから、ね、良い子だからバイバイしよう?」

「──じゃあ二人目だね」


 早口に説明したファイナだったが、エリオットの言葉に口を噤む。得体のしれない恐怖がファイナの鼓動を速くする。

 二人目? 二人目って……


「何が、二人目なの……?」

「姉さんのために殺すケダモノの数だよ!」


 「……は?」ファイナは自分の息が浅くなっているのを感じた。エリオットを見下ろすと、エリオットもまたファイナを見つめていた。なぜかどきりとした。いや、もうわかってしまった。ファイナはエリオットが怖いのだ。

 だけどエリオットはファイナに愛されていて、エリオットもファイナのことを愛している。だからファイナの動揺は彼にも伝わってしまった。


「どうしたの? 何か怖いの?」


 エリオットはファイナの頬に手を添えて、さらりと撫でた。硬い皮がファイナの柔らかな頬に薄い傷をつける。


「怖いものは僕が全部無くしてあげる」


 「おねえちゃんは優しくて弱いんだものね。だから僕は、きっとここにやってくるはずだって思って根城にしていたんだけど……」とエリオットは顎に手を当てて首を傾げる。彼は本当に、自分の犯した罪の重さを理解していないようだった。


「安心して。もう、守られたりしないよ」


 エリオットがファイナをぎゅっと抱き締め、頭を撫でた。ファイナは身を固くしている。愛しいのに怖い。頭の中がぐらぐらとして、何か重大な天秤が軋んでいるのを感じた。

 ファイナの速すぎる鼓動に、エリオットは頬を緩める。


「よかった。あんなジジイに股を開いたせいで綺麗な姉さんが汚れちゃったと思ってたけど、そんなことない。姉さんは綺麗なままだ!」


 その瞬間、ファイナの意識が戻った。腕から溢れた花束が地面に墜落するより速く、拳を握って振りかぶる。


「っあぶないなぁ……」


 殴りかかったファイナの手を掴み、エリオットは困り顔だ。ファイナは息も荒く痛いほどに拳を握った。切り揃えた爪が肉に食い込み、赤い血が流れる。鉄臭さが花の匂いと混じって胸が悪くなる。


「おねえちゃん、怖いよ。急にどうしたの?」


 エリオットは困ったように微笑みながらも、目の奥は笑っていなかった。手首を掴む力が強くなっていく。


「それとも……もう、おねえちゃんは──」


 そのとき、遠くで汽笛の音がした。横の線路に汽車が通りかかる。それは馬車とは比べ物にならないスピードで、ファイナの長い髪を鋭い風が揺らした。耳がきんとなる。

 瞬間、汽車の最後の車両から何かが飛び出してきた。その何かはエリオットに飛びついて下敷きにする。ハイヒールが宙空に跳ね上がり、漁船の上にいるかのように水気と鱗がビチチッとファイナ達に降り掛かった。汽車の白煙はファイナの視界と嗅覚を遮るが、その“何か”が魚に縁のある人間で、二人が揉み合いになっていることはわかった。


「いってぇ、何すんだテメエ!!」

「アタシの、に、手ェ出すんじゃ……ないわよ……!」


 「パーシー!?」とファイナが素っ頓狂な声を上げた。パーシヴァルの声音には可笑しな音階と節がくっついていて、ファイナは何重にもびっくりした。

 二人は殴り合いをやめ、ファイナを見上げる。

パーシヴァルの方はケンケンと咳をしている。無理が祟って身体が言うことを聞かなくなったようだ。しかし、エリオットはそうではない。伽藍堂の瞳は痛いほど見開かれ、ファイナを映した。


「ァんだよその妙な男女おとこおんな。……おねえちゃん、違うよね? おねえちゃんはまだ僕だけのおねえちゃんだよね?」


 まるで二重人格だ。ファイナは意表を突かれ、何も言えず唖然とする。しかしそれは悪手だった。

 エリオットはふらりと立ち上がり、懐に手を入れる。そこから覗いたのは銀色の輝き。ペーパーナイフだった。


「……やっぱり、そうなんだ」


 ゆっくりとファイナの胸にナイフを向ける。


「おねえちゃんは貴族の犬になったんだ! 男に媚び諂って、平気で笑ってる、売女になったんだ! おねえちゃんじゃないおねえちゃんなんていらない! ああああ!!」


 それは悪夢のような光景だった。弟がナイフを振り翳し、ファイナの胸に突き刺そうとするその瞬間が、コマ送りのように流れていく。ファイナには逃げる隙もなかった。パーシヴァルは蹲っていて、立ち上がる力もない。確実な死がファイナを襲う──

