リトル・マー・メイド
朝永 優
ある友人の告白
やあ、おめでとう。あんな披露宴は見たことも聞いたこともないものだったよ。ご両家とも格式と伝統のある家だし、来賓の方々もテレビでお顔を拝見したことしかないような人たちで、本当に友人とはいえあの席に自分が座っていてもいいのだろうかと思ったくらいさ。ところで急に呼び出したりしてどうしたんだい?ああ、君が聞きたかったのは君の家で住み込みの家政婦さんをしていたあの子のことか。式のしばらく後から姿が見えなくて、あの子を紹介したぼくに行方を知らないかということだね。
そうだね、この際、君には包み隠さず全部話してしまうほうがいいかもしれないな。
君は「小さな人魚姫」の話は知っているね。王子を助けた人魚が人間の姿になって、王子の愛を得たいと願うあの話さ。いやいや、古臭いお伽話をするつもりなんかないよ。今から話すこれは現実の話さ。
去年だったか、君は何かの事故で怪我をして入院してたことがあっただろう。実はあのとき119番に通報して君を病院に担ぎ込んだのはあの子だったんだ。そんなことがあるわけないと思うかもしれないが、あの子は気を失っている君に一瞬で心を奪われたらしい。それからはいつも君のそばにいたい、君の声を聞いていたいという一心だったんだそうだ。
ところで君は人間にもラテン語で「尻尾」と呼ばれる器官があることを知ってるかい。君やぼくみたいな全人類の半分にはくっついている例のアレさ。実はあの子にはそのとき、それがあったんだよ。信じられないかい?無理もない、誰もが振り返るほど本当にきれいな子だったからね。それで人魚姫と同じように、「魔法使い」のところに行って尻尾を取ってもらったんだ。確かシンガポールの病院だったかな。今はその手術もわりに簡単にできるようになっているということだが、それでも結構なリスクがあるらしい。「自分は万が一この手術で死んでも構いません」という誓約書を書いたらしい。それで僕があの子を空港へ迎えに行った時、びっくりするほど真っ青な顔をして車椅子に乗っていたんだ。その後ぼくの伝手であの子が君の家に就職するまであまり時間がなかったから、住み込みの家政婦として健気に毎日勤めていたけれど、後遺症はひどくつらいものだったろうね。まるであのお話しの人魚姫みたいにね。それから、あの子の声は一度も聞いたことがないだろう?同時に声帯の手術も受けたんだが、これは失敗してしまってね。とんでもなく高い妙な声か、ひどく低いガラガラ声しか出せなくなってしまったのさ。声を奪われてしまったんだ。まるで人魚姫みたいにね。
声のことではこんなこともあったらしい。君の家のダイニングで料理を配膳する前に置いておくサイドボードの上に小ぶりな花瓶があるだろう? あれにあの子がカラーの花をいつも少し活けていたのを覚えているかい。あの子は真っ白で凛とした佇まいのあの花が大好きだったんだよ。それである時あの子がそうしているところに君が来合せたんだそうだ。
「その花が好きなのかい?」と君が尋ねたらしい。「以前事故に遭って入院したとき、気がついたら枕元にその花があってね。まだ家族も到着する前だったから誰が置いてくれたんだろうと不思議だったな。これはぼくにはなんだか神秘的な花なんだよ。」と君は言ったんだそうだ。あの子は当然言えなかった、君の枕元にそれを置いたのは自分ですって。声さえ出せれば、何か伝える方法があったのかもしれないね。
だからあの子はときどきあんなにもの問いたげな表情で君を見つめていたのさ。伝えたいことがあるのに、死ぬほど伝えたいことがあるのに、伝える手段がない。愛する人が毎日こんなに近くにいるのに、その手に触れることすらかなわない。
それとは逆のこんな話も聞いたな。覚えているかな。ある日の夕食が君一人でご家族が誰もいないということがあったらしいんだ。たまたま他のご家族が夕食にお帰りになる予定がダメになって、テーブルについたのは君だけだった。いつもの夕食ならスタッフが何人かつくんだが、その日はあの子が一人で給仕したんだ。嬉しい反面とても緊張したとも言っていたな。それでちょうどメインが出ているときに君が床にナイフを落としてしまったんだそうだ。君は自分だけの席だからと思って気軽に床のナイフに手を伸ばそうとした。あの子は君に「お任せください。」とかなんとか言いたかったんだが、声が出ないからね。とっさに駆け寄ったんだが、君が先に拾ってしまった。ほんの一瞬だけ君たちの手が触れ合った。そこでかがみこんだまま「失礼しました」という風に頷いて顔を上げると、目の前数十センチのところに君の顔があったんだそうだ。何秒間か君たちの視線が合った。すぐ手が届くところに突然君がいたんだ。そのあとは食事が終わるまでなんとか給仕を務めたけど、自分の心臓の鼓動が君に聞こえやしないかとひやひやしていたらしいよ。
