第37話 ただの火球魔法

 現れたのは、グルガン正教会で最も有名な大司祭、ハバルだった。


 すでに老人でありながら、その瞳はやけに釣り上がっている。温和な人格で知られる男だったが、今はそう見えない。


「いけませんねえ。これはいけない。私の大切な聖剣使いが、なんと無惨な。さてはお前達、悪魔の使いではないかな?」

「悪魔なら、今ここで伸びている男しかいませんが」


 司祭はジロリとこちらを睨むと、鼻で笑った。


「このワシが悪魔と言ったら、悪魔なのだよ。なあそうだろう、みんな」


 ローゼシアの騎士達は、唐突な光景に戸惑っていた。僕も大いに困惑している。不可思議な登場、意味の分からない物言い。


 もしかしたら、彼はすでにボケてしまったのかもしれない。などと一瞬考えたが、すぐに誤りだと気づいた。


 黒く不気味な靄が、ハバルの全身から湧き上がってきたからだ。それはこれまで見た何よりも奇妙で、どこか芸術的な色と形をしている。


「まったく、ズィーベンのバカめが。あれだけしくじるなと言ったろうが。どれほど尻を拭わせるつもりだ。このような、つまらん殺しをさせるとは!」


 口々に呪いの言葉を吐いている。いつの間にか顔がワニのように変化していた。悪魔なら目の前にいたじゃないか。


 ……って、こうしている場合じゃない。僕はすぐにアリスの側に駆け寄って抱き上げた。


 そして何度も揺すったところ、彼女はようやく目を覚ました。


「ん……ん。キース……きゃ!? ね、ね、ねえ。あの人!」

「説明は後だ。まずはヒルデと一緒に逃げよう」

「逃すと思うか? 二百年待ち望んだ機会を台無しにした痴れ者を」

「は、はい?」


 アリスは突然目の前に現れたワニ顔の魔物に、甲高い声で聞き返した。何が起こっているのか、まったく理解が追いついていない。無理もないだろう。


 代わりに僕が話を聞いてやろうか。


「二百年……というと、魔王がいた時代だな。つまりお前は」

「ワシこそがその生き残りよ。我が名は——」

「いや、言わなくていい」


 ここで遮るのは紳士的じゃないが、相手のほうが無礼だ。問題はない。


「お前が裏で絵図を書いていたようだが……そこまでだ。誰だとしても問題はない。ヒルデを介抱するのが先決だ。お前の相手は、そこにいる騎士達がする」


 こう言われて、騎士達もようやくハッとした。すぐに剣を構え、勇敢にも魔物に向かっていく。


「この無礼者がぁ!」

「悪魔め! 死して償え!」

「成敗してくれるわ!」

「かかれぇー!」


 燃え盛る炎のように、騎士達は法衣を着たワニへと切りかかる。


「お、おのれ戯けがぁああー!」

「アリス、ヒルデのところへ行ってやってくれ」

「は、はい!」


 騒ぎ立てる魔物を無視して、アリスを弟の元へ走らせる。気の利いた騎士数名が、すぐに彼女を囲うように守りに入った。


「ひーくん! ひーくん!」


 アリスの悲痛な叫びが聞こえた。さっきから胸が痛いのは、きっと気のせいじゃない。


 こうしている間にも戦いは続いている。まさに戦場と化した草原で、僕は自分の仕事を続けた。まずは気を失っていたレスティーナを起こす。


「あら……? 私ったら、何を」

「説明は後だ。お前に回復してほしい子がいる」


 すぐに倒れ伏したヒルデの元へ連れてくると、聖女は驚きに声を上げた。


「まあ! 魔物ではありませんか」

「いや、まだ人間だ。そしてこれから、人間に戻すんだ。責任は俺が持つ、とにかく回復魔法を使ってくれ」

「あの……私からも、お願いします! どうかひーく……弟を救ってください」

「あなたは……アリス様!」


 やはり知名度が段違いだ。レスティーナはすぐに了承し、息も絶え絶えのヒルデに暖かな光を照らしている。


「アリスはここにいてくれ。僕は少しだけ席を外すよ」

「え? ど、何処に行くの!? まさか」


 アリスの瞳が驚愕に震えている。そして腕を掴むと、ぶんぶんと首を横に振った。


「魔物と戦うつもり? やめよ。み、みんなでここから避難して」

「大丈夫だ……アイツ程度なら」

「え、え」


 僕はこの時、ようやく理解した。どうやら彼女はまだ目覚めてない。裏ボスになった力や獰猛な心はまだ、静かに奥底にあるままだ。


 ずっと眠ったままでいてくれ。そう願いつつ、震える指をそっと両手で包む。


「大丈夫だ。大した奴じゃない。すぐ戻る」

「ほ……ほんと? 本当に」

「ああ」


 少しして、彼女はようやく手を離してくれた。さて、片付けをしないといけない。


 戦場に戻ってみると、状況が一変していることに気づく。騎士達は誰もが怪我をしていて、明らかに苦戦していた。


 そればかりじゃない。みんながファイアボールを放って、ワニを焼こうと必死になっていたのだ。


「はっはっはぁ! 剣が効かぬとみて魔法に走るか。しかし、ワシには魔法すらも効かぬ! この伝説の——」

「煉獄劫火球」

「あ、ああん!?」


 ワニがこちらを振り向いた。僕とあいつはまだ、十五メートルほど距離がある。


「……あ、ああ……」


 敵は固まっていた。僕が片手を上げて作り出している火球を見上げたまま、なぜか動こうとしない。


「そ、その魔法は……一体……」

「二百年生きてたんじゃないのか。この魔法を知らないなんて、がっかりだな」


 せめて一瞬でも、歴史の話をしたかったものだが。僕は諦めて手を振った。その動きにあわせて、作り上げた火球が奴めがけて飛んでいく。


「ま、負けるかぁあああ!」


 すると、ワニが大きく体をのけぞらせた後、周囲が真っ赤に染まるほどの光線を吐き出した。


 この魔物は、もしかしたらただ長生きしているだけじゃないかも。煉獄劫火球を必死に跳ね返そうとしている。


 押し比べというわけか。これは面白いかもしれない。僕は右手を向けて、火球に魔力を注いでみる。


 魔力瞑想によって溜め続けた魔力と同時に、周囲に湧き上がっている魔力も集めては込める。


 繊細な魔力自体を、僕は内側も外側も——つまり自分以外の存在からも集めて使うことができるようになった。


 騎士達が援護とばかりに、ワニの背中に矢や魔法を飛ばしている。


「ぐ……ぐぐぐぐゥ」


 どうやらもう限界が来てしまったようだ。もう少し粘ってくれても良かったのに。この時、僕はふと思い出した。


「そうだ。やっぱり最後に聞いておくか。お前の名前は?」

「……グ、グゥハァアアア!?」


 奴は二十秒程度で、とうとう押し合いに負けてしまった。火球が巨体を包み、派手な光へと変わっていく。


 長生きな化け物は、ただの火球魔法で炭へと変わった。


 しかしこの時、僕はヒルデが酷い目に遭った怒りで忘れていたことがあった。


 ジュリアンはこの件がきっかけで逮捕され、当然ながら学園には通えなくなる。


 つまり、本来あるべき歴史が大きく変わってしまうのだ。

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