 パァン、と乾いた音がした。それからどさりとエリオットが倒れ、肩からどくりどくりと真っ赤な血を流した。

 ファイナはぱっと顔を上げた。手前の林から衛兵が現れる。その奥には彫刻のような顔のリューゲン公爵が見え、「捕まえろ」と一言告げた。衛兵は息を合わせて返事をし、エリオットに群がる。ファイナは我に返って弟に駆け寄ろうとした。それを衛兵達が邪魔をする。


「やだっ! やめて! エリー、エリー!!」

「死にはしない。被弾したのは肩だ。運の良い奴め……」


 リューゲン公爵が暴れるファイナの首根っこを掴み、衛兵達をエリオットのもとへ戻す。ファイナはしばらく呆然としていた。弟が撃たれた。弟が倒れた。衛兵が弟を捕まえに来た。弟は、まだ生きている。


「……よかった」


 ほっと息をつくと、リューゲン公爵はファイナを地面に下ろす。衛兵達の隙間からエリオットの片方の手首に手錠がはめられるのが見えた。金を持たない犯罪者の未来は決まっている。エリオットはファイナを助けるために、犯罪奴隷になる……

 そこで、ふと気がついた。ファイナは顔を真っ青にして周囲の地面を見回した。ナイフがない。リューゲン公爵が持っているのか? そう思って顔を上げた、まさにそのとき、公爵の背中にナイフを突き立てようとするエリオットを見てしまった。今度のファイナの視界はスローモーションにならなかった。咄嗟に立ち上がった際の足の筋肉の痛みと、肩口に侵食する金属の熱さと、驚いた公爵の声、それから何かが弾ける音が連続で聞こえた。

 ファイナが目を開けたとき、ファイナはエリオットに押し倒される形で地面に背中から倒れていた。エリオットの身体は驚くほど重たかった。やけに衛兵が静かだ。ファイナはずるずると身体を後ろに動かして、自分の腹の上にうつ伏せになって倒れ伏すエリオットに「エリー」と呼びかける。返事はなかった。ファイナはエリオットを抱きしめる自分の腕がなぜか真っ赤になっていることに気づいた。エリオットを改めて見下ろした。背中に、無数の穴が空いて、そこからとめどなく血液が漏れ出している。


「はっはっはっはっ……」


 ファイナはエリオットを助け起こし、重たい頭部を膝の上に乗せた。エリオットは眠っているようだった。手にはナイフを握り、辺りの草を赤く染めながら。


「はっはっはっはっ……、…………ああ……!」


 ファイナはエリオットの握るナイフを取り上げた。刃先を自分に向け、喉元を搔き切ろうとする──


「やめろ!」


 ファイナのやることはすべて誰かに邪魔される。いつも、そうだ。

 ファイナの持つナイフから血が滴った。青くない、普通の血だ。リューゲンはナイフを握りしめてファイナを怒鳴りつける。


「お前はなんのためにここに戻ってきた!! 思い出せ、ファイナ!!」


 ハッとなった。ファイナが唯一、出来ること。もしかしたら上手くいくかもしれないこと。なんとしてでも、誰に止められても成し遂げないといけない、大事なこと。大事な大事な親友のこと。

 足音がした。ざっ、ざっ、と摺り足気味の、力無い摩擦音。それから小さな影が差した。ほとんど沈んだ太陽を遮って、パーシヴァルはファイナの側で膝をつく。そして弱々しい力で抱き締めた。ファイナの身体の力が急に抜けて、パーシヴァルの胸に寄りかかってしまう。


「……アタシ、先に死ぬのは自分だと思ってた」

「……ごめん」

「いいの。死にたいときってあるわよね」

「パーシーもあるの?」

「ええ。ご飯がないとき、寝る場所がないとき、仕事が見つからないとき、あとは……恋が実らなかったときとか」


 くすっと冗談のように言われたが、ファイナにはそれが本気に思えた。そしてふと思い出す。


「……さっき、私のことを“大事なコ”って……」


 「きゃっ!!」とパーシヴァルが顔を真っ赤にする。それがあんまりにも可愛くて、ファイナは、心に残ったひとつの感情を思い出した。


「ごめんなさい、好きだなんて言うつもりはなかったの。うっかりしてたわ。馬鹿ねアタシ……」


 けんけんと咳をしながら、パーシヴァルは自嘲的に笑う。呼気から海の匂いを感じた。噎せ返るような死が掻き消されていく。ファイナはその薫りに吸い寄せられるように、パーシヴァルの唇を奪った。深く、深く。