で、つい数か月前に君の結婚が決まったんだ。君にはご両親の言う「立派な家柄で由緒正しく、どこに出しても恥ずかしくない」、なにより君の家の後継ぎを生むことのできるお嫁さんが来ることになったわけだ。
君のフィアンセが初めて君の屋敷に来た時のことをあの子が話してくれたのを覚えてる。五月晴れの素晴らしいお天気で、運転手付きの黒塗りの高級車から降りてきたフィアンセはシンプルだけど一目で上質なものと分かる淡いブルーのワンピース姿で、まるでたった今温室から届けられたばかりの丹精込めて育てられた蘭の花みたいだったと言っていた。彼女のことを、あの子は眩しいものでも眺めるように薄暗い玄関ポーチの奥からそっと見ていたんだそうだ。君たちのためにずらりと整列した使用人の列の一番端っこで、いろんな痛みを堪えながらね。
君も最初のうちはあまりこの話に乗り気ではなくて、ご家族の熱心なすすめやフィアンセの情熱にほだされたんだなんて言っていたね。お父様も何度も『お前の気持ちはどうなんだ? 』とお聞きになったって。そういえば、ちょうどそのころ君の居室を掃除しているときにあの子が急に君に呼び止められたことがあったとも言っていたな。呼び止めたはいいけれど君は何も言いだすことができなくて、『……いや。なんでもない。』と言ってあの子を行かせたとか、ぼんやりとだがそんな話もされたよ。ひょっとして、君はあの子の気持ちに気づいていてくれたんだろうか。
でも結局結婚の話がまとまって君の家はみんなハッピーになった。但しあの子一人を除いてね。今までもずっと絶望的な状況だったのに、あの子にはこれが決定打、チェックメイトだった。もともと自分の立場や自分の出自や自分の体のことやいろんなことをすべてひっくるめて、あの子は君のお嫁さんになるなんてことはとても願えなかった。それにあの子にはどうあがいても、天地がひっくり返っても君に可愛い赤ちゃんを産んであげることだけはできない相談だったしね。そして何よりも美しいお嫁さんと可愛いお子さんに囲まれて今後君が送る幸福な生活を君のそばで見ていることは、あの子にはどうしてもできないことだったんだよ。
あの子が今どこにいるかって? 会って話をしたいって?そうだね。やっぱりその話をしなければいけないよね。君の家でお世話になっている間、ぼくには毎週のようにあの子から連絡があったんだ。最初のうちは高揚した気持ちにあふれていて、あの子が君から直接労いの言葉をかけてもらった日なんか一日中嬉しくて頬が緩むのを隠すのが大変だったとかったなんて言ってたな。でも君の結婚話が出た頃からだんだん文面の調子が変わってきた。最初は自分のような半端なものが、これからますます世の中で地位や名誉を得ていくはずの君のそばに仕えていることに対して疑問を持ちはじめたというようなことだったのに、しまいに自分は世の中に存在していても本当にいいのかというようなことを少しずつ文末に書いてくるようになったんだ。そしてある日を境にぷっつりと連絡が途絶えてしまった。最後のメールでは君には是非幸せになってほしいということと一緒に、「自分は海に行く」と書いてあった。それを読んでぼくは嫌な予感がしたんだ。
「海」と言ってもどこの海岸と書いてあるわけじゃない。だがぼくには何となく見当がついた。幼い頃ぼくらが夏休みよく一緒に遊んだ鄙びた海岸があるんだよ。昔は結構人気の海水浴場だったけど、いまでは細々と漁業を続けているだけのある小さな街さ。今でもやっている民宿だってもう何軒もないから、片端からあの子のことを聞いて回ったよ。でもあの子に会えたのはそんな場所じゃなくて、街のただ一軒の小さな病院だった。髪や服も全身ずぶ濡れになって、真っ白な顔をして、まるで陸にあげられた人魚みたいだった。発見されたのはつい数時間前だったと聞かされたよ。
だからあの子はもうどこにもいない。あの子にはもう会えない。アンデルセンのお話しの結末通り、もう決して戻れない海へ帰ってしまったんだ。
あの子、つまり戸籍上でのぼくの弟は、ね。
リトル・マー・メイド 朝永 優 @yu_tomonaga
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