祈りなき夜に去りゆく《アーロウ・キッド【I】》

静沢清司

第1話

  1


 曇天。

 石畳の上で眼をひらくと、私は酒瓶を求めて両腕をあちこちにやった。ようやくそれらしい感触がしてつかむ。飴色の瓶で、たしかに昨夜私が抱いて寝たものだった。瓶の口をついばむように中身を飲み干そうとしたが、すでに空だった。

「なにをしてんの」

 声をかけられ、顔をあげた。揺らぐ視界の真ん中に細い木のような影。瞑りから覚めた途端に、死神と邂逅か。くつくつと笑う。が、針のようなものが喉を衝いて咳こんだ。

「ちょっと、大丈夫?」女の声だった。

 彼女が手を伸ばすのを、私は腕で制した。レンガ造りの家屋の壁にもう片方の手をついて、立ちあがる。やっとだった。

「……すまないね」私はいった。

「なに、酔っ払い?」

「違う」

「でも、よろめいてる」

 私は笑った。「忘れたんだ、歩き方を」

 視界の端で彼女は小首をかしげた。

 彼女の脇を過ぎて、まっすぐ向かった。ひどい、ここまで頭が痛いと夢であってくれと思う。王国きってのミスリル騎士団に見つからなかっただけ、ありがたいが。

 あと一歩でひらけた道に出ようというところで、膝から崩れて、私は地面に頬をぶつけた。耳の上部にぽつ、と雨粒が落ちる。それ以外のことは、わからなくなっていった。

 そう、雨が降ろうとしていた。



 次に私が眼をひらいたのは、ベッドの上でだった。上体を起こして周りを見渡すと一坪かぎりの部屋で、少し埃臭かった。身体を覆うシーツはちょっと黄ばんでいる。

 ──上等だ。

 寝床が用意されているのは、なかなかないことだった。私はこのワンルームの隅にいた。家具は簡単な作業机と収納、このベッドだけだった。

「やっと起きたのね」

 奥の扉から姿を現したのは、知らない女だった。背丈は高く、だぼっとした服を身に着けているが肉づきのよさが見てわかる。

 女は机を動かして私のそばに寄せる。トレイを置いて、上にあったカップとスプーンを持ち、私に向かった。

「いきなりあたしの前で倒れたものだから、困ったものよ」

 湯気の立つ煮込みスープをスプーンですくい、私の顔に近づけた。

「単なる風邪だったわ」ぐっ、とスプーンを近づけてくる「厨房で作ってきたスープよ。早く食べたほうがいいわよ」

「おれに女房がいた憶えはないが」

 私はいって、スプーンにかぶりついた。生姜のきいた風味で、玉ねぎの甘さが口に広がって、身体の芯からほかほかと暖まる。

「美味いな」

「でしょう」ふふん、と彼女は胸を張った。「母さんが教えてくれた味なのだから、当たり前ね」

「なら、思うにきみはおれの母親か?」

 もちろん、私に母はいない。すでにこの手で殺したからだ。

「どちらでもないわ。女房でも、母親でも」

「ということは──」

「恋人、とかいうんでしょ」女はため息をついた。「今日が初対面。よかったわね、記念日になるわ」

 私は笑った。曇った空を切り取った長方形の窓を、彼女の肩越しに覗き見る。そろそろ出勤の時間だ。私は毛布を身体から剥がして足許へ投げる。左足を床につけたところで、彼女がスプーンを持った手で私の肩を押した。

「なにしてるのよ」

「出勤だ」

「でも、風邪ひいてんのよ」

 私は肩をすくめる。「そんなのしょちゅうだよ」

「単なる風邪といっても、治さなきゃ死ぬわよ」

 女はトレイにスープとスプーンを戻して、立ちあがった。そこで、彼女のことをどこかで見たことがある気がした。すぐにわかった。私がちょっと居眠りをする前、そばでそれを見ていたあの子だ。

「わかった、わかったから」

 九頭竜ナインズ・ヘッドに睨まれたみたいだ。私はベッドに腰かけて、彼女が座るのを待ちながら見ていた。眉間のしわが柔らかくなるまで、一分かかった。

「うちの旦那に似てるわ」

 椅子に座って、彼女は言った。

「さぞかしいけてる旦那さんだろうな」

「いいえ」彼女は首を振った。「いまのあなたみたいに、風邪をしょっちゅうひいてた」

「なら、おれの面倒を見てる場合じゃないだろう?」冗談のつもりで私はいった。たおやかなご婦人に世話を焼かれるのは、悪くない。

「大丈夫よ。もう、あのひとの面倒を見る必要はないから」

 とつぜん、彼女の瞳からいろが消えた。たった一瞬だったが、その一瞬を見逃さなかった。

 私は俯いた。「すまなかった。気をつけよう」

「まだ、なにもいってないのに」

 彼女はくすくす笑った。

「眼を見ればわかるよ」

「いい眼をしているわね。──なんていうのかしら?」

 童女のように顔をかたむけながら、彼女は訊いた。

「アーロウ」

「そう、よろしくねアーロウ。あたしはミリー」

「いい名前だ」

「母がつけてくれた名前だから」

 彼女はよっぽど母親が大好きらしい。私とは大違いだ。

 彼女、ミリーはようやくスープの二口めをくれた。一口めから待ち詫びていた私は、勢いよく喰いついた。

 やがて食べ終えると、次はベッドで横になった。というより、そうするよう脅されたのだ。

王都ここにはいつから?」天井を見ながら、私は訊いた。

「結婚と同時にだから、もう十年も前ね。レッドリバー州出身よ」

「おれの弟がそっちで傭兵として働いていたな」

「……いまでも、会ってる?」

 ミリーが気まずそうにいった。

「いや」

 私は瞼を閉じる。彼女も察したらしい。

 五年前。レッドリバー州は戦場の焼け野原となった。スフィア王国とバークリー帝国、両国間の一大戦争で、レッドリバー州に白羽の矢が立ち、多くの村や町が血と油と火花であふれるという惨たらしい変貌を遂げた。

 そもそも、この戦争の原因は州同士の領土争いから始まったものだったが、帝国の将校が自分たちで秘密裏に開発していた兵器を王国内で放ったことで、戦争の火種は広がっていってしまった。

 いまでも、その争いは続いている。

「あたしは、戦争より優先すべきことがあると思うわ」ミリーはいった。

「というと?」

「魔王よ」ミリーは窓のほうを見た。「すぐ近くのオットー村は、魔物によって雑草と土くれだけが残ったというわ。しかも、魔人がいたなんていう情報が出回っている」

「魔人、か」

「まあ、眉唾ものだけれどね。都市伝説にすぎないわ」

「だといいな」

「え?」

 私は立ちあがり、ベッドから離れた。ポケットから銀貨十枚を彼女に握らせ、ドアに向かった。それぐらいあれば、ここの休憩代とスープの食費、二日三日の飯はまかなえる。

「ちょっと、まだ……」

「風邪で一日中引きこもるくらいなら、一日早く死んだほうがマシなんでね」私は視線だけを彼女にやった。「ありがとう、世話になった」

 捨て台詞を吐いて、ドアを引いて廊下へ出る。階段を降りて、店主に礼をいって外に出た。見上げると、低く垂れこめた曇り空が大鴉の爪で引き裂かれたような形になっていて、そのあいだから太陽という瞳がこの王都を覗き見ていた。

 周囲に眼をやって、どうやらここは中央広場からそう遠くないことがわかった。北東に掲げられた旗──ウェアウォルフのシンボルマークが刺繍されている──を目印に、私は歩いた。

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