「んんっ!?」


 十秒、二十秒、三十秒と甘い時間が過ぎていく。パーシヴァルの舌の筋肉の突っ張りが緩んだとき、ようやくファイナは唇を離した。ファイナの口内に潮の味が残っている。


「なんてことするの!! ああ、どうしましょう。あなたが死んじゃう……駄目だわ、か、神様……!」


 パーシヴァルは半狂乱になって祈るように手を組んだ。ファイナは色気のない慌てっぷりに噴き出して、その土気色の額に中指を弾いた。でこぴんだ。キャン、とパーシヴァルが鳴く。

 それから「何するのよ!」と睨んできた彼に、ファイナはにーっと笑った。


「もう治ってるよ」

「え?」

「私、パーシーのことが好きだから」


 パーシヴァルはしばらくぽかんとしてファイナを見つめていたが、やがてフッと糸が切れたように倒れた。眠り姫のようなその面差しからは、まるで魔法が解けるみたいに、ゆっくりと宝石のような鱗が剥がれて元の白い肌が見えてくる。

 ファイナが大慌てでパーシヴァルを起こそうとする。リューゲン公爵が頭の痛そうに額に手を当て、衛兵は困惑したように顔を見合わせている。

 まだ明るさの残る空に小さな星が瞬いた。



 弟の遺体は公爵家預かりとなった。衛兵とは汽車駅の前で別れ、ファイナとパーシヴァルは公爵家へ連れて行かれる。

 パーシヴァルはこんこんと眠っていた。医務室に通され、ファイナは必死に背負った恋人をベッドに寝かせる。リューゲン公爵はカーテンを半分だけ閉めて、なぜかドクターが座るような位置にある一人掛けのソファに座った。手前にあった丸椅子を顎で示され、ファイナもそこに腰掛けた。

 静かだった。心の糸が緩んだのか、ファイナは急に身体が重くなった気がした。いけない、と自分を叱咤する。ここはまだ敵地。簡単に気を許しては殺されかねない。けれど公爵家の執事が部屋の奥から出てきて、ファイナの前にハーブティーのカップを差し出したので、どうにも調子が狂ってしまう。ハーブティーは、ラベンダーとレモンを思わせる、フルーティでフローラルな薫りがした。

 リューゲンもカップに口をつけ、小さく息をついた。切れ長の目をファイナに向ける。


「もうほとんどわかっているが、改めて聞く。お前の──」

「あなたの望みは何だったんですか?」


 先にファイナが切り込んだ。執事が片眉を上げるのが気配でわかったが、彼女が無礼を謝ることはなかった。

 リューゲンも咎めず、口を開いた。微かに言い淀む。それから淡々と告げる。


「お前を買った老人は、私の医術の師匠だった」

「えっ!?」


 ファイナは一度に開示された真実に混乱する。

 つまり、公爵家が一等優秀な医師との繋ぎを持っていたのではなく、リューゲン公爵自身がその優れた医師だったということ? いや、それよりも……

 ファイナは老人との日々を思い浮かべたが、痩せた裸の躰と萎びた性器しか思い出せなかった。あとは書斎と……そのくらいだ。書斎には確かに医術書もあったが、他の兵法や占星術に関するものと同じくらいの量だった。幅広い見識の持ち主だったのだろう。


