剪断
樅木 霊
剪断(1)
まだ誰もいない研ぎ澄まされた教室に柔らかな朝陽が差し込む。眼鏡の表面で
さほど長くもない通学路であったが、ここぞとばかりに労いを込めて、重たいスクールバッグを下ろしては横柄に自席に座ってみせる。早朝の教室だけは僕を自由にした。ここで吸い込んだ酸素を燃料に、また明日まで潜水して泳ぎ抜く。誰からも干渉されない時間は息継ぎのために必要だった。下駄箱、机の中や脇のフック。これらはずっと前から使わないことにしている。その代わりに寿司詰めになっているのがロッカーだ。使用には立体パズルを解くような思考力と忍耐力が要る。──496。ダイヤル式の南京錠を外して、外履きや教科書を押し込んだ。
七時を回ってすぐの職員室には、教師でさえ数名しかいない。僕は必ず扉の前で呼吸を整えて、生徒手帳を取り出した。そこに書かれたルールに則り、四回のノックをし、例文の文言に自分の名前を入れて読み上げるためだ。
「一年二組の
変声期に差し掛かった声を放り投げるのは手続き的な儀式である。どうせ言い終わるころには学年主任の
内田先生はいつも、僕の登校よりも前に教室のある生活棟を巡回して、各階の廊下の窓を少しずつ開けておいてくれる。もちろん今日はそれもまだだったから、締め切られた十月初めの校舎は、昨日の粗野な中学生たちの残り香がじっくりと蒸され、生乾きの幼稚な臭いを
狙いが定まらず何度かジャンプをしたせいで、窓から校庭がちらりと見えた。今日は金曜日。朝練があるのは陸上部とソフトテニス部、それからサッカー部だ。この時間であれば、意欲的な生徒が
跳躍による開錠のコツを掴んで、ちょうどこの階のすべての窓を開け終わるとき、階段を重々しく登るバランスの悪い足音がした。右足を引き摺って歩く内田先生のものだ。先生がいつもやっている仕事に気が付いて、それを手伝ったというのは、優等生然とし過ぎている行為だと意識される。このまま会ってしまうのは決まりが悪く思えた。巣穴に戻る小動物の如く、
「
内田先生は生徒全員を下の名前で呼ぶ。親の品性が知れるようで、不要に女々しい自分の名前はあまり好きではない。やたらと家庭での自分が想起されるせいで、学校での
「いつも早く来ていて、一人でしたいことだってあるよね。邪魔してごめんね。」
半分笑って言ったその声色は、より一層まろやかで秋めいていた。スタンドアップコメディみたいなジェスチャーと合わさると、僕には「どうしてこんなに早く来ているか説明しろ。」という詰問を誤魔化しているように感じられる。自嘲気味な後ろ姿を輪郭の結ばれない眼鏡のフレームの外へとさっさと押し出してしまう。閉じた口の中で空気を上げ下げして返答の音声を作ろうとしても、「いじめられるのを少しでも防ぐため」という本当の理由は言えない。また嘘を吐くしかないのならと、不規則な足音が去っていくのをじっと待った。
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