「そう、だったんですね。……すみませんでした、私も、……弟も」


 エリー。胸に亀裂が入ったような痛みを感じた。ファイナは意識的にそのことを考えないようにして、目の前の男と向き合う。


「……どうして俺を庇った?」


 ファイナの謝罪を聞きもせず、リューゲンが尋ねる。ファイナはハーブティーに口をつけた。ゆっくりと答える。


「命は大事なものだから。……なんて言いたいところですが、簡単ですよ。弟にこれ以上人を殺させたくなかっただけです」

「そうか。……俺を恨んでいるか?」

「……まあ、多少。でもこのごに及んで捕まえようとしないでくださいね。命を助けた分の見逃しはあってもいいでしょう?」


 嘘はついていない。でも、リューゲンもファイナも、心から互いのことを知ろうとはしていない。彼らはどこまでも貴族と庶民だ。平行線が交わることはない。


「フン。庶民は卑しいな」

「褒め言葉です」


 ファイナはルージュの掠れきった青紫の唇を笑みに歪めてみせる。

 それにリューゲンは何か言おうとするように息を吸って、やめた。彼の灰色の瞳に、虚空を見つめてぼんやりとするファイナが映っている。


「物思いに沈んでいるところ悪いが、お前にはそこで寝てもらう」


 「ええっ!?」ファイナは我に返った。


「屋敷には血液がない。俺の型は基本的に誰とも適合しないが、お前なら可能性くらいはあるだろう。調べる価値はある。見たところ姫鱗病だろう。あの鱗やら何やらは血によって作られるからな、貧血には血しかない。先に言っておくが、お前に手を貸す義理はないからうちの使用人の血を流させるのはお断りだ」


 リューゲンが一気に捲し立てるものの、その半分もファイナは理解出来ない。ファイナは自分が利用出来そうにない学問の書物は目を通していないのだ。彼女は自分の能力が非凡でないことを理解していた。


「なっ、急に何の話ですか? 血? ど、どういうことで……」

「──お前の恋人が死にかけている」


 リューゲンは端的に宣告する。


「…………え?」


 ファイナは愕然とし、ふらりと立ち上がった。振り返って、引き千切るのではないかというほど乱雑にカーテンを開け放ち、恋人に駆け寄る。


「だ、だって結ばれたんですよ。きっと寝てるだけですよ。ずっと病気だったから、疲れてて……」


 寝顔を食い入るように見つめ、手を鼻と口の少し上に当てて空気の動きを確かめようとするが、次第にファイナの顔色が悪くなっていく。パーシヴァルは息をしていなかった。

 まるで水死体だ。剥がれきってシーツに散らばった水底色の鱗が、ファイナの指先を掠めた。冷え切った硬質さが心臓を氷のようにする。


「疲れで人は死ぬぞ、ファイナ。いいから寝ろ。そして──」


 ファイナが無力感に膝をついたとき、張り詰めた糸がぷつりと切れる。意識が急激に遠のいていく。誰かが、おそらくリューゲンがファイナを抱き上げて隣のベッドに寝かせた。


「ありがとう、ございます……先生……」


 半ば無意識の言葉だった。五感が遠のいていく中、ハッと鼻で笑う声が最後に聞こえた気がした。



*

 聖国の教えのひとつに、双子は忌み子である、というものがある。起源は定かではない。神様がそう仰るなら、それが正解なのだ。

 とある国にも、その教えの犠牲になろうとしている子供達がいた。本来は殺さなければならない。しかし愛情に満ちた両親はそれを嫌がった。


「ととさまに預けましょう。大丈夫、本当のことは黙っているの。貴男が流行り病に罹ったということにしましょう。村二つ分も離れているのだから、貴男が本当は元気だなんて、誰もととさまに教えたりはしないわ」


 片割れは母方の祖父に預けられた。祖父が娘の嘘を見抜いていたのか、片割れにはわからない。だが祖父は自分の子供のように片割れを育てた。片割れにとってはそれだけで充分だった。

 やがて、戦争が始まった。祖父は軍人だった。片割れは彼に痛いほど抱き締められ、その大きな背中を見送った。片割れはそれから漁村の女達から見守られ、ほとんど一人で生きることになった。炊事に洗濯に畑仕事。彼は日焼けすると肌が真っ赤になるから大変だったけれど、それでも頑張った。祖父が帰ってきたら褒めてもらいたかったから。

 それは、片割れがそんな生活に慣れ始めた頃だった。


「……じいちゃんが、死んだ……?」


 その知らせを届けたのは母を名乗る女だった。漁村の人達は片割れに同情するあまり、伝えることができなかったのだ。しかし二つも跨いだ村の女が祖父の死を知っているのなら、そこには本当に血縁があるのだろうということが片割れには理解出来た。

 片割れは三日三晩泣き暮らしたが、それでも悲しみが薄れることはなかった。その間、母はずっと側にいてくれた。片割れがまともに口がきけるくらいに落ち着いた頃、母はようやく片割れが双子の片方であることを告げ、最後に今後の話をした。


「女のふりをしなさい。男だと見抜かれては駄目、戦争に行かされる」


 片割れは頷いた。まだ第二次性徴の来ていない片割れは、背も肩幅も何もかもが小さくて、声も女の子のように高くて丸いものだった。

 その後、母は自分の守るべき子供のもとへ帰っていった。母の住む村にはもう人間がほとんどいないらしい。そんな中、子供を置いて片割れのもとに駆けつけたのだった。


「こんなことになったなら、もう双子でも関係ないわ。あの子に説明したらまた来てもいいかしら? 今度こそ、一緒に暮らしましょう」


 往復、だいたい一ヶ月くらい。そう聞いていたから、片割れはその倍の時間を誰もいない小屋で過ごした。母が帰ってくることはなかった。何かあったことは確かだ。戦時中の治安は最悪だ。パンを一切れ持っていただけで袋叩きにされ、持ち去られる。そもそも女の身ひとつでここまで来られたことが奇跡だったのだ。

 片割れは襤褸着の裾で目を擦って、漁村を出た。戦争から逃れるためだ。海の近くでずっとずっと船を待った。片割れを連れて行ってくれるのなら、どこの国でもいい。片割れには学がなかったから選択肢を知ることも出来ないのだ。しかし何の因果だったろう。片割れの忍び込んだ船が行き着いたのは、聖国だった。

 密入国を果たした片割れは、そこで一人の女と出会う。片割れはもう慣れっこの女言葉で彼女に笑いかけた。


「アタシはパーシヴァル。あなたなら、パーシーって呼んでくれてもいいわよ?」



*

「──ルーシー!」


 ファイナが目を覚ましたとき、彼女の肩には包帯が巻かれていて、そこから伸びる手首には小さな絆創膏が、そして指先は恋人の手と繋がっていた。パーシヴァルの手は温かくて少し湿っている。すう、と穏やかな寝息が聞こえ、ファイナの意識は過去から現在へ浮かび上がり、また微睡んでしまう。

 しかし、バタンと勢いよく扉の開いた音でファイナの眠気はどこかに行ってしまった。半身を起こして出入り口の方を見ると、リューゲン医師が仁王立ちしていた。ファイナは慌ててベッドを降りる。


「完治した」

「ッ、本当ですか!? よかった……ありがとうございます、本当に……」


 胸の奥がじんと熱い。ファイナは涙を浮かべ、リューゲン医師を見上げた。そこで、あれ? と思う。リューゲン医師の氷壁のように冷たい顔がなんだかおかしい。唇の端が柔らかに上がって、頬も緩み、目は細められ…………笑って……いるような……?

 不気味だ。ぶるりと震えるファイナを他所に、リューゲン医師はパーシヴァルに掛けられた毛布の上にぴらりと二枚の羊皮紙を落とした。見ろと言いたげだ。ファイナがそれを覗き込んだとき、ちょうどパーシヴァルも目を覚ましたところだった。二人の視線が文字と図解を追う。


「ひとつ、面白いことがわかった」


 99.99。リューゲン医師は、二人の名前の横に記された不思議な数字を指差して告げた。


「お前達、双子の兄妹だったぜ」


 ファイナとパーシヴァルは正反対の、でもよく見ると瓜二つの表情を浮かべる。医務室に二つの絶叫が迸った。



 カフェーは他国から持ち込まれた文化だ。戒律を踏み躙りながら、異国人が二人、水煙草を蒸かす。手元には装丁という言葉も知らないようなぼろぼろの本がある。

 女は胸の零れ落ちそうなワンピースに硬派なジャケットを羽織っており、仄かに花の薫りがした。匂い立つ肌は今日も健在だ。指先には数箇所の切り傷。頁を捲るときなたまに肩をピクりとさせるくらいで済んでいるが、手先の感覚はこれから取り戻していくしかないだろう。夜は少し困るかな……と思ったりするくらいで。


「新しい職業くらいはそろそろ訊いてもいいわよね?」

「ええ。シスターよ」


 少女のような男は、暫し子猫のようにジッと恋人を見つめた。恋人は「本当よ」と肩をすくめる。


「ここの店員も楽しかったけど、結婚するなら……続けるのはちょっと。そういう趣味の人に粘着されると困るもの」

「じゃあ、溜まり場は変えなくちゃならないのね。アタシの部屋でいいかしら?」

「ベッドでもいいわよ」


 男はフスッと鼻だけで控えめに笑った。彼は女に「自分のことをもっと大事に……」とは言わない。そう思いたくなるよう、自分がドロドロに甘く大事にしてやるつもりだった。だから女の冗談にも付き合う。……まあ、もともとそういうヒリつくことを言う友達同士だったから、別になんてことないのだが。

 レースの手袋で頬杖をつき、男はすらりと長い白磁の脚を組む。その視線は本の中に沈み、何かを考えているようだった。


「子供は作らないわ」

「私もそのつもりよ」

「そもそもアタシ、別に籍を入れなくてもいいのよね。一緒に居られたらそれで」

「フッ。私もそうよ」

「仕事も、新しいのを見つけてきたわ」

「なに?」

「漁師」


 アハッ、と女が大口開けて笑う。「最高」とも。


「さっきから賛成してばかりだけど、大丈夫なの?」

「ええ。前からそうだったでしょう? 服の趣味も、本の趣味も、全部おんなじ」

「…………そうね」


 男は目を伏せ、リップの塗られた小さな口でグラスを呷った。彼はあまり酔わない質なので、この行為に意味はない。女の最後の営業に付き合っているのだ。案外キリリとしたまなこが、女を見上げた。


「運命に抗う準備は出来てる?」

「あら、聞いたことない? 双子って前世の恋人同士だそうよ。正に運命じゃない」


 格好をつけているのだろう。キンと冴え渡って微笑みもしない女は、目の奥だけでキャッキャと咲っていた。男は彼女の人生を思った。

 彼らは医者の去った病室で、これまでのことを語り合った。そこに嘘はひとつもなかった。盛り上がりさえした。けれど。


──「面白いものを見せてもらった。代わりに、そこの馬鹿の罪は帳消しとしておく。感謝しろよ」


 公爵が言い残した言葉を信じてはいなかった。

 だから男は、これから女と世界から逃げ続けることになる。女は一人なら身軽だ。けれど、男は……強くて美しい彼女に限ってなら荷物になるだろう。あの病は鱗という小金をくれたが、それも全て公爵が──


「パーシヴァル」


 久しぶりにちゃんと名を呼ばれ、顔を上げる。


「あなたも“お姫様”なの?」


 何もかもを見抜く翡翠の瞳だった。パーシヴァルはしばらく黙っていたが、ガタッと椅子を鳴らして急に立ち上がる。カツ……カツ……と高らかにヒールを鳴らして数歩だけ歩き、女の椅子の側で跪いた。店中の視線が集まるのを感じながら、パーシヴァルは一度深呼吸する。


「ミス・ファイナ」

「……なあに?」


 パーシヴァルは立ち上がる。胸に手を当て、カーテシーのように腰を低くして頭を下げた。祖国で使われている王族への礼だ。深く深く膝を曲げる。背中は真っ直ぐに。

 ファイナはパーシヴァルが何をしているのか気がついた。パーシヴァルは礼をやめて直立し、恭しく頭だけ下げて手を差し伸べる。


「……わたくしと結ばれてくださいますか、姫君」

「従者の分際でよく言えるわね」

「愛は王にも負けませぬ」


 クッ、とファイナが喉で笑いを堪える。パーシヴァルも床を見ながら笑っていた。

 砂と泥で煤け、毒の煙のくゆる、不埒な店。世界一最低で、世界一自由な場所。カフェーの観衆は「あーもうやめやめ」みたいな顔で席に戻り、新たに誕生したカップルから視線を外した。二人は傍から見て女同士だったが誰もそんなことは気にしない。気にするのは教会だけで、この場は無法者の集まりだから。

 パーシヴァルの手が何かに触れる。キュ、と握られる。ファイナの手はひやりとしていて、少しだけ柔らかかった。パーシヴァルとファイナは全然似てない顔でおんなじ表情になって手を繋ぐ。


「よろこんで!」


 その後、懲りもせずに教会の門を叩いた。やっぱり神は二人を祝福しなかったが、二人は満足げに中指を立て、新しい家に帰っていった。

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シスターマーメイドの告解 藤龱37 @fsana_rkgk

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